漢字の現在

第113回 漢字の密集地

筆者:
2011年7月5日

書店の書棚には、怪しげな漢字の並びをもつ辞書もある。縦書きの背表紙で、書名の漢字が1字ずつ下から上に、逆に置かれている。いくら修飾語が後ろに置かれる性質の文法をもつといっても、これは奇妙だ。何冊かそういう物が並んでいて、漢字が読めない人がデザインしたのか、確信を持っての独自の配置法なのか、気にかかる。

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不可思議な書体字典も並んでいる。道士のような編者名のものもあり、気になり、ビニールが掛かっているが、2冊買ってみた。日本でよく使われている書体字典はそれ自体を遡ってみると面白い物のようだが、それを左右に組み替えたようなものがそのうちの1冊で、ベトナム書道史を反映したものでなかったのが残念だった。

実は、文廟では売っていなかった『三千字』を探していた。

「天地」をティエン・チョイ、ディア・ダットと、字音と、字義に対応する固有語とを重ねて読みながら学習するテキストだ。日本でいう文選読みのような読み方をするのである。ベトナム語の「訓」が代表的な漢字義と合わないものや、同語を反復させたり、対応する語が2語になっていることもある。「超」には「大きい」が対応させられていた。

現代語では、この『三千字』式に単音節が複音節になり、重箱読みのようになっている混種語がいくつもあるそうだ。日本では広く定着し使われているのは「日にち」くらいか。そのように語を重ねないと通じないケースもあり、漢字を用いないためか、同じ意味の語を重ねていることを忘れている人もいるとのことだ。なお、朝鮮半島でも、「天はハヌル・チョン」というように漢字は字義と字音とを合わせて唱えられており、固有語によって漢字を何とか理解しようとした先人の営みが残っている。



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文廟で。「師」は簡体字ないし俗字。

ほかの本に気を取られていると、連れが見つけてくれた。1,000字少ない『二千字』まであった。活字版で、チュノムまで添えてあり、これは面白い。30,000ドンと、本が安い。

もとは清朝の版本が二種あったとのことで、祖父からそれで漢字を教わって、今も持っているという人もいる。さらに『五千字』のほか、『一千字』もあるとか。

『チュノム大字典』という分厚い辞書が書店の奥の高いところにあった。1,200,000ドン。漢喃研究院の図書館にもあるという。同名の1冊本は「私たちは使わない」というが、せっかくなので買ってみた。一つの書店にはなぜか上巻1冊だけが置いてあり、60万ドンが定価だが売値は54万ドンというシールが貼ってあった。4年ほど前のものだが、新本として扱われている。

さらに回ってみたら、2冊揃って置いている店があった。合計で5,000頁以上、厚みも30センチくらい、10キロくらいあり、重くて大きくかさばる。4年も前に出た専門的な本があちこちの書店に置いてあるところが驚異的であった。しかも、割引ができ、値段が店によって違う。現地の方が、値引きを試みてくれたが、すでに120万ドンが102万ドンになっていたので、それで引き取った。送ると高くつくし、早く読みたいので、スーツケースにぎりぎりで収めたところ、他の手荷物がいっぱいになって溢れ出た。

店員は内容や在庫をはっきりとは認識していないようで、うちにはないといっても、棚には配置されていることが何回かあった。中身を知りたいといえば、見るためにビニールを破いて確認してくれる。何というかとても分かりやすいアバウトさ、良い意味でいい加減さも兼ね備えた国民性に親しみを感じた。

そして、翌日にはもっと漢字が密集している施設に訪れた。1,000年以上前に建てられたと言われている永い歴史を持つ文廟は、ヴァン・ミエウと地元では発音する。中国にもある孔子廟であった。

ここは中国か、と見紛うほどに漢字が随所にたくさん記されている。さすが儒教を国の教えとした「科挙の国」だけのことはある。中国では辛亥革命を前に、国家公務員の登用試験である科挙はついにその任を終えたが、ベトナムはその後も十年余りの間、漢字圏で最後まで逸材発掘のために科挙を行っていた。漢字のことを、今でも「字漢」(トゥーハン)とも「字儒」(チューニョー)とも両方言うと学生たちは語っていた。その対が「字喃」(チューノム・チュノム)ということだ。

ベトナムでは、今でも大学生のことを「生員」(シンヴィエン)と呼び、大学卒を「挙人」(クーニャン)ぶ。科挙の用語が残っている。博士は「進士」(ティエンシイ)と称する(第19回参照)。今でも博士という意味で日常的に使われているのだ。事実、ここには、15世紀以降の歴代の科挙合格者としての「進士」たちの氏名が石碑に彫って讃えられている。現在でも、教授の資格を受ける儀式がこの文廟において実施されているのだそうだ。雅楽(ニューニャック nhã nhạc)であろうか、演奏が始まる。日本の雅楽とはどこか違うものになっている。古いものは土着化しつつ周辺部によく残る。雅楽は中国に源を発したもので、韓国にもアアクとして伝わっているそうだ。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究により、2007年度金田一京助博士記念賞に輝いた笹原宏之先生から、「漢字の現在」について写真などをまじえてご紹介いただきます。