漢字の現在:漢字は消えても
2011年 7月 22日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第116回 漢字は消えても
ベトナム語には、日本語の影響も随所に見受けられた。空っぽのオーケストラに由来する「KARAOKE」は、街中で頻繁に見られたし、「HONDA」などの企業名もすっかり風景に溶け込んでいた。
飛行場では、掲示板に「THỦ TỤC」とある(第104回)。これは和語の「てつづき」が「手続(き)」と表記され、中国語に移入され、そのまま「ショウシュー」のように音読みされた。東遊運動などによって直接日本から、という可能性もあるが、おそらくはその中国語が他の語と同様にベトナムにも伝播し、漢字をベトナム漢字音(漢越語)で読み換えてローマ字で書かれた、という漢字表記を介して何段階もの発音の変遷を経たものだ。
そうしたもののほかに、学生たちに「カウラクボ」は分かるかなと聞いてみたところ、知っているとのこと。英語「club」との対応も分かる人がいるようだ。これは実は明治期に日本人が「倶楽部」と当てたものが、ベトナム漢字音で発音されて残ったものだ。日本では、古くは「苦楽部」など、別の当て字もなされた。中国では「克臈勃」といういかつい音訳もなされたが、日本の「倶楽部」に取って代わられた。それが中国経由で、ベトナムに入り、ついに漢字が忘れられ、原語との発音の差だけが気になるようになったものと思われる。ただ、韓国語でアメリカの通貨単位「ドル」を、日本での象形的な当て字「弗」を介して「プル」とも呼んでいることよりは、原音との差が小さいとはいえそうだ。
「ランマン」も通じた。漢字では「浪漫」だ。これも、日本で「roman」(ロウマン・ロマン)に対して明治期に、さんずいをそろえて当てられた漢字だった。これも中国に伝わり、やはりそこを経由して漢越語としてベトナム語となったものであろう。今なお、クオックグウで表記され続けている。これも英語との対応が分かる学生がいた。英語、中国語を介して、漢字はなくなったが日本語とベトナム語とがつながっている実例だ。元は日本の漢字表記からだとは意識していなかったようで、驚いた表情を見せてくれた。
このように、中国からの影響は色濃く、今なお強い。「勉強」は学習の意ではなく、無理に何かをすることというのも中国と共通する。
名前の前に付けられる「GS」は、最初、何かと思った。「教師」で「ジャオスー giáo sư」、教授のことだそうだ。「老師」(ラオスー)も、中国語のように聞こえた。
漢語が、かっちりした語に多いことは、韓国語に引けを取らない。「安全」は、「AN TOÀN」。機内や地震の話の通訳でも、見たり聞いたりできた。
ホテルの名は「HÒA BÌNH」だ。漢語で「和平」、日本では平和の意だが、その漢字表記は見当たらなかった。漢字を廃止し、アルファベット表記となって漢越語が目では通じなくなったことに、「もったいないねー」と言って微笑むベトナムの先生もいらした。
スーパーマーケットは中国では「超市」と訳されている。これは、中国語から漢字を介して入ってきたとみられ、看板にその漢越語としての発音(シエウティー)が、クオックグウだけで大きく表記されていた。ベトナムでも、語構成を「超」「市」と分析でき、わかる人もいるにはいるそうだ。
家内たちが旧市街でか服を買ってきた。付された説明には、「T恤」など中国語が簡体字で印刷されているのは、商品が中国製だからだ。広西や広州は近い。飛行機でも、上海についで広州と、中国上空を通ってきたことが、画面に表示されていた。
会話では、「ライライライライ…」という表現がしばしば聞かれた。中国語で言うと2声のようで、中国語そのもののようだ。漢越語では「来」はlai。どうも中国語から入ってきたことばらしい。日本でも「来来!キョンシーズ」とか「来来軒」というラーメン屋で何となく親しみがあろう。
しかし、中国一辺倒ではない。飛行機は、中国語で「飛機」、ベトナム語ではそれを漢越語化して「フィーコー」と呼ぶ。しかし、分かりやすい固有語で、からくり(機械)+飛ぶという意味のmáy bay(マイバイ)に戻った。いわゆる翻訳借用のようだが、ベトナムでは元々マイバイと呼んでいたのだそうだ。韓国での国語醇化(純化)運動による漢語の固有語化と方向似ているが、民族意識の発露よりも、分かりやすさを追求している感がある。漢字を捨てたから漢語が理解しにくくなったという面もありそうだ。「幼稚園」の語でも同様だ(第15回)。筆談ならば通じるという半ば幻想だったものは、さらに消えていくことだろう。
フランス植民地時代などの影響で、外来語も多数取り入れられていた。「ソミ」は、シミーズに由来するものだ。シャツのことを指し、男女のものを問わずに使う。母音がくっついて語形を長くする日本語とは対照的に、子音が音節の短いベトナム語風に削除され、表記もされなくなる。単語も、「PHO TO」(photo)、「KA RA O KE」のように、ベトナム語としてなのか単音節ごとに切って塊ごとに横書きしつつも、縦書きしている看板も何度か見かけた。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「ベトナムの菓子」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2011年 7月 22日







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