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漢字の現在:街中で見るローマ字

2011年 7月 26日 火曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第117回 街中で見るローマ字

 ハノイから自動車で4時間近くもかかって到着したハロン市は、中国に接するクアンニン省(Tỉnh Quảng Ninh 廣寧省)の省都だ。広西チワン族自治区(旧広西省)と広寧省が国境で接しているとは迂闊(うかつ)にも忘れていた。先日のハロン湾での観光船沈没事故は、夜の出来事だったとのことで、その後、検査も行われたのでむしろ安心だという。

 ベトナムの北部は、中国からの影響が地理的に近いだけに強く、何事につけても中国色が濃い。漢字を見掛けるごとに記録していたが、ホーチミン市よりも漢字を用いた看板類が多いように感じられた。日本でも、京都など近畿や九州を初めとする西日本には、そのような傾向がなくもないようで、やはりそれらの地は東京や北海道など東日本よりも、中国とは歴史的な関係も深く、地理上も近い。文化だって当然のことながら、中国の影響が濃厚だ。その分、古来の伝統的な独自性も際立ちはするが、よく見れば、どこにおいても漢字使用にだって地域差は見いだせるようだ。

 ハロン湾に向かう途中など、香港でも見かけたような竹を組んで足場にしたビルや高速道路の建築現場や、道が真っ黒となっている炭鉱街があるなど、車窓は退屈させない。ハノイからハロン湾へ往復する道のりでも、商店街であっても漢字が多めのところと全くないところとがあった。


路上で、「PHO TO」。

 表記には、それを使う主体が必ずいる。その主体は読ませる対象者を想定するのが通常である。いうまでもなく言語を表記するのであるが、日本語などで漢字を用いる際にはなんと読ませるのか、何語を表しているのかが曖昧になっているときがある。意味を情報として蓄える機能も発揮されているのだ。表記法が複数備わっている言語はきわめて稀だが、そこでは何らかの目的に応じて、文字体系の選択がなされることがある。そして使用された表記を読む人は、そこに何らかの言語外の効果までをも読み取ることがある。

 漢字は、外国語学習者を除いても、自国語の漢字や漢文の知識と読解能力から、筆談のような感覚で、外国の漢字を読んで意味まで理解したり、ニュアンスまで味読できることが起こりうる。その点は、ヨーロッパで文字や綴りが一致、類似する場合よりも顕著な特色である。

 100年ほど前のハノイ地区で撮られた写真は、絵葉書などに残っている。そこには、漢字があちこちの看板の中に今よりも多く写り込んでいる。そこにはローマ字が目立つものの、漢字の部分については当時の北京はもちろん、ソウル(旧名:漢城・京城)や東京の状況と、そう変わりはない。

 長く書いてしまったベトナム探訪記も、そろそろ終わりとなる。ここで、文字体系別に、街中で実際に用いられていた文字について、記述してみよう。

 

 いわゆる言語景観として見れば、街中で、国語(クオックグウ)の名を与えられたローマ字が一番多用されていた(第95回写真参照)。現代のベトナムにおける規範化された、アラビア数字を除けば唯一の文字であり、それがとりもなおさず生活の文字なのである。

 現代のベトナム語を表記している例は、以下のように枚挙にいとまがない。これらは漢字が消えて、ローマ字だけで記されている。

  行李  (第91回に述べた)
  郵電 ユウがブウという発音に対応していることは、やや意外であろう。
  留念 記念くらいの意。土産物店で。なお、lưu ýは「留意」。
  男 女 「WC NAM NỮ」

・ローマ字

 ローマ字を中国の筆字のようにデザインしたり、記したりしたものが散見された。看板で字を横に倒したり、1語ずつを縦に書いていく方法は欧米でも普通に見られるが、先に触れたとおり、日本や欧米から外来語として受け入れたKAEAOKEをKA RA O KE、PHOTOをPHO TOのように横書きで切って、1音節ごとに縦に連ねたり(写真)、中国式の対聯などのように、1音節(ローマ字では6字、7字になるようなものもある 前述)を筆字で1字のように塊のようにしてまとめて記すような漢字の名残もうかがえた。日本でも、かつてそういう試作があったように記憶するし、書家がそういうものを生み出しているが、それらは街中ではなかなか見受けられない。

 ほかにローマ字は、フランス・日本など各国の会社のロゴとして「HONDA」などでも用いられていた。ベトナム人にとってのローマ字は、カタカナももつ日本人が江戸の昔からずっと感じてきた憧れを含む距離感やかっこよさとは無縁の、ごく普通の文字となっているようである。写真売りの娘が街の景色の写真をヒラヒラと見せる。ローマ字だらけの看板が写っていた。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「漢字は消えても」でした。

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2011年 7月 26日