漢字の現在:ハノイの街の漢字
2011年 7月 29日 金曜日 筆者: 笹原 宏之漢字の現在 第118回 ハノイの街の漢字
・漢字
ベトナムの風景の特徴として、ローマ字だらけの街の中で、古典中国語すなわち漢文を表記するために漢字がところどころで用いられていることが挙げられる。ハノイやその周辺では、漢文が街じゅうに見られる点が日本と異なっていた。中国の都市部よりも多いのかもしれない。対聯のように「…国泰 …民安」などと門の左右に、ここでは達意の筆字で縦書きされている。ベトナム人による作文もあるようだ。漢文は、概して文語的、外国などでは翻訳語文的な文体的特徴を持つ文章を構成する。中国語音で上から下へと読むか、ベトナム漢字音で上からお経のように直読するかである。それは、特別な表現効果を企図し、受容を狙ったことによる表記という点も考えうるが、漢字が読めず、漢文も読めない圧倒的多数を占める層からは、ただの漢字の羅列としてしか受け止められていないのであろう。
ベトナムでは、「南無阿弥陀仏」も「ナムアジダファット」と読み、かの「般若心経」も上から下へと音読みで直読するのは他の漢字圏とほぼ共通しているが、漢文のような漢字列をベトナム漢字音で直読した語(第26回 「不得已」など)や慣用表現・諺(「富貴生礼儀」など)も多く、「首長要求全中隊集合」という発話でも、皆に通じるそうだ。これは、漢文が学校教育から閉め出されつつも、「開栓後要冷蔵」「体育館利用者以外駐車禁止」が耳で聞いて分かるという面をもつ日本語でも、そこそこ共通する話だが、ベトナムでは文法機能を表す「因」「雖」「被」なども漢語のまま定着している。ただ、純粋な漢文では、詳細で正確な伝達は困難な場合がほとんどだろう。
やはり気になるのは、現代のベトナム語という言語を漢字で表記しているのか、という点である。現代のベトナムでの、現代の言語に対する漢字使用については、どうであろうか。
看板の類では、文章というよりもキーワードや固有名詞を、ロゴのようにして用いている。本の背表紙には、古くに見られた下から上へと向かうような字の配列のレイアウトをもつものもあった(第112回)。
ベトナム人向けには、字義とその醸し出す雰囲気だけを伝えるような使用が目立つ。額縁に「福」「徳」などと書くと説明してくれた先生は、「徳の意味は?」とお聞きになった。日本・ベトナムの漢文の専門家が日本語では対応するものが確かにはっきりせず、日本語の「しつけ」に当たるかとも尋ねていらした。
大震災に伴う原発事故で、福島(フクシマ)の名を上げて心配してくださった。ベトナム語の「福」(フック)と同じ福であることにはお気づきでないのだろう。思えば、福井、福岡と、和語に前接して複合する形をもつ県名ばかりだ(方言アクセントに特色のある地域と重なるのも奇遇だ)。中国の「福」は、それほど、漢語のよそよそしさを捨て、日本人の暮らしの中にも溶け込み、人々の慣れ親しむところとなった概念だったのだろう。安定感があり、少し下膨れしたようないかにも福々しいこの字体は、何かしら人の表情や容姿と重なって感じられもするのだろうか。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)などがある。最新刊は2010年10月に発売、“漢字の現在”を映し出す『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)。
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「街中で見るローマ字」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2011年 7月 29日








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