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漢字の現在:ハノイの漢字は誰のため?

2011年 8月 30日 火曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第124回 ハノイの漢字は誰のため?

 ハノイの街中では、日本語表記のための漢字は、「日本大使館」、「天馬株式会社」と書かれた看板のほか、日本人向けの案内・パンフレット・メニュー・注意書きの文章などに見られる程度で、日本語として読んでもらうことを目的とした使用はほとんどなかった。開高健は、かつて僧侶と漢字で筆談をして意思を伝え合っていたが、少なくとも街頭ではそういう意図を感じさせる例は見かけられない。

 日本製品は、テレビの製品などが人気で、良いと評判だそうだが、日本語そのものの看板としては、概してひらがな・カタカナは少ない。よくある怪しい日本語も探せば見つかったのだろうが。ひらがなの「えにし」という店名が看板にあったほか、先に触れたローマ字でTOSHIBA、HONDAなどが見られた。

 日本の社名もあちここちで見られたが、ローマ字で「TOSHIBA」と書かれていても、よもやベトナム語の「ドン」(トン 東)が含まれている東芝(東京芝浦電気から)だとは思わないのであろう。

 

 韓国語を表記する漢字はどうだろうか。それが1つだけ目に飛び込んできた。この看板は、韓国人向けのもので、韓国語として読んでもらうことを目的としたものであろうか。本国にもある店で、その漢字表記をそのまま使っているだけであろうか。アニメと、イ・ヨンエ(李 英愛)主演のドラマで好評を博したあの「チャングム」が、この「長今」であることは、アニメ化作品まで視聴した日本人でも知らない人がいる。


看板に「大長今」。店名。ハングルでもテチャングム。

 路上を走る、ハングルだけが車体に書かれたトラックは、単に車ごとこの国に持ち込んだだけであろうが、看板にあえてハングルを使っているものは、韓国の優秀な製品という印象をベトナム人に与えているのであろうか。ハングルや韓国語のローマ字表記は社名、店名に見られた。ほかに、掲示にはハングルが日本語の文字よりもかなり多く見られたのは、来訪者の数に比例した現象だろうか。

 こうした点も踏まえてみると、現代のベトナムでは、漢字は、歴史的な資料、古典の中の文字、古典を読むための文字か、現代の中国語や日本語など外国語を読むための文字、そして日本での梵字やルーン文字のようなお守り的な機能を持つ象徴として位置している。多くのベトナム人にとっては、そうした雰囲気だけを伝えるためのものとなっている。時間的にも空間的にも、現実の多数の生活から離れたところにある言語を主たる対象としているのである。日本における漢字のイメージ化どころではない、漢字そのものが位相文字化していて、ほぼムードだけを醸し出す点画となっているのである。

 言い換えると、ベトナムで漢字は、使用者も読者も、そして場面までも限定された位相文字として、存在しつづけていたのである。主な使用者と読者は、下記のようになろう。

  高齢者
  東洋史・国史・古典文学研究者
  僧侶
  書家
  中国語学習者
  日本語学習者

 そのうちで、あるいはそれ以外にさらにチュノムとなると、理解者の人口はもっと狭まり、使用者となると一層局限される。歴史的な民族文献、古典文学、史料は、研究所や博物館の展示品、収蔵品となり、研究や読解の対象となっている。辞典にもチュノム文が現れるが、チュノム字典の個々の字の出典表示はなおも十分すぎる状況にはないようで、その変化・地域差・位相を示すには至っていないことは、他国と同様だ。

 チュノムは、ベトナム語を表記する民族文字ではあるが、漢字の知識が前提となる文字で、それをさらに複雑化したり、運用を細かくしたものであり、漢字よりも難しくなってしまった。一時公用されたこともあり、文人に占有される中で、時代差、個人差、地域差も生じた。その字数は2万をはるかに超え、読解にも難をきたすなど、表音化とは逆の方向に向かった。日常語を記すはずの文字が、漢字よりも難化し、生活言語との乖離を生じ、距離を広げるという皮肉な結果を生んだのである。

 現代のベトナム人にとって、漢字は、

  ・ありがたみの感じられるもの
  ・古いもの
  ・深い意味がありそうなもの
  ・先祖のようなことばを表すもの

と地元の先生が語ってくれた。日本人と共通性もあるが、やはり生活から離れただけに、独自な意識も生じている。なるほど、歴史的な雰囲気を作ったり、芸術による美を愛でたり、神秘の文字霊を感じたりされそうだ。

 中国語や日本語といった外国語は、実用として漢字学習を求め、それが舶来品の雰囲気作りの効果を生み出している。日本人は、古めかしい書体や字体の字、「そば屋」(第6回)などで見かける変体仮名には、上記の古くてありがたいという意識を抱きがちではなかろうか。つまり、日常生活を送っている日常からは遊離しているのがベトナムの漢字である。

 なお、崩し字は、日本や中国では看板に見かける。行書や、読まれない草書まではかえって雰囲気作りに役立っているのだろう。

 ベトナムでは、日本では看板に多いゴシック体(元々日本産だが)は稀で、筆字の楷書が多かった。中国では隷書風のフォントも流行っているが、ベトナムにはその風潮は浸透していないようだ。また、ベトナムでは行書はともかく、草書は読めなくなってしまっていて、漢字の表す意味内容まで読んでもらうことが第一の目的だとすれば、使用される余地はない。漢字に余剰的な雰囲気を味わったり、崩し字を嗜むゆとりは、国民的には失われたのかもしれない。あるいは、余りにも古くさいと思われてしまうのか。ともあれ、文字生活から漢字が消え、実用性を持った書きやすい書体が失われたことと関連するのだろう。

 ベトナムに漢字は確かにあった。しかし、そのあり方は、中国や日本のそれとはさまざまな点で大いに異なっていた。それを知り、原因まで確かめようと試みたが、この十分とはいえない時間の中で、どこまで迫ることができただろう。

 ベトナムの人たちも心配してくれるように、日本のことが心配であった。テレビや新聞で少しは報道されていて、とくに原発は深刻なようだが、その後、どうなっているのだろうか。東京に戻れるのだろうか。現実に返る時となり、再びノイバイ国際空港へと向かった。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「囍」と東アジア」でした。

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2011年 8月 30日