2011年 9月 のアーカイブ

漢字の現在:ドット文字と略字

2011年 9月 30日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第132回 ドット文字と略字

 野球は、サッカーよりも得点が入る傾向がある。しかし、バスケットボールのようには入らない。ある年のプロ野球公式戦では、1試合平均合計9点程度だったそうだ。そうした点数を表示する野球場も、世の中の趨勢を受け、あるいは先取りし、電光スコアボードがすっかり一般化して久しい。アナログな点画を点描で示そうとするドット文字というものは、そもそもいつからあるのだろう。人間が動いて文字の形を体現する人文字は、唐代ころから舞としてあったように記憶するが、球場の座席のように人々の配置がマトリックス(ここでは格子状くらいの意)になっていたわけではなさそうだ。

 地方で大文字焼きなどとも呼ばれることのある京都五山(の)送り火も、よく見るとドット文字的だが、元より升目が碁盤の目状に定まっているわけではないようだ。はらいなどの斜め線をきれいに描くために、どこにでも点を置けるものは、偽ドット文字というほどでも、こずるいというほどでもないが、なにか違う。碁盤といえば、戦前には、碁盤の絵に、碁石を並べて文字を表した宣伝広告があった。これは、升目に従って点画を表すもので、一部ではタイルでも同様の表示が行われることがあるが、むろんそれらは発光はしない。高層ビルの窓ガラスのブラインドを上げ下げして文字や絵を表示するものもある。それは、発光はしているが、窓ガラスは縦長の物が多く、表せる文字に限界がある。

 「0」から「9」の数字を、「日」のような形にして7本の線で示す方式は、従来デジタル時計や株式市場の株価表示などで活躍し、「A」から「Z」までのローマ字(小文字も)も表そうとすることがあるが、後者は無理がある。昔、それをかっこよく感じて買った腕時計でも、月や曜日を表すローマ字は、「A」は何とかなっても「B」くらいから早くも表現上でも弁別上でも苦しくなり、線を何本か足して表示せざるをえなかった。

 ドット文字に戻ると、食品の包装には、「賞味期限」の4字とその期日の数字(とときには記号)がたったの7ドット前後で記されることがある。数字の部分が肝心な情報であり、元よりこの漢字列は点画が間引かれてもつぶれても何となく読める。後楽園が最後まで避けたいわば美学を軽々と突破している。書風のお手本となるわけではないので咎められることもない。読めれば十分な文字で、そこにお金を掛け、エネルギーを浪費する必要もない。明朝体の点の微妙な形やうろこ、筆押さえ、筆の入りまで示そうとするフォントから、地下鉄やバスの行き先などでのわずかに明朝体を意識した表示、「一」だけは鱗を付けて他の「-」「ー」などの記号と区別を表した表示もあれば、こういう素朴なドット文字も必要に応じて存在している。デザインする人も読み取る人間も、字を認識する能力を備えていればこそのことだ。


 「濾」のように、JISの表示装置用16ドット、ドットプリンタ用24ドットの字形には、点画の間引きをできるならば避けようとする目的もあったのだろうか、既存の理系社会での位相的な略字(沪)が選択された例がある。ビットマップフォント全盛期には、画面やプリントアウトにもよく登場したはずだ。一方、間引き字形を創出することで、元の字体として読ませる手法は、高速道路の公団文字が積極的なもので、見せるため、認知させるための極めて味のある位相字形だった。これは、新規には用いられなくなってしまった。

 ケータイの低解像度画面でのドット字形は、メーカーの人たちが点画を省きながらデザインしていったと報道されたことがあった。NTTドコモの絵文字だって、元は一気にデザインされたものと言う。ワープロソフトのワードも一太郎も、各種のメールソフトもWEBのページも、ブラウザ上ではかなり点画の略された字形が表示されているが、ふだんは気付かれていない。理解字であれば、その字として瞬間的にパターン認識されるためだ。ただ、あやふやに覚えられている字では、まれにそれをそのまま写した字体も紙面に登場することがある。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「野球と文字」でした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

「百学連環」を読む:術・技・藝の原義

2011年 9月 30日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第26回 術・技・藝の原義

 「學術技藝」の説明を始めるにあたって、西先生は「學術技藝」それぞれの字の検討から始めたのでした。前回は「學」を確認したところ。続いて「術」についてこう説明されます。

術の字は其目的となす所ありて、其道を行くの行の字より生するものにして、即ちの形ちなり都合克あてはめると云ふの義なり。

(「百學連環」第2段落第6文)

 訳してみます。

「術」という字は、目的とするところがあって、そこへ向かう道を行くという字から生じるもので、という形をしている。これは「都合よく当てはめる」という意味がある。

 前回、「學」のくだりでも「道」が出てきましたね。「術」とは目的に向かって「道」を行くことだという説明は、腑に落ちる感じがします。道があるということは、すでに先達が通った跡が残されているのでしょう。それは誰かがつけておいてくれた足跡を辿ることです。もっとも道なき場所に道を切り開こうという場合には、自分で術を編み出すことになるわけですが。

 現在の辞書で「術」を引くと、「人が身につける技」とか「手段」「方法」といった意味が出ています。これとの関連で一つ面白いと思うのは、英語のmethodもまた道に関係する言葉であることです。

 この語は、古典ギリシア語のμεθοδος(メトドス)に由来しています。由来するというより、それを音写したものであることが窺えますね。μεθοδοςは、μετα(メタ)とοδος(ホドス)を合成した語で、日本語では「方法」と訳されます。そして、合成される前のホドスは「道」や「旅」という意味を持ちます。また、メタはいろいろな意味を持つ前置詞ですが、ここでは「~にしたがって」と読めば、「メトドス」とは「道に沿ってゆく」という原義を持つと考えることができるのです。

 これはたまさか連想したことに過ぎませんが、異なる文化において、「術」と「method」あるいは「μεθοδος」のように、「道に沿ってゆく」という似たような発想の言葉であることは、道というものが人類史や文化史において持っている意味を考えるうえでも存外重要なことであるかもしれません。ここに中国の思想でいう「道(タオ)」との関連も加えて、道の思想史を考えてみたいところです。しかし本題から外れすぎてしまいそうなので、ここでは我慢します。

 さて、本文に戻ってもう少し見ておきましょう。こう続きます。

技は則ち手業をなすの字意にして、手ニ支の字を合せしものなり。支は則ち指の字意なり。藝の字我朝にては業となすへし。藝の字元トの字より生するものにして、植ゑ生せしむるの意なるへし。

(「百學連環」第2段落第7~10文)

 現代語ではこうなるでしょうか。

「技」は、「手業、手仕事をする」という意味で、「手」に「支」という字を合わせたもの。ここで「支」とは「指」のこと。「藝」の字は、日本においては「業」のことである。「藝」という字はもともと「」という字から生じてきたもので、「植えて生じさせる」という意味である。

 説明に判りづらいところはないと思います。ここでは「技」と「藝」の対比に注目しておきましょう。「技」のほうは、人が能動的に行う行為に重心があるのに対して、「藝」は植物を育てるように、なにか対象の世話を焼くというか、手をかけるというイメージがあります。

 こうした漢語、日本語としての學術技藝の意味は、果たして西洋の文脈ではどのようなものとして解釈されるのでしょうか。

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。

‘Wait a moment.’―『英語談話表現辞典』覚え書き(56)―

2011年 9月 29日 木曜日 筆者: 内田 聖二

前回は‘Let me see.’を取り上げましたが、今回は類似表現の‘Wait [Just] a moment [minute / second].’を考えてみます。

‘Wait a moment.’の表現の基本は文字通り相手になんらかの行動を止めさせたり、待たせたりすることにあります。本辞典であげた語義1がそれに相当します。

1 〈相手のしようとする行動を止めて〉ちょっと待って:“I’m going to open this bottle now.” “Wait a second. I’ll get a glass first in case it froths over.” 「じゃ, このびんを開けるよ」「ちょっと待って. 泡があふれ出るといけないから先にグラスを持ってくるよ」/ “I’ll go now.” “Wait a moment. You’re leaving your lunch behind, aren’t you?” 「行ってきます」「ちょっと待って! お弁当忘れていない?」.

この語義1から相手の話や議論を中断させる語義2の用法へと発展しています。

2 〈抗議して〉おいおい待てよ:“The taxi driver wants 23.50.” “Wait a moment! He said he would only charge us 20 for the trip!” 「タクシー代は23ドル50だって」「おいおい待てよ. 20ドルしかかからないって運転手は言ってたじゃないか」.

実際の行動、話などの中断から、さらに、思考の中断まで求めるのに用いられます。次の語義3と4がそれに当たります。

3 〈思い出そうとして〉えーっと:“Look at that yacht over there. It’s beautiful, isn’t it?” “Wait a minute, isn’t that the Golden Angel?” 「あのヨットを見てごらん. きれいだね」「えーと, あれはゴールデンエンジェル号じゃなかったっけ?」.

4 〈何かおかしいことに気づいて〉ちょっと待ってください:“Just a minute.” “What’s the matter?” “I dropped my car keys.” 「あれ, ちょっと待って」「どうしたの?」「車のキーを落としたみたい」/《目的地に向かって歩いているときに》 “Just a minute.” “Why?” “I think we’re walking in the wrong direction. Let’s look at the map.” 「ちょっと待って」「どうしたの?」「道を間違っていると思うわ. 地図を見てみましょうよ」.

‘Wait [Just] a moment [minute / second].’と‘Let me see’は意味は似ていますが、後者は「見させてほしい」「考えさせてほしい」といったように自分の希望を相手に要請することが中核的意味で、このふたつの表現を並列して使うことも可能です。次は三省堂コーパスからの例です。

‘The third isn’t good for me. What about the day after that?’ ‘The fourth?’ ‘Yes, Wednesday, the fourth.’ ‘Hmm . . . let me see. Just a moment, please. Uh . . . yes, that’s all right for me.’「3日は都合が悪い。その次の日はどうかな」「4日?」「そう、4日の水曜日」「えーと、予定をみてみるので、ちょっと待って。うん、大丈夫です」

なお、‘Wait a moment [minute / second].’の形で三省堂コーパスの「口語」で文頭にくるものを検索しますと、minute の頻度が一番高く、次いで second,moment となっています(BNCコーパスではminute, moment, secondの順)。また、minute は米語での割合も高いのですが、second に至っては米語107例、英語2例と米語が圧倒的です。一方、動詞が省略された、‘Just a moment [minute / second].’では、moment と minute の頻度が拮抗しています。また、second の頻度はその半分ほどになっています。

【筆者プロフィール】

内田聖二(うちだ・せいじ)
奈良女子大学教授
専門は英語学、言語学(語用論)
主な業績:『英語基本動詞辞典』(1980年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基本形容詞・副詞辞典』(1989年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基礎語彙の文法』(1993年)英宝社(衣笠忠司、赤野一郎と共編著)
『関連性理論―伝達と認知―』(初版1993年、第2版1999年)研究社(共訳)
『小学館ランダムハウス英和大辞典』(第2版1994年)小学館(小西友七・安井稔・國廣哲弥・堀内克明編、分担執筆)
Relevance Theory: Applications and Implications, 1998, John Benjamins.(Robyn Carstonと共編著)
『英語基本名詞辞典』(2001年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『ユースプログレッシブ英和辞典』(2004年)小学館(八木克正編集主幹、編集委員)
『新英語学概論』(2006年)英宝社(八木克正編、共著)
『思考と発話』(2007年)研究社(共訳)
『子どもとことばの出会い』(2008年)研究社(監訳)
『語用論の射程』(2011年)研究社

【編集部から】

語用論的な情報をふんだんに盛り込んだ、日本発の本格的な発信型会話・談話表現辞典、『英語談話表現辞典』について、編者の内田聖二先生にご紹介いただきます。
書籍購入者は、http://dce.dual-d.netにて本辞典の全データを収録したウェブ版辞典を無料でお使いいただけます。

クリストファー・レイサム・ショールズ(6)

2011年 9月 29日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・第6回

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サイエンティフィック・アメリカン誌1872年8月10日号;クリックで拡大

1872年8月10日、サイエンティフィック・アメリカン誌は、ショールズのタイプライターを1面で取り上げました。ハリントンへの納入も兼ねて、デンスモアが、ニューヨークのウォール街の近くにショールームを開いており、そこをサイエンティフィック・アメリカン誌が取材したようでした。ただ、この記事は、このタイプライターがショールズ一人の発明品であるかのように書いてありました。憤慨したのはグリデンです。グリデンは早速、抗議の手紙をサイエンティフィック・アメリカン誌に送りつけ、3週間後の1872年8月31日号には、その手紙が掲載されました。その後、ショールズは事あるごとに、グリデンを共同発明者として紹介するよう努めたのです。

1872年12月、デンスモアがヨスト(George Washington Newton Yost)という人物を、ミルウォーキーに連れてきました。運河ぞいに開設した工房で、ショールズのタイプライターを吟味してもらうためでした。タイプライターを大量生産できれば、1台1台の値段は下がり、もっと多くのタイプライターを普及させることができるはずです。しかし、ショールズにはもちろん大量生産の技術は無く、その技術を持った会社をヨストに紹介してもらおう、との算段だったのです。

1873年2月、ショールズは、公共事業委員会の幹事の一人として、東部の各都市を視察して回っていました。実は、ヨストとデンスモアが、タイプライター製造会社を求めてニューヨーク州イリオンに向かっており、ショールズも彼らと合流したかったのですが、職務上それは叶わなかったのです。3月1日には、デンスモアがE・レミントン&サンズ社と、タイプライターの製造契約を結んだのですが、ショールズはその場に居あわせることができませんでした。さらにショールズは、州知事のウォッシュバーン(Cadwallader Colden Washburn)に、ウィーン万博への出張を命じられます。ウィーン万博は5月から半年間の予定でした。結局ショールズは、ウィーン万博には行きませんでした。そして、公共事業委員会の幹事職も辞職したのです。

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「Sholes & Glidden Type-Writer」誕生を伝えるショールズの記事(Milwaukee Daily Sentinel, 1873年6月14日)

1873年6月11日、ショールズは、ニューヨーク州イリオンにいました。E・レミントン&サンズ社の社長レミントン(Philo Remington)と会うためです。ショールズの見たイリオンは、銃とミシンの生産で繁栄を極める企業城下町でした。そこでショールズは、新たなタイプライターのブランド名を、レミントンと共に決定しました。「Sholes & Glidden Type-Writer」それがショールズの決めたブランド名でした。

(クリストファー・レイサム・ショールズ(7)に続く)

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://slashdot.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

漢字の現在:野球と文字

2011年 9月 27日 火曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第131回 野球と文字

 パ・リーグの試合は、たまにテレビで放送されていて、ときどき観ていた。デーゲームや薄暮試合が多かったようだ。日生や藤井寺など、まだ行ったことのない地で繰り広げられる乱打戦は、夜のニュースで観てもワクワクした。あまり知らない選手が見慣れぬユニフォームで、指名打者制などセリーグと微妙に異なるルールで、日本シリーズ目がけて公式戦をしている。オールスター戦でも、そうした球場が映る。

 どこの球場だったか、チームの得点の合計欄に「R」とあった。誰かがたぶん何とかという英単語の頭文字だろうと言ったが、当たっていたのだろうか。

 神宮球場には、近頃も早慶戦に行った。客席が混み合っていて、外野席から子供とやっと入れて、敵方の中、静かに応援をした。そこでは、「宮」の字の「呂」が「口」と大きめの「口」とを縦に重ねた字体となっていた。由緒ある古い筆字を活かしたものだそうで、活字書体でもそうなっており、球場名などに波及したものだ。

 野球は数字のスポーツだ。主なプレーは数字となって記録され、成績も数値化される。球場ごとに、数字の字形には個性が溢れていた。とりわけ甲子園は際立っていて、「ろ」のような形で表現された「3」などは、今でも電光掲示板に受け継がれている。

 子供のころ、野球選手よりも審判員になりたいと思った。いや肩も弱く、何かと大変そうなので、公式記録員になりたい、などと本当に思ったものだ。ヒットかエラーかといった判断を瞬時に的確に行い、ホームランの推定飛距離を割り出し、ときには審判にボールカウントミスを伝える。自分が公式な記録を残す。予備は今、一人しかいないとか。一度だけ見た、写真で綴じ込まれていた本物の記録員による手書きのスコアカードは、実に整然として、きれいな字のもので、憧れだった。

 その公式スコアカードは、それまで本で身に付けた表記法(早稲田式であった)とだいぶ違っていえ、初めは「なんだ? これも覚えないといけないのか」と思ったが、シンプルで字も大きく見やすい。シングルヒットは「/」ではなく、大きめの「^」の下に「1」、ホームランは「◇」ではなく、「^」の下に「H」と書く。その慶應式とよばれるプロ野球セ・パ両リーグが採用しているスコアカードも練習してみた。今思えば、この状況も日本らしいことなのかもしれない。こういう表記さえも流派が分かれ、統一がなされぬままそれぞれに歴史を重ねることで、多様性が位相として維持されている。

 珍しく行ったスポーツ用品店で買ったスコアブックに、NHKのテレビ中継で高校野球4試合、続けて民放の巨人贔屓にも聞こえるプロ野球のナイター中継、それも時間切れで放送が終わればラジオで続きを聴取し、1日に合計5試合もスコアを付けた夏の日もあった。時間も体力もたっぷりとあり、学校の勉強も受験勉強も怠り、祖父母との食事中にも記入しつづけていた高校生のあのころ、意味をもつプレーが数字と記号、文字に置き換わることが楽しかった。選び抜かれた選手、特にプロ選手の行為に対して記録を付け、新記録に立ち会うワクワク、ドキドキ感も何度も味わった。

 何よりも、当事者としてではなく、一歩引いて、動きの何かを記録し、残すことが好きだったようだ。きちんと多くの情報がとどめられたそれを、後から見返すのも嬉しかった。絵を見えたとおりに描いたり、字を見えたとおりにレタリングしたり、転写したりしようとする癖ともつながっているのか。子供たちの繰り広げる試合は、初めはエラーが続出し、展開が大きく、付けにくそうで、まだ機会を得ない。ともあれ、スコアに基づけばフイルムがなかった時代のプレーもおおまかに再現が可能だ。ただ、記録の神様、宇佐見徹也氏によれば、一リーグ時代には、投球数などの欠けている記録や、観客数の分からない記録もあるとのこと、今となっては、正確なところは永遠の謎となってしまっている。

 野球からは多くを学んだ。高校野球やプロ野球の選手には、見慣れぬ姓が多い。その一因が野球選手を輩出する西日本での姓の多様性の反映だと気付くまでには時間がかかった。ありのままを記録にとどめていると、対象化の機会が得られる。ラッキーセブンとよばれる7回の表裏の攻撃時になると、それぞれのファンによって派手に応援が繰り広げられるのに、なぜか得点が入りにくく、意外に動きが少ないままに肩すかしを食いやすい。こういった、「口伝」や「常識」を再考する機会も多かった。今でも、そうした悪戦苦闘は対象を換えて、愉しみながら続いているように思われる。

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『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「後楽園球場のドット文字」でした。

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大規模英文データ収集・管理術 第8回

2011年 9月 26日 月曜日 筆者: 富井 篤

「トミイ方式」とは (3)

(3) データベースのツールとしての「トミイ方式」

前回(第7回)、英文データの収集方法として、大きく分けて次の3つがあることを説明しました。

1) 辞書添記方法
2) カード使用方法
3) パソコン活用方法

データベース(以下、DBと略称します)のツールとして使用できるデータは、まだここでは取り上げていませんが、「3) パソコン活用方法」で収集したデータだけです。

昨今では、英文データとして入ってくる情報はほとんどが電子化されたものですので、コンピュータに取り込むのは、比較的容易です。しかし、電子化されているデータだからといって、そのままDBのツールとして活用できるわけではありません。大分類、中分類、小分類など、できる限り細かく分類されてコンピュータの中に収納されていなければなりません。「分類」について取り上げるのは、この連載の第16回あたりになりますので、ここでは、「データベースのツールとしての分類」という切り口で述べて行きます。

データや情報が、すべて「カード」に記載ないしはコピーされていて、そのカードが分類されてカードケースに収納されている場合は、前回(第7回)、「影響」を例にとって説明しましたように、分類作業は、極めて楽です。しかし、コンピュータの中に収納されている場合には、全データの分類が先に終わっていて、ちょうど化学記号表のようにデータの「分類表」が作られている場合には、毎日毎日集まって来るデータを、その決められた場所――これを、これからは「お座敷」と呼ぶことにします――に流し込んでいけばよいわけですが、肝心のデータが十分な数だけ収集できていないうちに、先に「分類表」を作成するということは不可能であり、やはり、大量のデータを収集して初めて「分類」が可能になるわけです。

例えば、このような場合を想像してみてください。

大分類が「表現別」、中分類が「影響」までは分類してあって、その「影響」の中に、「影響」という英単語が内包されている文章が100点、言葉は汚いですが、味噌もくそも一緒に入っていたとします。そして今、その100の文章に「全員集合」(検索)をかけたとします。そうすると、100の文章が、PCの画面上に後から後からランダムに出てきて表示されるわけです。そのような状態で、一体どのように分類作業ができるでしょうか? 後から後から出てくる文章を瞬間的に記憶し、前方にあった類似した文章のそばに移動させたり、後ろへ移動させたり、気の遠くなるような分類作業を繰り返していかなければなりません。

それでも、今、例に取り上げた、大分類が「表現別」、中分類が「影響」の分類くらいならば、まだ、やってできないことはありません。ところが、大分類が「アルファベット順」、中分類が provide のような厄介な英単語だとしたらどうでしょうか? 翻訳を手がけるほとんどすべての人がご存じのように、この provide にはいろいろな「意味」や「用法」があり、したがって、その「訳語」となると、極端な言い方をすると、“文章の数ほど「訳語」がある”と言っても決して過言ではないほど始末の悪い言葉です。

provide という単語はそのような言葉ですので、私は、若干誇張して言うと、出くわすたびに集めています。そのため、provideという言葉を使っている文章の数は1,300以上あります。このような言葉を、PCの画面上で、記憶に頼っての分類など、不可能に近いことです。

しかし、その作業を容易にするための良い方法が2つあります。

そのうちの1つは、上に述べた「影響」を例にとって述べると、その100の文章をプリントアウトし、具象化することです。そして、その100の文章を1つずつカットして短冊状にし、それを分類していくわけです。ということは、なんてことはありません。分類の手法そのものは、「 2) カード使用方法」と何ら変わるものではありません。しかし、それでは、「 3) パソコン活用方法」ではなく「 2) カード使用方法」になってしまいますので、なんとか、歯を食いしばってでも「 3) パソコン活用方法」にしがみつかなければなりません。

そこで、もう1つの方法です。これは、邪道といえば邪道かもしれませんが、私がすでに作っている「トミイ式分類表」を使うことです。時間と労力を節約するのは、決して悪いことではありません。来年の1月ごろから掲載する“6「分類」の構成”という節で取り上げます。それまでお待ちいただく間は、読者の皆さんは、皆さんなりの方法でデータを収集し、分類・収納する方法を確立していただきたいと思います。

最後に、DBをどのようにして構築するかについては後に譲るとして、仮に出来上がったDBはどのように活用されるかについて、簡単に述べておきます。

この連載の第1回に、「トミイ方式」の大きな機能のうちの1つに

どのようなものを収集し、それをどのように分類・収納しておくと、どのような目的に使うことができる

ということがあることを述べました。収集・分類したDBの用途はたくさんあります。詳細は、今年の12月ごろ、“5「トミイ方式」の機能と目的”で説明しますが、ここに簡単に述べますと、次のことが考えられます。

  1. 手作りの辞書が作成、英文作成や和文英訳の際の強力な補助ツール作成
  2. 収集・分類の結果としてできたDBで技術英語・技術翻訳の独習
  3. 機関紙や雑誌への投稿、講演活動、翻訳関連国際会議でのプレゼンテーション活動
  4. 著作活動や語学教育における指導

やや手前味噌になるかもしれませんが、これらは、すべて筆者が実際にDBを活用してきた例ばかりです。ただ、これらは、すべて、十分な「質」と「量」に裏打ちされたDBでなければなりません、換言すると、かなり長期間にわたって収集活動を続けなければなりません。そうすると、お歳を召されている方には不向きかもしれません。しかし、若干、不謹慎であるかもしれませんが、現実に私の周辺にはそのような方々が多くいらっしゃいますので、あえて、もう一つ挙げさせていただくと

  1. 老化防止対策と道楽のすすめ

があります。

次回は“3「トミイ方式」のきっかけ”です。

【筆者プロフィール】

富井篤(とみい・あつし)
技術翻訳者、技術翻訳指導者。株式会社 国際テクリンガ研究所代表取締役。会社経営の傍ら、英語教育および書籍執筆に専念。1934年横須賀生まれ。
主な著書に『技術英語 前置詞活用辞典』、『技術英語 数量表現辞典』、『技術英語 構文辞典』(以上三省堂)、『技術翻訳のテクニック』、『続 技術翻訳のテクニック』(以上丸善)、『科学技術和英大辞典』、『科学技術英和大辞典』、『科学技術英和表現辞典』(以上オーム社)など。

An Unofficial Guide for Japanese Characters 79

2011年 9月 25日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki

<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 78

“Kansai natives” (1)

Up to now I’ve spoken about verbal characters from the perspectives of “class,” “status,” “gender,” and “age” (parts 5772), and addressed in detail one question I feel my readers may have had —are just four perspectives enough (parts 73 on)? Through this process, we have touched on some of the “Other” characters, such as the “Heian aristocrat,” “Westerner,” “country folk,” “cat,” and “Pyo–nese” (parts 76, 77 and 78).

With your permission, we’ll diverge from our main topic to talk about the “Other” characters a little bit more, particularly the “Kansai native”(1) character.

“Why is the ‘Kansai native’ an ‘Other’ character!?” (or in Kansai dialect: “Kansaijin” ga nande “ijin” ya nen!) I hear some of you retorting. As we saw in the example of Junichiro Tanizaki’s novel The Makioka Sisters (parts 15, 16, and 17), in this series I have said I am observing the “Japanese-speaking community,” but in fact I have only been looking at a very small part of this, the “standard Japanese-speaking community.” I apologize for the lateness of this disclaimer. I hope you will be placated to hear that the “Edokko” is also treated as an “Other” character (part 78).

So, what is normal to a “Kansai native” is only normal in the Kansai community, and not in the “standard Japanese-speaking community.”

Thus the “Kansai native” character reeks of “Other.” In fact, counterfeit “Kansai natives,” who try to utilize this smell of “Other” also crop up sometimes. An example of this is the painter in Yamamoto Shugorou’s Me no Naka no Suna:

I know a Western-style painter named T. He was quite well known as a member of the Shujitu Association, and although his paintings were drab and strange, they sold well so he was famous. Although he was born in Shounan(2), he fluently used Kansai dialect, which he said was the “secret to his sales.” He told me, “It’s hard to sell paintings speaking in standard Japanese, but everything goes smoothly when I speak in Kansai dialect. I can pull in the big bucks whenever I need.”

[From Yamamoto Shugoro Me no naka no Suna (in Neboke Shocho) 1948]

Ugh! What an unsavory artist, with his unsavory Kansai dialect! But if we can put aside this reaction (or even if we can’t), we notice the verbal character that this artist of Western-style pictures deploys when making sales is the “Kansai native,” which is a verbal character that specializes in selling things. When I say that “when we wish to engage in a certain communicative behavior, we deploy the character that is skilled at it” (part 11), this principle is not limited to the context of play but can in fact be observed more generally.

This case is similar to the carpet salesman I encountered in a certain Middle East country, who suddenly deployed a “Kansai native” character, saying Sonna tsumetai koto, iwantoite (have a heart!) when his sales negotiation hit a rough patch (part 5). In the case of the carpet salesman, his “Kansai native” is a failed character (part 74), as his sudden use of Kansai dialect for just that part of his sales pitch was strange, and there was no way someone with such a Middle Eastern appearance could pass himself off as a Kansai native (or rather as Japanese). No, this was probably a gag, aimed at failure, to elicit laughter from the customers and propel his sales negotiation in a more profitable direction. This sort of intentional character failure, which I suppose we could liken to a calculated bankruptcy or fraudulent marriage, is also of deep interest.

However, speaking of overlooked cases of “Kansai native” characters, we should probably cite the public prosecutor Yokoi in Takahashi Kazumi’s(3) Hi no Utsuwa.

(To be continued)

* * *

(1) See part 5 footnotes for more on the Kansai native character

(2) A region of central Japan, southwest of Tokyo.

(3) 1931–1971, novelist.

author

Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems)Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

角色大世界――日本 79

2011年 9月 25日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)

<< 角色大世界――日本 78

“关西人”们(1)

第57节第72节中,从“品 (格)”、“格 (调)”、“性别”、“年龄”的四个角度论述了话语角色。对此又提出了读者可能会感到的“仅四个角度是否足够”的疑问,并详细地进行了回答(见第73节~)。在这过程中,近来一直提及到的就是“平安贵族”、“欧美人”、“乡下人”、“猫”、“Pyôn人”等的“异人”角色(见第76节第77节第78节)。明知又要离开正题,但我还是想再讲一讲“异人”角色,尤其是“关西人”角色。

“关西人”怎么是“异人”了呀!对,这句话(逗哏)很有道理。不过,以谷崎润一郎的《细雪》也列举过的那样(见第15节第16节第17节),在这个连载中我们话虽是要观察“日语社会”,但其实只不过是在观察在“日语社会”中占极少一部分的“普通话社会”而已。虽然为时已晚,但还是要对此表示一下歉意,请求宽恕。那个,“江户人”也属于“异人”了(见第78节),所以还请“关西人”们也多多体谅,对不住了。

言归正传,“关西人”虽在关西社会中很平常,但在“普通话社会”中就并不寻常。在那里“关西人”会发出强烈的“异人”臭。从而,也就出现了利用那“异人”臭的假“关西人”。例如,在山本周五郎的《眼の中の砂(Me-no-naka-no suna, 眼中沙)》中出现的某画家。

我的朋友中有个名叫T……的洋画画家。他是秋日会的会员,颇有名气。虽然他的画有点脏还很奇怪,但是卖的却很好。他虽出身于湘南(神奈川县的沿海地带),却能说一口很溜的关西方言。他还说那是“做买卖的诀窍”,“说普通话时,画不好卖,但是用关西方言的话却卖得很好,有时还能卖个相当不错的价钱”。

[山本周五郎《眼の中の砂(Me-no-naka-no suna, 眼中沙)》
(《寝ぼけ署長(Neboke-shochô, 睡迷糊的署长》)](1948)

“哇!这个画家真讨厌,这个画家说的关西方言也真令人厌恶!”,暂且把这个想法搁置一旁(不搁到一旁也可以)吧。我们可以发现,这位画家在做买卖的局面上所发动的话语角色“关西人”不外乎是很会做生意的商人(买卖人)的角色形象。“说话人在进行某种交际行动时,会启动擅长于这一交际行动的角色形象”,这一“改变角色形象的原则”(第11节),不仅在玩笑的文脉里能观察的到,在更加普遍的事物中也能观察的到。

我在中近东的某国遇到的那位,当买卖不顺利时突然启动“关西人”角色说“そんな冷たいこと、言わんといて(Sonna tsumetai koto, iwantoite, 甭说那么冷淡的话呀)”的卖地毯的人(见第11节),也跟这个情况很相似。不过可笑的事,这位卖地毯的人只在做买卖的时候稍微用了几句关西方言。再加上他那中近东的风貌难以完好地充当关西人(日本人),所以他作为“关西人”角色形象是有破绽的(见第74节)。不过,或许那人反而是在瞄准了这个破绽,故意以噱头来引客人发笑,然后将生意引向好的方向的吧。不知是说计划破产呢,还是说伪装离婚呢,总之,这些盯准了角色形象的破绽的事物都很令人深思。

要说到“关西人”角色的话,那还是要提一下在高桥和已的《悲器》中出现的横井检察官了。(待续)

author

《烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系》(筑摩新书,2008)定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。

地域語の経済と社会 第169回 カナダの英語方言

2011年 9月 24日 土曜日 筆者: 山下 暁美

地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第169回「カナダの英語方言」

 世界の共通語といわれる英語ですが、それぞれの地域によって英語にも方言があります。日本人が話す英語も方言なのです。地方色をいかして、堂々と話しましょう!!

(画像はクリックで拡大します)
【写真1 LANDROMAT(カナダ)】
【写真1 LANDROMAT】
【写真2 COIN WASH(カナダ)】
【写真2 COIN WASH】
【写真3 WASHROOMS(カナダ)】
【写真3 WASHROOMS】
【写真4 CANAJAN, EH(カナダ)】
【写真4 CANAJAN, EH】

 今回は、カナダのオンタリオ州ロンドン市の英語方言を中心に紹介します。“laundromat”【写真1】は、コイン・ランドリー(和製英語)です。“laundro”は、“laundry”で、“mat”は“automatic”つまり オートマチックな洗濯屋というわけです。“coin wash”【写真2】という看板もありました。小銭のコインを洗ってくれる?と誤解して店をのぞいてみると、コイン・ランドリーでした。“coin wash”は、アメリカ東部でも使用されていますから、国境を越えて侵入したのでしょう。

 次の例は、モンゴル料理の店内で見つけた“washrooms”(お手洗い【写真3】)です。男女別に2部屋あるので複数形になっています。Google mapsで確認してみると、“washroom”(ヒット件数11266件・2011/9/8調べ)は、カナダのロンドン市を含むオンタリオ湖周辺、アメリカも東部カナダ国境近くに分布が集中しています。イギリスの中南部、マンチェスターやロンドン(イギリス)周辺に分布することから、イギリス英語の影響が考えられます。

 一方、“restroom”(ヒット件数104360件・同日調ベ)は、アメリカを中心として用いられ、イギリスでもカナダでも、あまり使用されないようです。Charles Boberg(2011)の研究によると、カナダにおける“washroom”の使用率は、51%とされています。

 次の【写真4】“CANAJAN, EH”は、ロンドン市(カナダ)の図書館で見つけた本の表紙です。“CANAJAN”(Canadian・カナダ人)は、カナダ人が話す英語の発音を表しています。“EH”は、“right?”“don’t you think so?”(でしょ?)の意味です。

 言葉は、遠くからのおおぜいの人の移動にともなって伝わる場合、遠隔地への飛び火、古語残存など、さまざまな方法で伝わります。

 

参照:Charles Boberg(2011)Methods in Dialectology 14 ハンドアウト

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【筆者プロフィール】

言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
 井上史雄大橋敦夫田中宣廣日高貢一郎山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

『海外の日本語の新しい言語秩序―日系ブラジル・日系アメリカ人社会における日本語による敬意表現』『書き込み式でよくわかる 日本語教育文法講義ノート』山下暁美(やました・あけみ)
明海大学外国語学部・大学院応用言語学研究科教授。博士(学術)。
専門は、日本語教育学・社会言語学。研究テーマは、移民百年を迎えた、ブラジル、アメリカ合衆国などにおける日本語の変化、外国人の日本定住化による共生時代の日本語教育政策。
著書に『書き込み式でよくわかる日本語教育文法講義ノート』(共著、アルク)、『海外の日本語の新しい言語秩序』(単著、三元社)、『スキルアップ文章表現』(共著、おうふう)、『スキルアップ日本語表現』(単著、おうふう)、『解説日本語教育史年表(Excel 年表データ付)』(単著、国書刊行会)、『ふしぎびっくり語源博物館4 歴史・芸能・遊びのことば』(共著、ほるぷ出版)などがある。

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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載です。

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この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

漢字の現在:後楽園球場のドット文字

2011年 9月 23日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第130回 後楽園球場のドット文字

 後楽園球場の電光掲示板の選手名欄では、「桑」のように斜線が多い文字も表現が苦しいと、立ち読みした本に細かく記されていた。15ドットが横に3字分のパンチカードの実物写真も、そこに載っていたもので見た覚えがある。巨人には、当時、「○田」という姓の選手が多かったため、その「田」の部分は電球がよく切れて、線が途切れ途切れになっていた。夕闇には丸ゴシック体のように映るが、「田」の左右の縦線が下に出るように、ゴシック体の風情も兼ねていた。

 少し遅れて登場した横浜スタジアムのそれは、字形の曲線や間、配置など、今ひとつ魅力に欠けるデザインで、違和感が消えなかった。球場以前から実用化されていた有楽町の電光ニュースの縦に流れる字形も、テレビで見る限り同様だった。甲子園球場も後に電光掲示板に変わった。

 これはそれまでは、スコアボードの中で、おじさんたちがシャツ姿でレタリングされたプレートを取り変えていた。立てかけられた板、高校野球では石灰のような白ペンキのようなものを浸した筆で描き上げていく姿も、写真に残っている。その手書きによる明朝体の味わいを残そうとした労作で、そのドット文字のデザインは別格であった。

 なお、神宮球場はもとは点数が回転式であって、父に伴われての六大学野球の観戦中には、回しすぎなどアナログらしく微笑ましい光景も見られた。名前の欄では、「西大立目」(にしおおたちめ しばしば、にしおうだちめとも)という姓の審判名もぎっしりになりながら、甲子園同様に表示されていた。

 後楽園方式の字形は、斜めの線などに少し癖があり、もっとこの点をずらせばよりなだらかになっていいのになどと思いながらも、自分の中で標準のようになった。自宅で、ダイヤブロックを使って、その表現を1ドットずつ再現してみる。「藤」などは、字体が複雑なだけに、かえって全ドットの再現ができた。「ドカベン」などで漫画化されたそれには、違和感も覚えることがあった。

 後楽園では、同姓がいるために、選手名でフルネーム(と言っても通常は名の1字目まで)に「慶」などの煩瑣な字が出れば、そうとう苦しくなっていた。「ウイリアムス」など、外国人選手の長めの名前も「特注」のようだった。ケータイでは、フォントデザイナーではなく、技術者が低ドット数のフォントを開発したという話を聞いたことがあるが、当時はどうだったのだろう。今では、新幹線の車内で表示される「京都」「新横浜」「東京」などには、低ドットながら明朝体風で、美しさを感じるときがある。

 時代は変わって現在、東京ドームのスコアボードには、巨人の捕手、實松選手の「實」という字が軽々と表示された。ドームの選手欄では、横線には基本的に贅沢に数ドットも使って表現している。1本の線には1ドットしか使っていなかった後楽園球場の選手欄だったらどう表示したのだろう。

 やむなく、「実」と置き換えをしたのか「サネ」と開いたのだろうか。あるいは、旧字体や異体字による姓名表記へのこだわりが、今ほど強くはなかった時代だったのかもしれない。その下の亀井の「亀」も横線が多いため、後楽園ならばぎりぎりだったように思う。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「漢字の略字の「風」」でした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

「百学連環」を読む:「学」とはなにか

2011年 9月 23日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第25回 「学」とはなにか

 今回から、二つめの項目「第二 學術技藝 Science and Arts」に入ってゆきます。

 この見出しは、西先生によるものか、講義を聴講して筆記した永見氏によるものかは不明ですが、Artsのほうだけ複数形になっています。講義の内容からすると、Scienceのほうも複数形にして、Sciences and Artsとしてみたくなるところです。「乙本」では、見出しにこそしていないものの、やはり「學術技藝」という言葉が、洋語のScience and artを指していることが述べられています。こちらはartも単数形です。

 それはさておき、本文を読みましょう。

學の字の性質は元來動詞にして、道を學ふ、或は文を學ふとか、皆な動詞の文字にして、名詞に用ゆること少なし。實名詞には多く道の字を用ゆるなり。學の字は元ト師の兒童に教ゆるの辭義にして、則ちの如く師の兒童を保護し教ゆるの形なり。太古は道藝の二字を以てし、後に至りて道を行くの行字より生する所の術の字を用へり。學と道とは同種のものにして、我か本朝には和歌の學といはすして和歌の道、或は文{フミ}學ヒの道と云へり。

(「百學連環」第2段落第1~5文)
{ }内は振り仮名

 つづいて訳を掲げます。

「学」という字は、もともと動詞であり、「道を学ぶ」とか「文を学ぶ」というように、動詞として用いる文字であって、名詞として使うことは少ない。名詞としては多くの場合、「道」という字を使う。「学」という字は、先生が児童に教えるという意味であり、「」という字そのものが表しているように、先生が児童を保護して教えるという形をしている。古代中国では「道藝」という二文字で表し、後になって「道を行く」という字の「行」の字から生じた「術」という字を使った。「学」と「道」は同じ種類のもので、日本では従来「和歌の学」とは言わず、「和歌の道」や「文学びの道」と言った。

 「学術技芸」について論ずるにあたって、まずは字の来歴から確認しようというわけです。私たちが日本語で用いている漢字は、中国から借用してきたものですから、その元を辿ろうと思えば、話は自ずと古代中国語へと遡ることになります。この道は、古代漢字学の研究、金文や甲骨文字の研究へとつながっています。

 ここで西先生は、とても大切なことを指摘しています。つまり「学」とは元来動詞だということです。「学ぶ」と書けば、誰もが動詞であると受け止めるところですが、「学術」や「学問」といったように漢語で記す場合、どうしても動詞的な側面が見えなくなりがちです。

 これはあくまでも私が懐いているイメージに過ぎませんが、動詞が名詞になると、なんだか生きて飛んでいたチョウが標本にされて動きを止めるように、本来具えていた動きを失うか、見えづらくしてしまう、そんな気がします。例えば、「学び問う(学んだうえでなお分からないことを問う)」と言うのと、「学問」というのとでは、かなり印象が違わないでしょうか。この感じを言い方を換えると、動詞には動きや運動が持続する時間の要素があるけれど、動きを抜き取られた名詞では時間が止まって、いっそう抽象度合いが高まると言いましょうか。

 そういえば、安田登さんの『古代中国の文字から身体感覚で『論語』を読みなおす。』(春秋社、2009)から教えられて目から鱗が落ちたことがあります。同書は、身体という観点から漢字を捉え直し、その観点から『論語』を読み直そうという試みですが、そうした観点から見ると「學」の字はどう見えるか。「學」という字の古い形では、人が子どもに向かって両手を伸ばすような姿をしています。つまり、「両手を使って、学校のようなところで、子弟に手取り足取り何かを教える」(同書、5-6ページ)という、まさに動きが示されているわけです。しかも、先生と子どもという二人の人が関わり合う動きです。

 さて、名詞として「学ぶ」ということを言う場合、むしろ「道」の字を使ったという指摘について、少し補足しておきましょう。平安時代の学制を見ると、「明経道」「文章道」「紀伝道」「明法道」「算道」「書道」「音道」といった各首の「道」があります。これは、当世風に言えば「学」あるいは「学科」となりましょうか。桃裕行『上代學制の研究』(目黒書店、1947)などを見ると、この辺りがどうなっていたのか、詳しいことが分かります。西先生が「学」と「術」は同じ種類のものだというのは、このような意味でありました。なお、「道」については、「方法」という言葉との関係もあって面白いのですが、これはまた後にコメントすることにします。

 「術」については、続くくだりで論じられますので、そこで検討しましょう。

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=漢(U+FA47)

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。

談話研究室にようこそ 第12回 呪文のなかのラテン(その1)

2011年 9月 22日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第12回 呪文のなかのラテン(その1)

 次に扱う問題は,第10回で挙げた問題その3,すなわち,真正型呪文を導入すると魔法の数だけ呪文を作らねばならないが,それにふさわしい方法はないか,というものです。ランダムに得体のしれない呪文をたくさん作ろうとすると,すぐにネタが切れてしまいます。だから,呪文作成に一定のパタンがあったほうがいい。また,いくら真正型呪文を用いるとはいえ,あまりに訳の分からない呪文ばかり出てくるようでは,読者はうんざりするかもしれません。どうしたらいいでしょうか。

 作者のJ. K. ローリングはことば遊びを導入することで,この問題をエレガントに解決しました。その方法について考えてみましょう。

 まず,シリーズで用いられているポピュラーな呪文をいくつか挙げてみます。オーディオブック(Stephen Fryの朗読)での発音をかな書きで表記しておきます。

(16) a. Petrificus Totalus (ペトリフィカス・トータラス)
b. Expelliarmus (イクスペリアーマス)
c. Expecto Patronum (イクスペクトー・パトローナム)
d. Wingardium Leviosa (ウィンガーディアム・レヴィオーサ)
e. Obliviate (オブリヴィエイト)

 (16e)のobliviateを除けば,英語らしい発音や綴りは見当たりません。とくに語尾が違います。-usや-umで終わるものが多く,また,子音で閉じずに母音で終わるものも多い。これは,『ハリー・ポッター』の呪文がラテン語を模しているからです。英語でよく知られているラテン語のフレーズと(16)を比べてみましょう。

(17) a. magnum opus (マグナム・オーパス/最高傑作)
b. vice versa (ヴァイス・ヴァーサ/逆もまた同様)
c. status quo (ステイタス・クオー/現状)
d. Cogito, ergo sum. (カギトー・アーゴ・サム/我思う故に我あり)

 カタカナ表記したのは,英語での発音です。ラテン語の発音はこれと少し異なりますが(たとえば,vice versaはウィーケ・ウェルサとなるようです),ラテン語を知らないふつうの英語話者にとっては,英語式発音のほうがなじみ深いはずです。英語式の発音と言えども,じゅうぶんエキゾチックな趣きがあります。

 語尾が-usや-umだったり,母音のaやoだったりしていますし,音の響きがよく似ていませんか。『ハリー・ポッター』の呪文は,意図的にラテン語に似せてあるのです。

 実際,(16b)のExpecto Patronumは,守護霊を招来する呪文なのですが,ラテン語として文法的にも正しいそうです(あの,ラテン語は学生時代,2度ほど履修登録したのですが,やはり2度ほど途中で断念してしまったもので,伝聞のかたちでしか書けません…その,むずかしい文法を前期だけですべて終えて,後期は講読をするというたいへんハードな授業だったもので…)。

 ラテン語はその昔,ローマ帝国の力が及んだ地域で広く話され,ヨーロッパでは中世以降も学問の共通言語として使われていました。今でも,生物学の学名などにラテン語は生きています。ラテン語には,時代が古く(由緒正しく),高尚で学問的なイメージが,もうひとつついでに言うと,活用が複雑でとってもむずかしいイメージが,ついて回ります。つまり,真正型呪文としての「らしさ」を出すのにうってつけなのです。

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【筆者プロフィール】

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998)『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

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【編集部から】

雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。

クリストファー・レイサム・ショールズ(5)

2011年 9月 22日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・第5回

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ショールズとシュバルバッハとグリデンは、さらに、タイプライターのキーをボタン型にした上で、スペースキーを大型化する、という改良をおこないました。ピアノに似た鍵盤よりも、ボタン型のキーボードの方が、より多くのキーを配置することができます。また、電文を受信してタイプライターで打つ際に、最も多用されるキーは、アルファベットでも数字でもなく、スペース(空白)です。そこでショールズたちは、ボタン型キーの手前に、キーボードの端から端まであるスペースバーを配置したのです。

1870年9月、ショールズはデンスモアと共に、ハリントン(George Harrington)という人物に会うため、ニューヨークに来ていました。リンカーン政権時代の財務次官で前スイス大使のハリントンは、AP通信の創始者の一人クレイグ(Daniel Hutchins Craig)と共に、アメリカン・テレグラフ・ワークス社という電信機器製造会社を設立するところでした。ショールズとデンスモアは、ハリントンの会社でタイプライターを製造できないか、商談を持ちかけていたのです。しかし、ショールズのタイプライターは、ハリントンの会社の若い技術者エジソン(Thomas Alva Edison)に酷評されました。エジソンは、のちにこう語っています。

とても商売になるシロモノじゃなかった。とにかく、文字が行の中で全然そろってなかった。各文字ごとに1/16インチは上下していて、今にも行から逃げ出しそうな勢いだった。

そこでクレイグは、ショールズとエジソンとを競わせようと考えました。ハリントンの会社でタイプライターを製造するのではなく、ショールズとエジソンそれぞれに機械を作らせ、より良い方をハリントンの別の電信会社(オートマチック・テレグラフ社)で使おう、というのです。ショールズは、ハリントンとクレイグの要求に応じて、数多くの改良をタイプライターに施しました。一方のエジソンは、クレイグの再三の督促にもかかわらず、1年後の1871年9月までに『タイプホイール式ユニバーサル・プリンター』を完成させることができませんでした。

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クレイグからエジソン宛の督促の手紙(1871年1月31日)
(クリックで拡大)

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この時、ショールズが施した改良の一つに、ロール紙をタイプライターで使用できるようにする、というものがありました。オートマチック・テレグラフ社で受信する電文には、しばしば非常に長いものがあり、カット紙1枚に収まるとは限りませんでした。しかし、受信中にカット紙を交換している余裕はありません。そこで、タイプライターでロール紙を使えるようにし、電文が終わった段階でロール紙を適宜切り取る、というやり方ができるよう、ショールズは改良をおこなったのです。また、ロール紙を巻いたプラテンを持ち上げることができるような改良も、ショールズは施しました。印字はロール紙の下側におこなわれるので、受信中に電文が正しく打てているかどうか即座に確認できるように、との配慮からでした。このように、電文の受信に特化した形で、タイプライターの改良はおこなわれていったのです。

(クリストファー・レイサム・ショールズ(6)に続く)

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://slashdot.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

『新明解国語辞典 第七版』12月1日に発売!

2011年 9月 22日 木曜日 筆者: ogm

【追記】『新明解国語辞典 第七版』については、以下のページをご覧ください。

『新明解国語辞典 第七版』の書誌情報ページへ

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 台風の影響が今もなお心配されます。どうか被害がこれ以上大きくならないことを祈っております。

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130周年記念ロゴ さて、昨日、9月21日は『新明解国語辞典』の新しい版、第七版の刊行をお知らせする会を開催いたしました。悪天候のなか、いらしてくださった皆さまに心よりお礼申し上げます。

 ご発表いたしましたとおり、刊行は創業130周年の今年の12月1日。全国一斉に発売されます。

 皆さまにご覧いただけるまでに、あと2か月と少し。このページでも、その改訂内容などをお知らせできたらと思っております。ぜひ楽しみにしていてくださいませ。よろしくお願い申し上げます。

An Unofficial Guide for Japanese Characters 78

2011年 9月 18日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki

<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 77

Others (Part 3)

The four scales of “class,” “status,” “gender,” and “age” are important when ascertaining “Us” verbal characters, but not when ascertaining “Other” (in the broad sense) verbal characters. The very essences of “Us” verbal characters and “Other” verbal characters are different. “Us” verbal characters are not deployed “temporarily” but can be deployed naturally, and are arranged, without gaps, along the scales of “class,” “status,” “gender,” and “age.” On the other hand, we have said that “Other” verbal characters are deployed exclusively on a “temporary” basis and exist sporadically (parts 76 & 77). This division of verbal characters into the “Us” and “Other” types nicely matches the actual conditions found in language.

For example, recall the phenomenon of the “woman” character’s preference for uninflected sentences as compared with the “man.” In that case we saw that while a “man” would say ame da yo (it’s raining) a “woman” would omit the auxiliary verb da and just use the bare, uninflected ame yo (part 66).

However, there are troublesome “male” and “female” characters that contradict this observation.

Some “men” defiantly join the uninflected atarimae directly to yoatarimee yo (that’s obvious!) ― rather than saying atarimae da yo. Some “men” join the uninflected ore directly with yo, boasting: nani o kakusoo, sore ga kono ore yo (I’m not hiding anything ―just being myself). Some “men” join the uninflected koto or wake directly with yo as in: shireta koto yo (I already knew that!), ore no koto yo (that’s just who I am), ii tte koto yo (“no problem” in the sense of “you’re welcome”), and tena wake yo (…that’s how it is).

Ittai nanimono ka da too? (What do you mean?!) Nani itteyandee? (What are you talking about?) Kimatterai. (That’s normal.) Kochitora “Edokko” yo. (For us “Edokko.”(1)) “Atarimaeda yo” nante yuu kattenda. (I don’t use expressions like atarimae da yo.) Soitsaa, ore jaa nee. (That’s not me!) Ore no kakaa yo. (That’s my wife.)

Soo da yo omaisan. (That’s right dear.) Soitsaa atashi no kotoba da yo. (That’s how I talk.) Chotto anta, bumpooya kai? Atasha kore demo onna da yo. (Hey, Mr. Grammarian? I’m still a woman.) Negoto itteru to shoochi shinai yo. (Don’t expect us to agree with your nonsense.)

And the troublesome characters that contradict our observation are not limited to “Edokko” men and women. Another example are male characters who add the feminine wa(2) to the end of sentences ―as in ureshii wa (I’m glad). However, here I’m not talking about “unmasculine” “men,” for example the type who would say during an argument: “Even if you ask me to produce the documents at this [late] stage, it’s impossible. That would cause problems for anyone” (soryaa dare datte komaru wa). We needn’t worry about them. It is not particularly mysterious that an “unmasculine” “male” character would occasionally talk like a “female.”

The real problem is the “samurai” character who, in a blaze of temper, adds wa the end of his sentences: me ni mono misete kureru wa! (I’ll teach you a lesson!) I can just hear someone ruining our precious observation: when the “samurai” gets angry, “he adds the feminine wa to the end of his sentences. At the very least, he is not really masculine.” What a pain! I will chop you in two!

As we have seen, “Other” verbal characters differ from “Us” verbal characters on three points: “deployment method” (part 76), “state of existence” (part 77), and “spoken language” (this column). From this point of view, it is accordingly natural that we divide verbal characters into two types ―the “Other” type and the “Us” type― when considering them.

For some time (parts 57 on) I’ve been saying that we can define the overall characteristics of the various verbal characters based on the scales of “class,” “status,” “gender,” and “age.” I temporarily put aside the “Other” type characters under the proviso that we’d be focusing just on “Us” verbal characters.

* * *

(1) Edokko refers to a commoner living in city of Edo (now Tokyo). This and the following paragraph are written in the style of Japanese used by the “Edokko” character.

(2) See part 1 footnotes for an explanation of the feminine “wa.”

author

Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems)Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

角色大世界――日本 78

2011年 9月 18日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)

<< 角色大世界――日本 77

异人们(下)

“品 (格)”、“格 (调)”、“性别”、“年龄”这四个尺度,在关系到“我们”的话语角色形象时非常重要;而在关系到“‘异人’们”(广义)的话语角色形象时并非如此。原本,“我们”的话语角色形象与“‘异人’们”的话语角色形象在性质上就有区别。“我们”的话语角色形象是,不仅可以“临时”性地发动,还可以“本来”地发动;而且还沿着“品 (格)”、“格 (调)”、“性别”、“年龄”的尺度密密麻麻地毫无缝隙地排列着。但是,“‘异人’们”的话语角色形象都是“临时”性的发动,断断续续地时而发生(见第76节第77节)。因此,将话语角色形象二分为“我们”的类型和“‘异人’们”的类型也是很符合语言的实况。

来回想一下,与“男人”不同的是“女人”喜好用体言的这一现象吧。在第66节中我们观察到,“男人”说“雨だよ (ame-da-yo, 下雨了)”的地方,“女人”却是不使用助动词“だ(da)”,直接在体言“雨 (ame,雨)”后面加上“よ (yo)”说成“雨よ (ame-yo)”。

但是,在事实上,有一些烦人的“男人”和“女人”扰乱了我们观察到的现象。

例如,有一些“男人”不说“あたりまえだよ (atarimae-da-yo, 当然了)”,而是在体言“あたりまえ (atarimae, 当然)”上直接加“よ”后,自我炫耀地说成“あたりめぇよ (atarimê-yo)”。还有一些“男人”,直接在体言“俺 (ore, 我)”后加上“よ”,吹着牛说“何を隠そう、それがこの俺よ (nani-o kakusô, sore-ga kono ore-yo, 隐藏什么呢,那就是本大爷哟)”。甚至还有些“男人”,在体言“こと (koto)”、“わけ (wake)”后面直接加“よ (yo)”说成“知れたことよ (shireta-koto-yo, 众所周知的哟)”、“俺のことよ (ore-no-koto-yo, 是俺呀)”、“いいってことよ (îtte-koto-yo, 可以的啦)”、“てなわけよ (tena-wake-yo, 就是那样的唷)”等等。这些人究竟是何等人物呢?

何言ってやんでぇ。決まってらい。こちとら『江戸っ子』よ。「あたりまえだよ」なんて言うかってんだ。そいつぁ、俺じゃあねぇ。俺の嬶(かか)ぁよ。 (Nani itte-yandê. Kimatte-rai. Kochitora EDOKKO-yo. ‘atarimae-da-yo’ nante yûkattenda. Soitsâ orejânê. Ore-no kakâ-yo. 你说什么呢!还用得着问吗?俺就是“江户人”呀。谁说什么“あたりまえだよ (atarimae-da-yo)”呀。那可不是俺,是俺的老婆咧。)

そうだよおまぃさん。そいつぁあたしのことばだよ。ちょっとあんた、文法屋かい? あたしゃこれでも女だよ。寝言言ってると承知しないよ。 (Sô-da-yo omaisan. Soitsâ atashi-no kotoba-da-yo. chotto anta, bunpôya-kai? Atashya kore-demo onna-da-yo. Negoto itteru-to shôti shinai-yo. 是的!那就是我说的话。喂!你到底是不是搞语法的呀?我虽然这样可也是女人哦。再说梦话的话,可是不饶你哟!)

就这样地捣乱我们的观察的人不只是以上所提到的“江户人”的男男女女。还有,“女人”似的在句末说“わ (wa)”的“男人”们,如“うれしいわ (ureshî-wa)”等。不过,这里所指的不是那些在讲道理时说“事到如今你让我拿出依据文件,太没道理了。そりゃあ誰だって困るわ (soryâ dare-datte-komaru-wa, 不管是谁都会为难的啦)”之类的不太像“男人”的“男人”们。这些人都没什么关系。不太像“男人”的“男人”,有时以“女人”的口吻说话,这并没有什么特别令人不可思议的。

问题是那些,燃烧着愤怒之火,还大吼带有“わ (wa)”的句子的“武士”们。如,“おのれ、目にもの見せてくれるわ (onore, me-ni mono misete-kureru-wa, 你瞧着吧)”等。“武士”在生气时所使用的句末的“わ (wa)”很像“女人”,至少不像“男人”。您瞧,“武士”就这样把我们煞费苦心的观察弄得一塌糊涂。真是个令人头痛的家伙啊。说什么呢?!小心被劈成两瓣儿。

由上所述的这样,“‘异人’们”的话语角色形象与“我们”的话语角色形象,在“发动的方式”(第76节),“应有的状态”(第77节)和“所说的言语”(本节)这3点上有区别。因此也可以说,将话语角色形象二分为“‘异人’们”的类型和“我们”的类型是非常合乎道理的。

近来(自第57节以来),我一直想说的就是,“每个话语角色形象的大体特征,可以根据‘品(格)’、‘格(调)’、‘性别’、‘年龄’的4个尺度来进行记述”。在最近这几节当中就稍详细地说明了,如果先把“‘异人’们”的类型放到陈列架上,然后将视线集中到“我们”的话语角色形象上的话,以上论点就可行得通的道理。

author

《烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系》(筑摩新书,2008)定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。

地域語の経済と社会 第168回 大分県中津市はからあげの聖地?

2011年 9月 17日 土曜日 筆者: 日高 貢一郎

地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第168回「大分県中津市はからあげの聖地?」

 「天高く馬肥える秋」「読書の秋」「スポーツの秋」「芸術の秋」……、と様々なキャッチフレーズのある秋ですが、「食欲の秋」も代表的なものの一つでしょう。

 まちおこしの手段として、食べ物を素材にし、マスメディアなどに話題を提供して知名度アップを図る手法は、すっかりおなじみになりました。
 それも特に高級な食べものや食材ではなく、「B級グルメ、B級ご当地グルメ」などとも呼ばれるように、身近で大衆的なところがミソで、庶民的なものであるほうが、より親近感を持たれ、また広がりを持たせやすいのでしょう。

【写真1 中津市のからあげ店の看板】
【写真1 中津市のからあげ店の看板】
(クリックで拡大します)

 最近、知名度が上がっているものの一つに、大分県中津市の「からあげ」があります。鶏肉に各店がそれぞれ工夫した味付けをし、衣をつけて油でカラッと揚げたもので、ご飯のおかずにもおやつにもピッタリで、市を挙げて知名度アップに力を入れています。
 中津市役所のホームページには、市内のからあげ店42軒が紹介されています。

 中津からあげのリーダー店のひとつ「もり山」には、店頭に方言で書かれた大きな看板が掲げられ、その魅力をアピールしています。

中津名物とりのからあげ
にんにくのいいにおいが ぶあっとして
今すぐごはんが食べとなる
今すぐ酒が飲みとなる
にごじゅうの人(し)も
食べたらすぐに 元気がでてくるで
さあ食べちょくれ

 「にごじゅうの人(し)」の、「し」は「おとこし・おなごし(男衆・女衆)、わけーし(若い衆)」のように使われ、〔~の人(たち)〕という意味ですが、「にごじゅう」は掛け算の「二×五=十」から転じた語で、〔当たり前、見たまんま、その通り〕ということから、さらに〔完敗、お手上げ〕などいろいろな意味あいでも使われるようですが、店主によるとこの看板では〔くたびれた人、元気のない人も食べたらすぐに元気が出てくるぞ〕といった意味を込めて使用したということです。
 「食べちょくれ」は「食べておくれ」の変化したもので、大分の方言では「~して」が「~しち」となりますから「~しちおくれ」となり、さらに「~しちょくれ」と変化したもので、〔食べてください〕という意味です。

 「日本唐揚協会」という、からあげをこよなく愛する人たちで作っている組織があり、中津市はその関係者の間では「聖地」とまで呼ばれている由。

【写真2-1 店頭ではためくのぼり】 【写真2-2 店頭ではためくのぼり】
【写真2 店頭ではためくのぼり2種】

 地元でもどの店の味がいいか食べ比べて各人それぞれにひいきの店、好みの味があるそうで、競争が工夫を生みだし、それがまた各店の知恵を引き出し、話題が話題を呼ぶ相乗効果を上げているとのこと。B級ですから財布にもそれほど大きな影響を与えませんし、食べ歩きの楽しみも尽きません。

 なお、大分県内ではその他にも、中津市の南に隣接する宇佐市も、日本で最初のからあげ専門店が生まれたとされ、“我がほうが先輩格”だと、同様にPRに力を入れています。
 その記念碑も建てられ、ゆるキャラの「うさから」君も作られて盛り上げを図っています。

 また、大分市の鶏肉の天ぷら=いわゆる「とり天」はかなり前から知られています。

 総務省の家計調査から算出した鶏肉消費量ランキング(2008年)によると、大分県は1世帯当たりの鶏肉の消費量が、全国第1位を誇っており(九州は、全国7位までに長崎を除く6県がランクイン)、そういう土壌の上に、こういった食べ物が展開され、好まれることにつながっているようです。

 

《参考》
 大分県中津市のホームページ(http://www.city-nakatsu.jp/modules/kankou/index.php?id=342)には、市内のから揚げ店42軒が地図入りで紹介されています。
 日本唐揚協会のホームページは、http://karaage.ne.jp/を参照。

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【筆者プロフィール】

言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
 井上史雄大橋敦夫田中宣廣日高貢一郎山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

日高貢一郎(ひだか・こういちろう)
 大分大学 教育福祉科学部 教授(国語学・方言学) 宮崎県出身。これまであまり他の研究者が取り上げなかったような分野やテーマを開拓したいと、“すき間産業のフロンティア”をめざす。「マスコミにおける方言の実態」(1986)、「宮崎県における方言グッズ」(1991)、「「~されてください」考」(1996)、「方言の有効活用」(1996)、「医療・福祉と方言学」(2002)、「方言によるネーミング」(2005)、「福祉社会と方言の役割」(2007)など。

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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。
方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載。

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この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

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