2011年 10月 のアーカイブ
2011年 10月 31日 月曜日 筆者: 石井 正人
クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(119)
ドイツでは冷凍tiefgefroren/tiefgekühltピザをよく食べる。Lサイズの大きいのが、スーパーマーケットの冷凍食品売り場に各種並んでいる。住環境が日本と違い格段に広く、従って台所も広く、それに合わせて冷凍庫も大きいから、あんなものを買い込んでもいくらでも家庭で保存できるのだ。ちょっとしたパーティだと、10枚も用意しておけばそれだけでメインは何とかなる。宅配Lieferungピザもおいしかったが、冷凍ピザもバカにならなかった。
山ほどある中で、よくお世話になったドイツの冷凍ピザは、テレビのコマーシャルで有名なFreiberger社のAlbertoというシリーズと、Dr. Oetker社のRistoranteというシリーズだった。
Freiberger社は1970年代にベルリンで創業した、ドイツ初の宅配ピザ屋だったそうで、Albertoというイタリア語風の名前がボディに書かれた、当時の同社の宅配の赤い小型トラックの模型は、コレクターズアイテムのようである。
Dr. Oetker社については、Iglo社の白身魚のフライと並んでスーパーマーケットの冷凍食品コーナーでよく見かける(日本人がよく食べる)から、こっちが専門だと思っておられる向きもあるが、今は総合食料品メーカーであるものの、そもそもは製菓材料の会社である。更にその元はといえば19世の末に北ドイツのBielefeldで開業した薬屋Apothekeで、小麦粉500グラムにちょうど良い量のベーキングパウダーBackpulverを小分けにして売り出して当たりをとった。ドイツでは粉砂糖などその他の製菓材料が不思議に小分けして古くさい紙袋に入って売っていて、日本人にはかえって使いにくいことがあるが、この流れである。万事この方面はDr. Oetkerがかなりのシェアを占めている。
ベーキングパウダー(ふくらし粉)というのは重曹(炭酸水素ナトリウム)に酒石酸とか焼きミョウバン(カリウムミョウバンだが、これに含まれるアルミニウムはアルツハイマーの原因になるといって嫌われ、最近は使われない)のような分解補助剤を加えて、炭酸ガスを発生させ、パンや焼き菓子の膨張剤として用いる薬品である。イーストHefeとは別にこのような化学薬品を入れてパンや菓子を焼くとうまくいくことは経験的に知られていたが、Dr. Oetkerの創業者が大量生産による商品化に成功し、特許を取った。プロが使うものと思われていたベーキングパウダーを一般に使えるようにし、更にパンのクッキングブックとか料理教室にまで事業を拡張して需要を開拓し、大成功を収めたのである。日本の国産では、粉屋の日清やニップンのものもあるが、なんと言っても昭和7年創業の株式会社アイコク(先頃「愛国産業株式会社」から社名変更)の「アイコク・ベーキングパウダー」が有名で、皆さんのお宅にも必ず見慣れたあの缶があるはずである。
ピザから話が脱線してしまった。
【筆者プロフィール】
石井 正人(いしい・まさと)
千葉大学教授
専門はドイツ語史
『クラウン独和第4版』編修委員
【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。
2011年 10月 30日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki
<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 83
Verbal characters with partial designations (Part 2)

As I said last time, God, and my readers, see all. It is exactly as you say. I had meant to bring this fact up before now —it was not my intention to hide it.
To be sure, I was the one who brought up the four perspectives of “class,” “status,” “gender” and “age” for observing verbal characters. However, it is not always necessary to specifically designate all four of these perspectives. Sometimes they are left “undesignated.” There are verbal characters in which the four perspectives are only partially designated, such as the “female” in which “class,” “status,” and “age” are undesignated, or the “vulgar” “male,” in which “status” and “age” are undesignated.
So far, I have put the various values for the perspectives in quotation marks, just like the character names —“refined” or “vulgar” for “class;” “highest of the high,” “superior,” “inferior,” or “runt” for “status;” “male” or “female” for “gender;” “senior citizen” and “elderly,” “youth,” or “baby” for “age.” These values too are sometimes undesignated. In cases where all other perspectives are undesignated, the value of the one designated perspective itself becomes the character. Thus I put these values in quotations, like the characters. What if all four perspectives are undesignated, you ask?
Heh! You guys are hard to please. Are you trying to test me? As I’ve already said, if you dig deep enough, you’ll find that much more language than we think is role language, such as the discovery ta (hakken no “ta”) (part 28). Do you remember what I said at the end of that article? It is probably best to assume that “everything is Role Language,” then go back and make corrections if we turn out to be wrong about this. It has been exactly a year since I wrote that, but I haven’t changed my mind on the matter. If anything, I believe it even more strongly.
Think back over the last year of articles. What about da and desu, which you’d assume everyone would say in the same way. They don’t seem anything like role language at first glance.
A “male” wouldn’t say ame yo (it’s raining), kirei (that’s pretty), or taihen (Oh no!). He would add the auxiliary verb da: ame da yo, kirei da, and taihen da. Here, da has the aspect of role language particularly connected with the “male” character (part 66).
The same goes for desu. Some people add desu to verbs like a “baby,” as in kaetta desu (I’m back). In other words, desu also has the aspect of role language (parts 70 & 71).
This isn’t something you pick up on if you’re not paying attention. You only notice it if you start asking “is this role language?” whether da or desu.
So, here is my answer. If all four perspectives are undesignated, there is no verbal character. If one must come to this conclusion, it means the character’s language makes no particular impression. In other words, it isn’t role language. This is perhaps possible. However, although we may go back and revise our view if it turns out to be wrong, for the time being we should probably say that it is impossible. We should assume that all language is role language. This, dear reader, is what I wanted to say.
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
2011年 10月 30日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)
<< 角色大世界――日本 83
指定为一部分的话语角色形象(中)

各路神仙和主子们果然厉害,什么都能看穿。正如您所言。俺一直就想说来着,可就是没碰着机会,俺可没有要隐瞒的意思。
为了观察话语角色形象,提出“品 (格)”、“格 (调)”、“性别”、“年龄”四个角度的人的确就是俺。但是啊,这四个角度并不总是需要有具体的指定存在。也有“无指定”的时候。就像没有指定“品 (格)”、“格 (调)”、“年龄”的“女人”,还有没有指定“格 (调)”和“年龄”的“粗鲁”的“男人”那样,一些话语角色形象只需指定四个角度中的一部分角度就足够了。
至今为止,我不是特意将“品 (格)”的“高雅”、“粗鲁”;“格 (调)”的“特上 (Tokujô, 最高级别)”、“目上 (Me-ue, 长辈、上司)”、“目下 (Me-shita, 晚辈、部下)”、“ごまめ (Gomame,小家伙、小不点)”;“性别”的“男人”、“女人”以及“年龄”的“老人”、“中年人”、“年轻人”、“幼儿”等的值,特地用双引号引起来写成跟角色形象相同的了吗。这也是因为无指定的存在。假如其他的任何角度都无指定的话,那么剩下的一个角度就会顺理成章地成为话语角色形象。所以,我把值和话语角色形象都用双引号引了起来。
诶,那么如果四个角度都无指定的话,那该怎么办啊?
嘿嘿,主子啊,您可真坏。您是在试探俺吗?如果是这个问题的话,俺好像早已讲过了吧。
超出咱们的想象,其实仔细观察会发现很多的语言表达都是役割语 (yakuwarigo, 角色语言)。关于这一点我不是例举了发现的“た (ta)”的例子了吗(见第28节)。那个时候,俺最后说了什么您还记得吗?俺说,错了的话以后还可以改正,现在暂时“把所有的语言表达都看作是役割语 (yakuwarigo, 角色语言)”吧。
从那儿刚好过了一整年,俺还是没有改变想法。何止没有,俺还越发觉得就是那么一回事儿。
请回想一下这一年的事儿吧。看上去一点也不像役割语 (yakuwarigo, 角色语言)的、不管谁说好像都一样的“だ (da)”和“です (desu)”,结果如何啊?
是“男人”的话就不能说“雨よ (ame-yo, 雨哟)”、“きれい (kirei, 好看)”、“大変 (taihen, 不得了)”。要说也得附上“だ (da)”,说成“雨だよ (ame-da-yo)”、“きれいだ (kirei-da)”、“大変だ (taihen-da)”。这就证明了“だ (da)”具有喜欢与“男人”结合在一起的役割语(yakuwarigo, 角色语言)的一面(见第66节)。
“です (desu)”也相同。有些家伙会跟“幼儿”似的在动词后面附上“です (desu)”,说成“帰ったです (kaetta-desu, 回去了)”之类的。也就是说,“です (desu)”也具有役割语 (yakuwarigo, 角色语言)的一面(见第70节,第71节)。
这些问题,光坐着发呆是不会弄清楚的。不管是“だ (da)”还是“です (desu)”,要去怀疑它们到底“是不是役割语 (yakuwarigo, 角色语言)?”。那样才会有新的发现。
所以,俺的回答是这样的。四个角度都没有指定的话,那就不是话语角色形象了。假如非要设想有那种情况存在的话,那就是某个语言表达联想不到某个特定的人物的时候。也就是说,不是役割语 (yakuwarigo, 角色语言)的时候。或许是有那种情况。不过,以有错就改为前提,俺暂时还是认为“没有那回事儿。所有的语言表达都是役割语 (yakuwarigo, 角色语言)”。俺就这么说了,主子!
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
2011年 10月 29日 土曜日 筆者: 山下 暁美
地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第174回 めげねぞ!! 福島
東日本大震災から約7か月が過ぎました。各地で復興祭が行われています。福島県の復興に対する意気込みがようやく言語表現の形でも見られるようになりました。最近、福島県を訪れると、「めげねぞ!! 福島」(【写真1】めげないぞ)、「復興にむけてがんばっぺ」(がんばろう)、「応援ありがとう、がんばる福島」、など、将来を見つめる姿勢がうかがえるキャッチフレーズをみかけます。このように方言は、地元の人々の気持ちを強く束ねるのに威力を発揮します。また、強い主張にもパンチを添えます。


左:【写真1 めげねぞ!! 福島】 右:【写真2 がんばっぺ!福島 いいとこいっぱいあっつぉい】
福島では、商店街を「福の島」と名づけて「がんばっぺ!福島! いいとこいっぱいあっつぉい」と呼びかけました。「いいとこいっぱいあっつぉい」は、「いいところがたくさんあるよ」の意味です。「おそぐなっつぉい」(おそくなるよ)、「おそぐなるぞい」など「ツォイ」「ゾイ」が共通語の終助詞「ゾ」や「ヨ」の役割を果たします。「ツォイ」は、奥羽地方に聞かれます。それに対して、「ゾイ」は、栃木県、石川県、岐阜県をはじめ四国地方でもよく聞かれます。
ご当地を支援する物産展が開かれました。「がんばってっつぉい!」(【写真3】がんばってるよ!)に全国からの支援に応える気持ちがたくされています。

【写真3 がんばってっつぉい!】
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

山下暁美(やました・あけみ)
明海大学外国語学部・大学院応用言語学研究科教授。博士(学術)。
専門は、日本語教育学・社会言語学。研究テーマは、移民百年を迎えた、ブラジル、アメリカ合衆国などにおける日本語の変化、外国人の日本定住化による共生時代の日本語教育政策。
著書に『書き込み式でよくわかる日本語教育文法講義ノート』(共著、アルク)、『海外の日本語の新しい言語秩序』(単著、三元社)、『スキルアップ文章表現』(共著、おうふう)、『スキルアップ日本語表現』(単著、おうふう)、『解説日本語教育史年表(Excel 年表データ付)』(単著、国書刊行会)、『ふしぎびっくり語源博物館4 歴史・芸能・遊びのことば』(共著、ほるぷ出版)などがある。
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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載です。
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この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2011年 10月 28日 金曜日 筆者: 笹原 宏之
漢字の現在 第140回 中学生の文字
群馬県の公立中学2年生の生徒さんたちに、お話をする機会を頂いた。大学はまだ(やっと)夏休み、中学は新学期の時だ。
「人という字は、」に続くことばは?
「二人の人が支え合ってできている」、70人以上集まってくれた生徒さんのほとんどがそう答えてくれる。どうして知ったのかと尋ねると「金八ー」と答えてくれる。あの「3年B組金八先生」だ。行き方や道徳を説くのにふさわしい教室の状況が目に浮かぶ。また、別の生徒さんはCMとも言う。テレビの情報を行き渡らせる威力は、とてつもない。この人の字についての俗解は、教育学者の新渡戸稲造が字源としてではなく、あくまでもお話としてだと明示して本に記したものが広まったということを放送したNHKの番組は、立派だった。しかし、人気ドラマの印象的なシーンでの決め台詞には叶わないようだ。
昨年の同じクラスでは、前もって「辞書にないのに使われている単語って、あるかな?」と問うてみた。いくつか出た中に「消しカス」という語があった。消しゴムを使って出た小さなゴミのことで、言われてみれば子供たちが日常よく使っている。漫画のキャラクターの名にまでなっている。「辞書に載せて」「載せて」と声を揃える。同類の語構成、語義をもつ語の状況や、まだ集団や場面による偏りが大きいとみて、見送ったほうがよさそうだろうか。
年齢の「歳」は国語の授業で習いたてか、まだ習っていないのかもしれない時期だが、「才」との違いについて思うところを、ここでも尋ねてみた。
「年齢が1-29までが「才」」という生徒がいた。妙に具体的なところが気になる。「10歳以上」、「二十歳から「歳」」、また「社会人と学生で違う」、「社会人は「歳」」などと意見が重なる。これらには、書写者の年齢を指すものと記述年齢を指すものとが混じっているようだ。そうした年齢による壁を何となく理解している点は、大学生や社会人とそう変わらず、十代初めにして、すでにこうした意識を暮らしの中で自然に獲得しているのかと感銘を受けた。
その他の名答を見てみよう。
「場面・用紙の種類による」とある。「ちゃんとした行事・普段で違う」、「略式・正式」というのもこの類に入るか。「いそがしさ、めんどくささ」というのは、より書き手の書字状況や心理に即している。
さらに中学生らしいものを見ていこう。リラックスした雰囲気を醸成できれば、生き生きとした意識や意識化されたものが立ち上ってくる。
「おめでたい・ふつう」。これに近いのが、「誕生日の時・普通に」。誕生日のケーキでは「才」だという説が大学生女子から提示されたことがあり、クリームという物理的な制約がもたらす略記ともいえると感心したことがある。
中学生たちからは「誕生日が来たら・年度の」、「~カ月・ぴったりその歳?」という答えも来た。学年か数え年か、という意味であろう。「才」よりも「歳」の方が、見た目だけでなくどことなくフォーマルどころか旧式に感じられる、という意識の生み出したものだろう。「歳」にさらに微妙な旧字体のあることなどは、ほとんど気付かれていないはずだ。
「目上・目下」というのは、かつての「樣」「様」など字体による待遇表現としての書き分けに通じる意識である。
「生きている人・死んでいる人」。墓碑や位牌か、訃報か何かでの使用が頭に印象深く刻み込まれた経験によるのだろうか。実は死者のためともいえる字は存在する。道教の札は日本では修験道などを除いて現在ではあまり定着していないが、「吊」から派生したのが「弔」という字だ。さらに唐代の『干禄字書』にも、「塊」はただ「弔書」つまり弔いやお悔やみの文章・手紙では「凷(由のようだが、土×凵)」と書き、ともに正しい字だと認めている。現代の日本では、葬儀社や仏具店に、その名の1字を上下逆さまにしているところがいくつかある。その理由を教えてくれないところもあるそうだが、文字霊(だま)のごとき力を認めた上での呪術的な用法であろうか。
中学生の「歳」「才」に戻ろう。「動物・人」、逆に「人間・動物」という意見もあった。動物と言って何を思い浮かべているのかだが、ハムスターや猫は「才」、亀は「歳」といった開きもあるのかもしれない。「手がある・ない」という答えは、犬や虫、蛇か何かのことだろうか。とにかく子供らしい発想だ。
「縦書き・横書き?」という生徒さんの書き込みもあった。なるほど縦書きにはどことなく「歳」が似合うため、大人でもそういう人がいる。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「「菩薩」の略字―現代の抄物書き」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2011年 10月 28日 金曜日 筆者: 山本 貴光
第30回 アリストテレスの影
前回は、ウィリアム・ハミルトン卿による学問の定義が引用されたくだりを読みました。そこでは、学問とは「物事の根源・由来から押さえて、その真理を知ること」だと述べられていたのでした。
このハミルトン卿による定義を見て思い出されるのは、古典ギリシアにおける学問観です。西洋哲学の歴史を繙くと、多くの場合冒頭に古典ギリシアの話が出てきます。それも、いわゆる「ソクラテス以前」と言われる人々、タレスは万物の源を水と言い、アナクシメネスは空気だと言い、云々という話です。
この人たちは、ときに哲学を始めた人々であると説明されます。ここで「哲学」とは、森羅万象、あるいは宇宙(世界)について知ろうとする営みのこと。いまで言うところの科学も含まれています。
タレスを筆頭として、アナクシメネス、ヘラクレイトス、エンペドクレス、アナクサゴラス、パルメニデスといった人々は、それまでのように神話によって自然現象を擬人的に説明しようとする態度から一線を画して、それとは別のところに説明を求めたのでした。タレスが言ったとされる万物の原理は水であるという説明の仕方はその例です。
実は、こうした見立ては、アリストテレスによるものです。彼は『形而上学(τα μετα τα φυσικα)』の冒頭で、自分以前の思索家たちが、宇宙や自然の成り立ちをどのように説明してきたかということを整理してみせています。それは一種の哲学史であり、後の哲学史がタレスから始まるのも、言ってみればアリストテレス先生の見立てをそのままなぞっているからです。
それはさておき、そのアリストテレスは、万学の祖とも呼ばれるほどの人で、あらゆる学術領域について思索を巡らせています。その彼が、なにかが存在しているとはいったいぜんたいどういうことだろうかという問題に取り組んだのが、先に名を挙げた『形而上学』なのです。
この書物の中で、アリストテレスは、事物について驚きを感じることから、人は何かを知りたいと欲するようになると述べています。「これはなんだろう?」と不可思議に思うからこそ、そのことについて知りたくなるというわけです。
このとき、「なんだろう?」と感じた対象について、その原理・原因を見極めることこそが、その対象を真に知ることであり、それを彼は学問と呼ぶのです。詳しく見てゆけば、アリストテレスはいろいろ面白いことを言っているのですが、ここではこのくらいの掴み方でよいでしょう(さらに知りたい方は、『形而上学』第1巻や『ニコマコス倫理学』第6巻をご参照あれ)。
ハミルトン卿は、アリストテレスをよく読んでおり、前回ご紹介した『論理学講義(Lectures on Logic)』でも、かなりの頻度でアリストテレスの著作を引き合いに出して議論を展開しています。おそらく彼の学問の定義もまた、アリストテレスの定義を下敷きにしていると思われます。
西先生が、そうした気配をどこまで感じていたかは分かりません。ただ、もし西先生が、ハミルトン卿による学問の定義を、『論理学講義』から直接引用したのだとしたら、嫌でもアリストテレスの名を目にしたと思われます。しかし、少なくともいま読んでいるくだりでは、直接アリストテレスの名は見えません(西先生がアリストテレスの名前を記すのは、いま読んでいる「総論」の後、各論で致知学〔論理学〕を解説する段になってからです)。このことは、なにを示唆しているのか。「百學連環」を読み進めてゆくなかではっきり見て取れたら、と念じております。
<< 前回 次回>>
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◆この連載のほかの回をお読みになる方は⇒「「百学連環」を読む」目次へ
筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。
2011年 10月 28日 金曜日 筆者: ogm
★貴重な辞書の実物を一挙展示★
創業130周年を記念し、三省堂書店神保町本店の1階フロアにて、近代辞書の歴史をたどる展示会を開催いたします。期間は、2011年11月4日(金)~11月20日(日)。
ごあいさつ
明治14年(1881年)4月8日、神田神保町で、三省堂は古書店として誕生いたしました。そして、本年、三省堂書店と出版社の三省堂は、ともに創業130周年を迎えることができました。これはひとえにお客さまのご愛顧のお陰であると、深く感謝いたしております。
両社は大正4年(1915年)に別法人となり今日に至っておりますが、ともに広義の出版産業の担い手として、つねに時代をリードする事業を展開してまいりました。その最も象徴的なものが辞書出版です。三省堂の辞書出版の130年は、近代辞書の歴史そのものと言っても過言ではありません。
未来は過去の中にあるという言葉もありますが、今回の展示は、三省堂の資料室に保管されてきた貴重な辞書の実物を通して、明治以降の辞書の歴史をふりかえり、ひいては、媒体の多様化で大きな曲がり角にある出版産業の将来を展望しようとするものです。130年のご愛顧に感謝しつつ、今後の両社の更なる飛躍に期待してくださいますことをお願いして、開催のご挨拶といたします。
2011年11月
株式会社 三省堂書店 代表取締役社長 亀井忠雄
株式会社 三省堂 代表取締役社長 北口克彦
三省堂 近代辞書の歴史展
《期間》2011年11月4日(金)~11月20日(日)
《場所》三省堂書店 神保町本店 1階フロア
(営業時間 10:00~20:00)
《主催》(株)三省堂書店 (株)三省堂
展示予定は…… ( )内は初版刊行年や補足情報
三省堂最初の英和辞書『英和袖珍字彙』(1884、四社同盟版)
- 初の単独企画・編集による『ウヱブスター氏新刊大辞書 和訳字彙』(1888)
- 実用的国語辞典の嚆矢『日本新辞林』(1897)
- 現在の漢和辞典の形式をつくった『漢和大字典』(1903)
- 明治末期の代表的国語辞典『辞林』(1907)
- 日本初の本格的百科事典『日本百科大辞典』(1908-1919、全10巻)【写真 下】
- 小型英和辞典の代名詞的存在『袖珍コンサイス英和辞典』(1922)
- 小さな小さな本格派『ジェム英和・和英辞典』(1925)
- 坪内逍遙も愛用したといわれる『三省堂 英和大辞典』(1928)
- ベントン母型彫刻機で作成した5.5ポイント活字による組版、美麗な紙面、当時の学習向け国語辞典としても愛用された『明解国語辞典』(1943)
- 日本で初めての学習用古語辞典『明解古語辞典』(1953)
- 漢字の形から引ける便利な辞書として好評『明解漢和辞典』(新版、1959)
- 戦後初めての小学生用国語辞典として保護者・児童が歓迎『三省堂 小学国語辞典』(1959)
- 現代かなづかいによる見出しや生活に即した用例で好評『三省堂国語辞典』(1960)
- 最も多くの発行部数を誇る『新明解国語辞典』(1972)
……等々、貴重な辞書の数々(ここに挙げたのはほんの一部です)。
ほかに、あの辞書をつくった膨大な用例カードのほんの一部と、“活字で組まれた最後の辞典”と言われる某辞書の組版【写真 上】なども予定しています。

※予定は変更の可能性があります。
2011年 10月 27日 木曜日 筆者: 内田 聖二
今回は‘That’s enough.’あるいは‘That is enough.’という表現を考えてみたいと思います。
enough は数量的に十分な数、量を表しますが、一方で「必要なだけの数量」であることを表す意味もあります。たとえば、COBUILD英英辞典では次のように説明しています。
Enough means as much as you need or as much as is necessary.
‘as much as necessary’の意は enough に一般的に当てられる日本語「十分な」では表現しにくい意味です。
以上のふたつの意味は本辞典に記述してある語義1に相当します。
1 ちょうどよい, 十分だ:“How much salt should I add to this soup? This much?” “That’s enough.” 「スープに塩はどのくらい入れたらよいかしら. このくらい?」「そのくらいね」/ I finally found the right man and got married. That’s enough! Money can’t buy love. やっと自分にふさわしい人と出会って結婚したのよ. これぐらいでいいの. お金で愛は買えないし.
第1例は具体的な数量の例ですが、第2例はいわば比喩的な言い方になっています。さらに、相手がそのときしている行動に対して「十分である」と言えば、その行動を阻止する意味となります。
2 〈相手の行動を制止して〉やめなさい, もういいかげんにしなさい:“Look. I can jump from here. This wall is much higher than that.” “That’s enough! You are going to hurt yourself this time.” 「見て. ここから飛び降りることができるよ. あっちのよりこの塀の方がずっと高いし」「やめなさい. 今度は怪我をするわよ」 / That’s enough now, children. Put your toys away and go to bed. さあ, もういいかげんにしなさい. おもちゃを片づけて寝なさい.
次の語義3もその延長線上で、それ以上の発言を制止する言い方です。
3 〈相手の不愉快な発言に対して〉もうたくさんだ, やめてくれ:“I could go on with complaint after complaint. I could grumble all week.” “That’s enough!” 「文句だったらいくらだって言ってあげるわよ. 1週間だって大丈夫だわ」「もうたくさんだ. やめてくれ」.
語義2,3では enough の基本義のひとつ、「必要な数量」というポジティブな意味が消え、ネガティブな言動を止めるところに主眼が置かれています。
ちなみに、‘This is enough.’という言い方もみられ、三省堂コーパスに次のような例がありました。
‘How long do you want to stay president?’ ‘I will continue to be the president until the moment they will say to me “This is enough.”’「いつまで大統領の座にいたいと思われますか」「国民に「もう十分やった」と言われるまでは大統領でいたいと思います」
ここで、‘That is enough.’と言うと失政など悪いことが続いたあとで「もうたくさん」といったやや突き放した言い方になるでしょうが、‘This is enough.’ではそのようなニュアンスはなく、「十分責務を果たした」といった意味合いが出てくると思います。大統領自らの発言であることに注意しましょう。
* * *
今回をもちまして「『英語談話表現辞典』覚え書き」を終わらせていただきます。‘That’s enough.’と言われないうちに退きたいと思います。長い間ご愛読いただき、ありがとうございました。
【筆者プロフィール】
内田聖二(うちだ・せいじ)
奈良女子大学教授
専門は英語学、言語学(語用論)
主な業績:『英語基本動詞辞典』(1980年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基本形容詞・副詞辞典』(1989年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『英語基礎語彙の文法』(1993年)英宝社(衣笠忠司、赤野一郎と共編著)
『関連性理論―伝達と認知―』(初版1993年、第2版1999年)研究社(共訳)
『小学館ランダムハウス英和大辞典』(第2版1994年)小学館(小西友七・安井稔・國廣哲弥・堀内克明編、分担執筆)
Relevance Theory: Applications and Implications, 1998, John Benjamins.(Robyn Carstonと共編著)
『英語基本名詞辞典』(2001年)研究社(小西友七編、分担執筆及び校閲)
『ユースプログレッシブ英和辞典』(2004年)小学館(八木克正編集主幹、編集委員)
『新英語学概論』(2006年)英宝社(八木克正編、共著)
『思考と発話』(2007年)研究社(共訳)
『子どもとことばの出会い』(2008年)研究社(監訳)
『語用論の射程』(2011年)研究社
【編集部から】
語用論的な情報をふんだんに盛り込んだ、日本発の本格的な発信型会話・談話表現辞典、『英語談話表現辞典』について、編者の内田聖二先生にご紹介いただきます。
書籍購入者は、http://dce.dual-d.netにて本辞典の全データを収録したウェブ版辞典を無料でお使いいただけます。
2011年 10月 27日 木曜日 筆者: 安岡 孝一
タイプライターに魅せられた男たち・第10回
しかし、ショールズのポータブル・タイプライターは、結局、発売には至りませんでした。E・レミントン&サンズ社は、タイプライター部門をスピンアウトし、新たにレミントン・スタンダード・タイプライター社を設立したのですが、新しい会社はショールズやデンスモアとの新たな取引を嫌ったのです。

The Sholes & Glidden Type Writer
しかも、レミントン・スタンダード・タイプライター社は、小文字も打てる「Remington Standard Type-Writer No.2」の販売を促進するために、「Reminton Type-Writer No.1」の中古品を下取りしました。その上で、中古品の「Remington Type-Writer No.1」のフットペダルを外し、美しいデコレーションを施した上で、「The Sholes & Glidden Type Writer」として再販売したのです。大文字しか打てないタイプライターに、もはや実用的な価値はなく、歴史的な装飾品として販売することにしたわけです。
1888年1月9日、ショールズの妻メアリーが亡くなりました。享年66。47年近くに渡る結婚生活で、夫ショールズを支えてきた女性でした。1889年9月16日には、デンスモアがブルックリンで亡くなりました。享年69。善しにつけ悪しきにつけ40年もの間、ショールズの最大のパートナーでした。
この頃、ドッジ(Horace Austin Dodge)という人物が、ショールズの所へと足しげく訪ねてきていました。ドッジは、レミントン・スタンダード・タイプライター社の顧問弁護士でした。同社の親会社となったウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社に、ショールズのタイプライター特許を全て譲渡させるべく、ショールズと交渉を重ねていたのです。そして1890年2月13日、ショールズはドッジの書類にサインしました。莫大なロイヤリティと引き換えに、ショールズのタイプライター特許は、ウィックオフ・シーマンズ&ベネディクト社に譲渡されました。4日後の1890年2月17日、ショールズは永眠しました。71歳の誕生日の3日後でした。翌々日の2月19日、ショールズの葬儀は、ラシーヌ通り833番地の自宅でおこなわれ、ショールズの亡骸は、フォレスト・ホーム墓地に埋葬されました。
その29年後の1919年2月14日、ショールズ生誕100年を記念して、フォレスト・ホーム墓地に、ショールズのモニュメントが建てられました。年老いたウェラーが、レミントン・タイプライター社に働きかけて、このモニュメントは実現しました。モニュメントを建てるにあたり、ウェラーはある言葉をモニュメントに入れるべきだ、と主張しました。ショールズにふさわしく「タイプライターの父」(The father of the typewriter)。そう刻まれたショールズのモニュメントは、今もミルウォーキーのフォレスト・ホーム墓地の一角で、静かに佇んでいるのです。

フォレスト・ホーム墓地に残るショールズのモニュメント
(クリストファー・レイサム・ショールズ終わり)
【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)、『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。
編集部から
安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
2011年 10月 26日 水曜日 筆者: 泉山 真奈美
歴史を彩った洋楽ナンバー~キーワードから読み解く歌物語~ 第3回

●歌詞はこちら http://www.seeklyrics.com/lyrics/Simon-And-Garfunkel/A-Hazy-Shade-Of-Winter.html
曲のエピソード
サイモン&ガーファンクル名義の他の大ヒット曲――「The Sound of Silence」(1965)、「Mrs. Robinson」(1968)、「Bridge Over Troubled Water」(1970/いずれも全米No.1)――に較べれば、チャート的にはそれほど振るわなかったように思われるが、この曲を彼らの最高傑作とする熱心なファンや音楽愛好家は少なくない。彼ら名義の4枚目のオリジナル・アルバム(ライヴ盤やベスト盤などの類ではない、の意)『BOOKENDS』(1968)に収録されているが、それ以前に、ライヴの場で歌われていた。2002年になってからリリースされたライヴ・アルバム『LIVE FROM NEW YORK CITY, 1967』(1967年1月22日にリンカーン・センターのホールで行われたライヴの模様を収録)にこの曲のライヴ・ヴァージョンが収録されている。邦題を「冬の散歩道」という。1994年にTBS系で放映されたドラマ『人間・失格~たとえばぼくが死んだら』で劇中歌として使用されたことにより、サイモン&ガーファンクルの人気が日本で再加熱した。なお、オリジナル・ヴァージョンのリリースから約20年後の1987年、L.A.出身の女性バンド、バングルス(Bangles)がカヴァーし、全米No.2を記録する大ヒット。1980年代の快楽主義の若者たちの日常を描いた映画『LESS THAN ZERO』(1987)の劇中歌で、同映画のオリジナル・サウンドトラック盤に収録されている。
メロディ、歌詞共に哀愁を帯びている。主人公は、夢や希望を追い求めているうちに何もかもが上手く行かなかったと気づき、生きることに押しつぶされそうになっている悩める青年。ポール・サイモンが作詞・作曲したこの曲は、将来に対する漠然とした不安を“a hazy shade of winter(迫りくる冬の気配)”に重ね合わせている。暗く沈みこんだこの青年には、友人の「希望を持てよ」の忠告も耳に入らない。将来への不安は増すばかり…。
曲の要旨
夢を追い続け、希望を抱きながら生きてきた若き青年(注:ポール・サイモンがこの曲を作った時、彼は20代半ばだった)。季節は巡り巡って冬の足音が聞こえてくる。ふと今までの人生を振り返ってみると、何ひとつ自分の思い通りに事が運ばなかったことに気づいて愕然とする。周囲を見回せば、晩秋の空はどんよりと曇り、今にも冬の足音がひたひたと近づいてくるようだ。街路樹の葉は無残にも赤茶けて枯れてしまっている。自分には、早くも人生の晩秋、そして冬が訪れているのだろうか?
1966年の主な出来事
| アメリカ: |
NOW(National Organization for Women/全米女性機構)が結成される。 |
| 日本: |
ビートルズが来日し、日本武道館でコンサートを行う。 |
| 世界: |
中国で文化大革命(通称「文革」)が始まる。 |
1966年の主なヒット曲
We Can Work It Out/ビートルズ
Good Lovin’/ヤング・ラスカルズ
When A Man Loves A Woman/パーシー・スレッジ
Pain It, Black/ローリング・ストーンズ
Stranger In The Night/フランク・シナトラ
A Hazy Shade of Winterのキーワード&フレーズ
(a) be (so) hard to please
(b) a hazy shade of winter
(c) cup in one’s hand
高校時代、3年間で300個の英作文を暗記させられた。1年間で100個。英語の授業はグラマー(英文法)とリーダーのみならず、英作文も週に何回かあったのである。なので、毎日、英語の授業があった。その英作文の教科書に次のようなセンテンスが載っていたのを今でも忘れられずにいる。
Her husband is hard to please.(彼女の旦那さんは気難しい)
これと同じ表現を「A Hazy Shade of Winter」の歌詞に発見し、高校時代に狂喜乱舞したものだ。書き換えるなら、以下のようになる。
It is hard (or difficult) to please her husband.(直訳:彼女の旦那さんを喜ばせるのは骨が折れる/意訳:彼女の旦那さんはちょっとやそっとのことじゃ喜んでくれない)
この曲の主人公も「なかなか喜ばない」タイプだったようで、「僕はかなりの気難し屋だった」と(a)のフレーズで告白している。思い切った解釈をすると、「ちゃらちゃらしたのが嫌いな人間だった」となるだろうか。ここのフレーズから想像できるのは、主人公が人づきあいが苦手で、周りに迎合するのをよしとしない人物である、ということだ。さぞかし息苦しい日々を送っていたことだろう。
そんな主人公に迫りくるのが、タイトルにもなっている(b)の陰鬱な空気。“hazy”は「霞んだ、もうろうとした、漠然とした、不確かな」という意味で、“shade”はご存知のように「日陰、闇、うっすらとした暗がり」などという意味。ここは、目に見える「冬の霞んだ闇」ではなく、「目には見えないけれど、確かに感じられる冬の気配」を暗喩している。それを曇り空にたとえているわけだ。街路樹にしがみついている、今にも落ちそうな赤茶けた葉っぱは、主人公の「夢も希望も失った」ことへの絶望感を代弁するための比喩として歌詞に登場しており、「自分の人生もいずれは舞い散る落葉のようにはかなく終わってしまうのだろうか」と、不安に掻き立てられている様子が手に取るように判る。直接的な表現を用いていないため、じつに抒情的で詩的な歌詞だ。
字面通りに受け取るとかなり奇妙な光景になってしまうのが(c)。「愛用のカップを手にして辺りを見回せ」と直訳すると、実際にカップを持ちながら外をふらふらと歩いて周りを見回している人を想像してしまう。でもって、その人はかなりアブナい人になってしまう(苦笑)。ここの“cup”も当然のことながら比喩であり、その背景には『聖書』がある。
『聖書』における“cup”は「運命、経験、運命を左右する杯」という意味であり、数えてみたところ、『旧約聖書』では計36回、『新約聖書』では計31回、合計67回もそうした比喩として“cup”が登場していた。もちろんこの曲でも「運命」の意味で用いられており、「自分の運命をしっかり受け止めて世間一般を見渡してみろ」と言っているのである。このフレーズは、自分自身を鼓舞させるものであり、この曲を聴いている人々へのメッセージでもある。
20代半ばの青年が綴ったにしては、どこか老成していて絶望感すら漂う歌詞である。そうしたこともあってか、曲の完成度は高いのに、これはサイモン&ガーファンクル名義の名曲にしてはさほどヒットしなかった。むしろ、後年になってから評価が高まった曲、と言っていいだろう。歌は世につれ、世は歌につれ、という。この曲全体に漂う絶望感と閉塞感が、1966年から時を経てまたぞろ世間を覆い尽くした、と考えるのはうがちすぎだろうか。
【筆者プロフィール】
泉山真奈美(いずみやま・まなみ)
1963年青森県生まれ。幼少の頃からFEN(現AFN)を聴いて育つ。鶴見大学英文科在籍中に音楽ライター/訳詞家/翻訳家としてデビュー。洋楽ナンバーの訳詞及び聞き取り、音楽雑誌や語学雑誌への寄稿、TV番組の字幕、映画の字幕監修、絵本の翻訳、CDの解説の傍ら、翻訳学校フェロー・アカデミーの通信講座(マスターコース「訳詞・音楽記事の翻訳」)、通学講座(「リリック英文法」)の講師を務める。著書に『アフリカン・アメリカン スラング辞典〈改訂版〉』、『エボニクスの英語』(共に研究社)、『泉山真奈美の訳詞教室』(DHC出版)、『DROP THE BOMB!!』(ロッキング・オン)など。『ロック・クラシック入門』、『ブラック・ミュージック入門』(共に河出書房新社)にも寄稿。マーヴィン・ゲイの紙ジャケット仕様CD全作品、ジャクソン・ファイヴ及びマイケル・ジャクソンのモータウン所属時の紙ジャケット仕様CD全作品の歌詞の聞き取りと訳詞、英文ライナーノーツの翻訳、書き下ろしライナーノーツを担当。近作はマーヴィン・ゲイ『ホワッツ・ゴーイン・オン 40周年記念盤』での英文ライナーノーツ翻訳、未発表曲の聞き取りと訳詞及び書き下ろしライナーノーツ。
2011年 10月 25日 火曜日 筆者: 笹原 宏之
漢字の現在 第139回 「菩薩」の略字―現代の抄物書き
「円」は元は「圓」だった。今は、神社の奉納社名簿や落語家さんの芸名など使い途が限定されてしまった。この「円」という「新字体」は、元を辿ると、平安時代に弘法大師、空海が「囗」の中に「|」だけを書いて済ましたことに遡れると話す。その下の横画がだんだんと書きやすく短めに書かれるようになっていき、真ん中辺りまでせり上がって、ついに「円」という字体ができた、これがなければ家計簿に書くときにも大変だったはず、と話してみる。由来をお聞きになって、そのお寺に銅像として立つ空海さんは偉い、とそこのお坊さんの先生。
空海は、「圓」を略しただけでなく、「菩薩」は「ササ」を上下に重ねて「
」という合字で書いていた。これは空海の独創ではなく、中国は唐代に僧侶がすでに発明していた略字で、日本では古くから抄物書きともよばれる一群をなしてきた集団文字、場面文字の代表格であり、位相文字の典型だ。
その若いお坊さんの先生が、話を聞いて、ご自身の経験を教えてくださった。大正大学で学んでいたときに、「
」を先生が板書していたのだそうだ。さすが仏教系の大学、千年来の仏徒の位相文字が継承されているのだ。
そこまでは、他でも同様のお話を聞いたことがあった。そこからが面白い。横書きではそう書くが、「私たちは」、縦書きでは「
」と、井戸の「井」のように、「=」の後に「||」と、上下をつなげて書いていた、と言うのだ。そう指で示しながらお話ししてくれた。これ(「
」)さえ面倒になってのことだそうだ。最初は、たまたま縦線同士が上下でつながったのだろう、それが、「あ、これでいける」となったのだろうとみずから顧みて分析し、解説を加えてくださる。
それは、一人だけでなく、学生たちがそう書いていたということのようで、まさに位相文字の新たな位相文字化だ。使用範囲はさらに狭まるが、形からも文脈からも一目で元の字と同定され、また意味も理解される可能性が高い。筆記経済がさらに進展した、歴史的に貴重な例を、お寺の一室で知ることとなった。
「菩薩」は多い、弥勒菩薩、観音菩薩、勢至菩薩、日光菩薩、月光菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩などたくさんいるから、縦書きでお名前を横に並べて、線(}か))で束ねてから、その下にまとめて一つだけ「
」を書いた、とも思い出して語って下さった。必要なところでは、文字は「進化」を遂げるものだ。まさに筆記経済の表れであり、これはその雄弁な証の一つに違いない。
以前、そのお父様は、小著『日本の漢字』(岩波新書)に書いたことを覚えて下さっていて、「ササ菩薩」のほかに、たしか「
」という「ササ点菩提」もご存じであった。お墓の卒塔婆に、曽祖父が筆記したのを見て、これは何かと尋ねて、それで覚えたと、お話し下さったことがある。この字については、ご子息はご存じではなかった。父からは仏教を習ったことはないとのこと、同じ家と職場にいても、伝承が起こるとは限らないことは、どの環境でも一緒のことなのだろう。
同じようなこの菩提の略記の口伝の話は、ほかのお寺でもたまたまうかがったことがあった。この「菩提」の略字は、中国の敦煌文書のそれが、下部を「卅」のようにするのと違っていることも興味深い。日本で昔、やはりさらに書きやすく変えたのだろうか。確かに、「図書館」が略字化されたこと(第133・134回)と同じで、ノートやメモの類で、そんなところの一点一画にかかずらわっているよりも、先に進んで別の内容面の解釈や悟りに近づくための勤行などのことに時間とエネルギーを使っていった方が生産的だと思う。僧侶の合理主義的な一面によって、日本独自の抄物書きは、中世以降、数多く派生した。
早大では、仏教美術専攻の学生が、ノートに菩薩を「BS」と書く、観音菩薩を「KNBS」と書いている、と教えてくれていた。これはお母さんたちには面白かったようだ。「空気読めない」の「KY」だけでなく、「玉子かけご飯」が「TKG」となる時代らしい。「BS」は目新しくはあるが、目指すところもやっていることも、実は千数百年の間、そうは変わっていないのだ。
あらゆる場面で標準とされる「正しい文字」が確定し、それ以外が仮に禁止され、文字が変化を止めたら、どうなるだろう。川は流れが止まれば淀み、水は腐る。新しい水が流れ込む環境があって、生き生きとした姿を保っているのである。社会も人間もことばも移り変わる以上、変化を受け止めながら、場面ごとに最適な文字を模索し続けていくことが必要なのだろう、という日頃の思いを改めて強くした。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「母親の好む表記」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2011年 10月 24日 月曜日 筆者: 富井 篤
「トミイ方式」の変遷
ここでは35年近く前に産声をあげた「トミイ方式」が今日まで、どのような形の変遷をしてきたかについて、下に示す4つの時代に分けて述べます。
(1) 赤線時代
(2) ノート時代
(3) カード時代
(4) コンピュータ時代
今回は、“(1) 赤線時代”と“(2) ノート時代”について説明します。
(1) 赤線時代
「赤線時代」というと、一瞬、懐かしい、妙な響きがありますが、その「赤線時代」とは違います。データ収集方法の1つとして、「欲しいデータに赤い傍線を引く」というやり方をしていた、そのような時代のことです。
だれでも、日本語とか外国語とかに関係なく、物を読んでいて何かハッとするようなところに来ると、そこに赤色の傍線を引きます。
筆者が赤線を引くのは、英語に関しては、今まで述べてきたように7つの大分類に属するデータということになりますが、日本語に関しては、自分の知らなかった情報や、数値的なデータ、格言や諺、真似のできない妙なる表現、表現のバリエーション、蘊蓄のある考え方といったものに赤い傍線を引きます。人によって興味や関心の向く対象はそれぞれ異なりますが、ほとんどの人が実践していることと同じです。
しかし、赤線を引くだけでは、やがてその読み物はどこかへ消えてしまうでしょうし、消えなくとも、何の本の何ページにあったか思いだすには時間がかかったり、思い出せなかったりするものです。これでは、実は、赤い傍線を引いても、単に気休めになるというか安心感が得られるだけで、何の意味もありません。
このようなことをしている時代を、筆者の「トミイ方式」の変遷の中では、「赤線時代」と称しているわけです。しかし、それでは、時間が経つに従って、せっかく収集した――実は収集したわけではなく、収集したと思いこんでいるだけなのですが――データも散逸してしまいます。そこで、考え出したのが、収集したデータをノートに記録することです。
(2) ノート時代
収集した英文データをノートに書き取っていた時代です。データに赤線を引いておくだけではなく、なんとか記録にとどめておきたいという思いで始めたのが大学ノートに書き留めておく方法です。
最初は大学ノートに書き込んでいましたが、いろいろな理由から、すぐにルーズリーフノートに切り替えました。
(a) 大学ノートに
最初のしばらくは、データの量も少なかったこともあり、ただやみくもに、日付を付けて集まった順に、備忘録程度の気持ちで書き込んでいました。
しかし、それではすぐに行き詰ってしまい、1冊の大学ノートを数ページずつのグループに分け、最初からある程度の分類、例えば、商業文の英文例、技術的内容の英文例、各種表現の英文例、各種品詞の参考例文、コロンやセミコロンやハイフンなどの使用例、契約書や特許文などの英文例などなどに分類しながら記録できるように変えてみました。しかし、最初はこの程度に分類しただけでかなりの改善がなされたはずであると思って始めてみても、いざ実際に収集が進んでいくと、これも、すぐに行き詰まりを起こしてしまいました。
(b) ルーズリーフノートに
そこで、次に考え出したのが、ルーズリーフノートを使用する方法です。ルーズリーフノートならば、最初から考えられうるたくさんの分類をしておきさえすれば、新たな分類を加えるにしても、さらに分割するにしても、場所を移動させるにしても、簡単にできると考えたわけです。しかし、これも収集がさらに進むに従い、あっという間に行き詰まりをきたしてしました。
筆者は、数年前、ある必要から、全ての英文データを、仮に「トミイ方式」で分類した場合、その末端単位はいくつくらいあるか調査したことがあります。すると、43,000個から45,000個ありました。
このようにたくさんある分類単位を、たとえルーズリーフノートといえども、最後まで行き詰まりを起こすことなく機能を発揮できるはずなどありません。
そこで、次に考え付いたのが、図書カードを使った「カード方式」です。これについては次回述べますが、この「カード方式」にもいくつかの行き詰まりがあり、いろいろ試行錯誤しましたが、10年ほど前「コンピュータ方式」を採用するまで、実に20数年使ってきた、まさに「トミイ方式」の根幹を貫いてきた柱です。今になって考えてみますと、「赤線時代」はもちろんのこと、「ノート時代」などは有史前のことであり、この「カード時代」の到来こそが「トミイ方式」の歴史の始まりであったように思います。
今、上で、“「コンピュータ方式」を採用”と書き、あえて“「コンピュータ方式」への切り替え”とは書きませんでした。それにはわけがありまして、実は「コンピュータ方式」を採用した後も、「カード方式」の良さは「コンピュータ方式」にはないものがあり、筆者は今だに「カード方式」を使っているからです。その理由は、「第12回 (4) コンピュータ時代」で詳しく述べますが、簡単に言いますと、「コンピュータ方式」には、英文データそのものに、種類の制約、即応性の限界、「トミイ方式」の理解度などなど、いくつもの課題があるということです。
次は、第11回「(3) カード時代」です。
【筆者プロフィール】
富井篤(とみい・あつし)
技術翻訳者、技術翻訳指導者。株式会社 国際テクリンガ研究所代表取締役。会社経営の傍ら、英語教育および書籍執筆に専念。1934年横須賀生まれ。
主な著書に『技術英語 前置詞活用辞典』、『技術英語 数量表現辞典』、『技術英語 構文辞典』(以上三省堂)、『技術翻訳のテクニック』、『続 技術翻訳のテクニック』(以上丸善)、『科学技術和英大辞典』、『科学技術英和大辞典』、『科学技術英和表現辞典』(以上オーム社)など。
2011年 10月 24日 月曜日 筆者: 新田 春夫
クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(118)
cで表記される地名は、これまで見てきたように、ラテン語に由来するものであればむしろcによる表記を近世以降にkに改めたものが多い。しかし、それでもなおcによる表記を保持しているものがある。それらはむしろ由来のわからなくなっている地名が多いようである。それは、まだ正書法の定まっていない時代に、cによる表記が目立つことから差異化などのために使われたものがそのまま受け継がれていると考えられる。また、人名などに由来するものであればその表記がそのまま受け継がれているようである。
ニーダーザクセン州のエルベ川の河口にCuxhavenクックスハーフェンという港町がある。havenは「港」であるが、cuxは低地ドイツ語の「堤防で囲んだ土地、干拓地」を意味するkoogに由来する。中世の表記にKuckeshaven、近世の表記にKoogshavenとあるから本来はcではなかったことになる。
バイエルン州の北部に位置するCoburgコーブルクは1530年にアウグスブルク帝国議会に出席できなかったルターが待機していた都市として知られている。burgは「城」を意味するのであろうが、coの語源は不明である。中世にはChoburc, Chonburchという表記もあり、一貫してc, chが使われている。
ブランデンブルク州のシュプレー河畔にあるCottbusコトブスは今日でもなおスラブ系のソルブ人が住んでいる。地名の語源はソルブ語の人名に由来すると考えられている。中世ではKottbuzと表記されることもあった。
ニーダーザクセン州のハルツ山の近くに鉱山都市として栄えたClausthalクラウスタールという都市がある。ここはノンアルコールビールの醸造所があったところとしても有名である。この地名は人名Nikolausニコラウス、Clausクラウスに関係があると思われる。Klausthalと表記されたこともあった。
【筆者プロフィール】
新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
『クラウン独和辞典第4版』編集委員
【編集部から】
2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。
2011年 10月 23日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki
<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 82
Verbal characters with partial designations (Part 1)

So far, I’ve spoken about verbal characters from the four perspectives of “class,” “status,” “gender,” and “age” (parts 57–72), and addressed, albeit with some digressions, the question I thought would be foremost in my readers’ minds —that of whether or not just four perspectives are enough (parts 73–82). Next I want to address the opposite question: are four perspectives too many? Let me begin by explaining the import of this question.
For example, a “vulgar, aged man of low status” character would say Gehhehe, kore de yoo, tsumi mo nai shimin o yoo, koroseru ttee sumpoo da ze! (Hee hee hee! My plan is to kill an innocent civilian!) (part 73). This verbal character’s class is “vulgar,” his status is low (or “high” or “runt”), his gender is “male,” his age is “elder.” Thus values (“vulgar,” “high or runt,” “male,” and “elder”) can be designated for the four perspectives of “class,” “status,” “gender,” and “age.” This would imply that indeed, the four perspectives of “class,” “status,” “gender,” and “age” are necessary when talking about a speaker’s character.
But what of verbal characters who pronounce the interjectory particle yo with an abrupt rise in intonation? When pronouncing bengoshi ga yo, zaisan o yo… (the lawyer [did something about] the assets…), the “female” character pronounces the yo at the end of bengoshi ga yo with a sudden rise in intonation, then pronounces the yo in the next phrase, zaisan o yo, with another abrupt rise in intonation (part 67). So, what about this “female” character? Is she a young “woman” or not? What about her “class” and “status?” If this “woman’s” “class,” “status,” and “age” could be a variety of things and therefore cannot be determined, then when talking of the speaker’s character, four perspectives aren’t necessary. This is the import of asking whether or not four perspectives are too many.
This question can be posed as follows with a further example. In bengoshi ga yoo, zaisan o yoo… when the speaker uses an intonation that rises at the end of the clausal phrase (at the yo), then drops (at the final o), —which I call the “returned rising final intonation”— the speaker is a “vulgar” “male” character (parts 67 & 72). The “age” of this “vulgar” “male” is not necessarily “young” (part 72). So, what is this character’s “age?” What is his “status”? Are the perspectives of “class” and “gender” sufficient for this character? Are “status” and “age” unnecessary, you might ask?
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God, and my readers, see all. It is exactly as you say. I had meant to bring this fact up before now —it was not my intention to hide it.
(To be continued)