漢字の現在

第138回 母親の好む表記

筆者:
2011年10月21日

お母さま方に、前回の「歳」と「才」のような表記の揺れは、実は日本にしか見られない現象であるとして、さらにお好きな表記について尋ねてみた。「あじさい」は、

 1位 紫陽花
  2位 あじさい
  3位 アジサイ

となった。3位は3人くらいと少ないが、お母さま方もやはり3つに分かれた。

「あじさい」では、ひらがな表記のものにはカタツムリがいそうだとする子供の説を引いてみた。話す前に、やはり隣の人に「あ」の下の方の丸い形からと指摘するそぶりの方がいらして、驚いておいでだ。幼稚園の子供や大学生の中に発露するのと同じ着想がここにも見られる。童心を残しているのだろうか。

ピンク色について。「ぴんく」は、自分はそうは書かないけれども桃色と感じるという女子学生らがいたと紹介する。「ピンク」はより発色が良い、「pink」となればいっそうヴィヴィッドな感じの色とのことだという人がいると話せば、言われてみれば分かる、色の差をだんだん感じられるとのこと。これは、直感によるものだけでもないらしい。文字や表記のもつ形態、機能など種々の因子とその機能が、一種の文化として人々に個々に刷り込まれ、共有されているためなのか。何と解したら良いのだろう。

そこでは、「渋谷」を「しぶや」と読むが、大阪や京都では地名は「しぶたに」や「しるたに」という地名があるというと、「うん」とうなずく人がいた。転勤族も多い。「や」は古くからの関東の方言だと説くと、「あ~」、反応が大きくて話が進む。なお、話の後には、そこに住まわれる先生から「アコクサン」と、初めて耳でその読みを聞いた山号は「阿谷山」、地名から来ているものだ。


お母さま方に、「「ドキドキ」を省略して書くと「ドキ」の後ろに何を書きましたか?」と振ってみる。

「2乗」(ジジョウ)と言ってくださる。「ニジョウ」のことで、「二乗」、「自乗」だ。世代が近い。なお、「次男」は表記を変えて「二男」(ジナン)としても発音は同じだ。「かけるに」つまり「×2」という意見も出てきた。そこまでだったので、近ごろでは、と、

 ドキ②
  ドキ×②
  ドキ

図のような例()も紹介してみると、「なに?」とあっけにとられていた。子供がそう書いていると気付いていた、という声も出たようだ。位相表記は、エネルギー節約のほかに、その時々の「かわいさ」を求めて、どんどん古くなっていく。止まれば古びる。女子の位相表記は変化をとめないのだ。

その会の後には、人名用漢字に認められる直前の字を用いて命名をされた、というお母さんともお話ができた。2004年の追加当時、私も深く関わった法制審議会の人名用漢字部会で採用された、とある字で、あーっと思い当たる。公布前に付けることを試み、やっとのことで制度以前に遡った使用が認められたケースだそうだ。当時、家内と同じ産院で過ごされた方で、色々と考えさせられた政策と日常の生活、そして他者である個人の思いとが意外なところでつながった瞬間だった。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。