2011年 10月 のアーカイブ

漢字の現在:歌わなくてもライブ?

2011年 10月 11日 火曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第135回 歌わなくてもライブ?

 前回の壇上で話をした際には、ただ一点一画に心を込めて、丁寧にしたためていては時間が足りない。もとより臍が曲がっていて、書家のように上手くもない(母曰く:筆跡は遺伝する)こともあってか、硬筆の類で筆致にもったいぶるかのように手間をかけて実用の字を書く姿を見ると、何だか光陰がもったいなく、場面によってはいやらしくさえ感じてしまう。そもそも、サインペンやチョークのたぐいで、筆のような入り方や止め方を過度にもたせた点画の書きぶりには、自然さが感じられず好きになれないので、自分は失礼にならない程度にサラサラっと書いて済ませる。ごく稀に本にサインをしなければいけないような時にも、大きめの字だとまだ何とかなるのだが、速筆で小さい字ではかつての稽古の甲斐もなく、雑になるばかりだと不向きを実感する。

 その後、情報交換会が終わってからも、(内容はともかく)オーバーヘッド、つまりプロジェクター、OHPが良かったという感想が寄せられた。意外なことに、代わる代わる、手書きのスタイルが逆に新鮮だったとおっしゃってくださる。白い紙に黒いペンで、難しい字をすらすらと書いている、次は何の字が書かれて出てくるのだろう、書いた字の一部分をペンで隠すのも面白い、そして今書いた文字がそこに出るということで臨場感が生まれていたのだそうだ。お祭りの後のような時で、少々大げさに言って下さった感を差し引かないといけないが、手書き文字がそれほど減っているということの裏返しなのかもしれない。

 講義も講演も、大げさに言うと一種のライブであるはずだと思っている。訥々とした弁舌でも、噛み噛みの話術でも、毎回異なる会場と空気の中で、聴衆と話者とが織りなす瞬間瞬間である。準備した原稿をひたすら読み上げることは、語るということとは異なる。ビデオで伝えないといけない場面もそれはあるのだが、私はできるだけこういう生動感溢れる、直接伝え合える場面を、ヘトヘトになっても大切にしたいと近頃思えるようになった。

 「手書きでごめんなさい」、「手書きですが受け取っていただけますか」と、レポートや宿題を持ってくる学生がある時期から現れ、今も後を絶たない。私が学生の頃は、ギザギザな字、特に斜めの線が汚く印字されるワープロが現れ始めていて、新しい物好きな人はすぐに取り入れていた。しかし、それでは筆跡が分からず、誰の文章ともつかないので、レポートや卒論などで禁止する先生もおいでだった。1ドットで点画を表すような、味わいも温もりも乏しく、字体を表すのがやっとのフォントのころだった。思えば、字が手で書くものから、手で打つものに変わる時代だった。

 図書館の方々に、短くエビの表記に触れた。「蛯」を書いて示してみたところ、北海道からお越しの女性の方々は、最初、当たり前の字で、何かおかしいところがあるのか、と思ったそうだ。さすが、地域文字にどっぷりと浸かって暮らしていらっしゃる方々だ。エビには何で、書き方がいくつも、色々とあるのだろうと思っていたとのこと。

 札幌からお越しだったので、「幌」を音読みすることがあるか尋ねたら、「幌東(こうとう)中学」が有名と教えて下さる。コウは辞書に載ってはいるが、現実の日常では北海道とくに札幌に集中的に現れる音読みだと話すと、エーと意外がっておられた。

 さらに銭函出身とおっしゃるので、書いてもらったところ、見事に「了」から書き始められた。慣れた、迷いのない筆画だ。第484957回で述べたことを指摘するとまた驚かれる。地域文字を支える無意識がまた示唆的だ。子供のころに地元で表記が「凾」から変わったとのことだ。

 「留萠」(この字体について、「何となくできた字」とかおっしゃっていた)が「きちんとした字」の「留萌」になった、あるいは「月寒」の子供のころの発音「つきさっぷ」が「つきさむ」に漢字のせいで変わった、というお一人お一人の経験談も、活字で読んだ記憶と結びついて興味深い。人は、瞬間に空間を移動することはできないし、同時に2か所にいることももちろん、過去に戻ることもできないという制約の中にある。近ごろ話題となったイタリアでの実験に基づき、仮に相対性理論などが塗り替えられても、そうした制約の突破は実現しうるのだろうか。

 ともあれ、こういう機会を設けて下さることによって、現実の文字の動態の一端に気づいてもらえる。さらにそのことから、事実のほかに当事者の意識や経験を教えてもらえるという循環は、研究者冥利に尽きる。それ以前に、こういう攪拌役も必要だ、と考えられるようになってきた。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「手書き文字に味わいあり?」でした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

大規模英文データ収集・管理術 第9回

2011年 10月 10日 月曜日 筆者: 富井 篤

「トミイ方式」のきっかけ

今回は、もう、かれこれ40年近く前になりますが、「トミイ方式」との、そもそもの縁(えにし)についていろいろ思い出しながら述べてみたいと思います。それにより、読者の中には、「実は今、自分もそのような状況にいるんだ。それならば、自分にも合っている方法かもしれないぞ」と合点する人がいるかもしれません。その人たちの中で、一人でも「トミイ方式」をお始めくださる方がいらっしゃったらこれに勝る喜びはありません。

もちろん、最初から「トミイ方式」というものが実在していたわけではありません。必要に迫られていろいろなことを試行しているうちに「トミイ方式」というものが形作られてきたわけで、現に、「トミイ方式」というものを私自身が意識し始めたのは、スタートしてから10年近く経過してからのことです。

40年ほど前は、筆者はまだ商社に勤務していました。そこでは、毎日毎日おびただしい量の英文の手紙が送られてきました。まだe-mailなどがない時ですから、海外からの情報は、テレックスといって、会社間の電報のようなものもありましたが、そのほとんどは手紙という形でした。毎日それらの手紙を見ているうちに、彼らの書く英語と私たち日本人の書く英語との間に、わずかともいえない、埋めることのできない溝があることに気がつきました。この溝は、結局は物事の発想の違いからくるもので、私たちがいくら辞書や文法書や参考書で勉強しても永遠に埋めることのできないものであるように思われてなりませんでした。

余談になってしまいますが、今になって考えると、事件ともいえる、その象徴的な出来事が、第3回にも紹介しました、アメリカのあるバルブメーカーの輸出部の責任者から来た手紙との遭遇でした。

Present schedule will bring me to Tokyo on February 27.

という内容は、別にむずかしくも何ともない、ただ

現在の予定では、私は2月27日に東京に行くことになっています

というだけのことです。ところが私は

現在のスケジュールは、私を2月27日に東京に連れて行く

という発想、すなわち、日本語では、「人間を東京に連れて行く」という行為の主語には絶対になりえない「現在のスケジュール」を主語にしている発想に度肝を抜かしてしまったのです。この種の構文は、「物主構文」などとして取り上げている文法書もあり、特に珍しいものではありません。その文法書に載っている例文も、あくまでも文法書の中でしか存在しないような例文ではありましたが、それまでに何回となく目にはしていましたので、別に驚くほどのものではありませんでしたが、実際に仕事の中で遭遇してみると、それは驚きでした。早速その手紙を、周辺の同僚たちに示したのですが、誰一人感動するものはなく「責任者が2月27日に東京に着く」という事実の認識だけに終わってしまいました。

この構文は、後に筆者がのめり込むようになる「無生物主語構文」の一種ですが、この時この「無生物主語構文」に目を開いたことが、さらにそれから数年後に「トミイ方式」の「きっかけ」になったことは言うまでもありません。実は筆者は、この文章は、その後何回も使ったことがあります。

さて、話を元に戻します。彼我の発想の違いからくる英語の違いを克服しなければならないわけですが、それには、「私たちはいくら辞書や文法書や参考書で勉強してもこの違いは永遠に埋めることはできない。これからは彼らの書いた英文を片っ端から集め、それを使いやすいような形に整理しておいて、いざ英文を書くときに必要なものを取り出して来て書く方が手っ取り早く、かつ、彼らの発想に近い英文が書けるはずである」という、半ば敗北宣言に近い「諦めの気持ち」に落ち着いてしまったわけです。すなわち、前にも書きましたが、われわれ日本人にとっては、所詮「英作文は英借文に過ぎない」という達観というべきか、諦観というべきか、そのような境地に落ち着いてしまいました。

最初のうちは、収集したデータの中から典型的な語句や文章などをピックアップし、利用しやすいテーマごとに分類して、主にセンテンス単位で大学ノートにメモ程度に書き写していました。したがって、収集したデータは、そのほとんどが、自分には発想できない言い回し、以前に自分で英文を書いていて困ったことのある語句や表現や文章構造、和英辞書には載っていないような英単語や表現の妙な使い方などばかりでした。ということは、収集の対象になっていたデータは、すべて、英語を書く時、既成の和英辞書には載っていないようなものばかりでした。

しかし、月日が経つにつれ、徐々に筆者の関心事の幅が広くなり、深さも増していき、おのずと収集するデータの範囲も広がっていきました。アルファベット順に分類・収納しておいた方が後々利用価値があると思える英単語、例えばprovide,cause,allow,permitなどの因果動詞などを「アルファベット順」という分類の中に、増加・減少、変化・変動、原因・結果・理由・目的、異・同・類似、順序・順番・種類、性質・特性・特徴・特長・彫塑・短所、などの「表現別」、冠詞、前置詞、動詞、助動詞などの「品詞別」、無生物主語構文、否定構文、比例・比較構文、否定構文、強調構文、倒置構文、省略構文などの「構文別」、数と量に関する表現、以上・以下・超え・未満、単位、概略などの「数量表現別」、それに、上記の中に入らないその他すべてを「その他」などに分類していったのです。データの数も徐々に増え、その数は、2011年7月の時点で、およそ350,000点に上っています。

以上、「きっかけ」から始まり、その「質」「量」とも年月の経過に伴い、充実し、現在に至っています。

前回の繰り返しになりますが、これらのDBを使い、「活用機能」、「学習機能」にもっぱら使っており、最近の20年ほどは、3つ目の機能である「発表・制作機能」を謳歌?して、もっぱら著作業に専念しています。

【筆者プロフィール】

富井篤(とみい・あつし)
技術翻訳者、技術翻訳指導者。株式会社 国際テクリンガ研究所代表取締役。会社経営の傍ら、英語教育および書籍執筆に専念。1934年横須賀生まれ。
主な著書に『技術英語 前置詞活用辞典』、『技術英語 数量表現辞典』、『技術英語 構文辞典』(以上三省堂)、『技術翻訳のテクニック』、『続 技術翻訳のテクニック』(以上丸善)、『科学技術和英大辞典』、『科学技術英和大辞典』、『科学技術英和表現辞典』(以上オーム社)など。

An Unofficial Guide for Japanese Characters 81

2011年 10月 9日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki

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“Kansai natives” (3)

Whew! Mr. Yokoi scared the heck out of me! What do you mean you don’t know what I’m talking about? You know… the Premeditated Crime Research Committee. It was yesterday. Washio was saying something about whether the “rehabilitation of the leftist youth was real or fake.” Then that guy suddenly said “I only joined this research committee because Prosecutor Masaki invited me.” It was Yokoi. It was unbelievable. Really.

Yeah, that’s the guy. The guy who says stuff like “I was an idiot back then,” and “How could you be such an idiot?!” in an Osaka accent. The guy who drops his cases against all first-time offenders. He’s like some sort of populist! He was haranguing us in Tokyo dialect, or rather standard Japanese. Really. He said: “Where’s the nobility in scholarship and research?” And: “What the Hell are you hoping to find out?” No, really. In any case, we ended the meeting, but boy was I surprised.

I see. The Yokoi who spoke Osaka dialect was a “fake.” To be sure, he was born in Osaka, but he is more temperamentally inclined to speak standard Japanese; he’s a fake “Kansai native.” He found it less troublesome to pass as a “Kansai native” at work, but at the research meeting he just lost it. I guess you could call it a premeditated crime, eh? He was getting sick of the “Kansai native” act, and used the opportunity to throw away the mask and come out of the closet. Does this mean that Yokoi will speak in standard Japanese from now on? That’s a little creepy.

Or maybe… Maybe he wasn’t faking, but since he was absorbed in an academic discussion that was dominated by standard Japanese, he forgot that he normally used Osaka dialect, and was not his usual self. Maybe he’ll say: “I’m the first time offender. Leave me.” (Shohan-yagana. Minogashitee-na). That would be creepy too.

What do you think? Maybe we should try to get a confession from Yokoi himself. But, how will he act today? If I were him, I’d shout “just kidding!” (Naanchatte), and try to act like my usual self. Of course! He could act like everything, including yesterday’s outburst, was a joke. However, he’d have to say “just kidding” with an Osaka accent (Naanchuute). It’d be meaningless to use standard Japanese. I wonder. Man, this has gotten me really tense.

*

There are various ways to interpret the “Yokoi Incident.” But whichever interpretation you choose, the core of the matter is that Yokoi underwent a sudden change, and for a time Yokoi was not his normal “Kansai native” self. What makes us surprised and nervous is exactly this sudden change of tone.

Yokoi’s sudden shocking, startling change is not a mere “change of style.” This person speaks like thus and so, and should always speak that way. This way of speaking is connected with this person’s background and temperament. It cannot be changed intentionally like style. That is what we expect. If a sudden change occurs that contradicts this expectation, both the observed and observer, trying to guess at what has just happened, feel awkward, and are surprised and nervous. This sort of thing is at the foundation of our everyday conversations. This is what is called “verbal character” to distinguish it from “style,” as I’m sure the reader already understands quite well. However, as “characters” and “verbal characters” comprise the core concept of this series, to be on the safe side I have spent some time on the “Other” characters (parts 79 on), as they are particularly easy to misunderstand. We will conclude this discussion next time.

(To be continued)

author

Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems)Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

角色大世界――日本 81

2011年 10月 9日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)

<< 角色大世界――日本 80

“关西人”们(3)

呀,昨天的横井真是太可怕了。诶,不知道吗?喂,不是有个确信犯问题研究会吗?昨天开了这个会。鹫尾检察官他们谈论“关于一左派青年的背叛乃至伪装背叛”之类的内容。但是,横井突然说什么“我原本是受正木检察官的邀请,才参加这个研究会的”。哎呦,他说的话真是出乎意料啊,真的。

是的,那个人是说“わしゃ、昔、アカでなぁ (Washa, mukashi, akadenaa; 俺,从前可是共产主义者)”、“お前、なんでこんなアホなことをやったんや (Omae, nande konna aho-na koto-o yattan-ya; 你为什么要干这么蠢的事啊)”等等的满口大阪方言的人。他还从不起诉初犯者,像个“庶民派”似的。可是,有一天他却突然咣咣地用东京口音,不,应该是普通话来讲话。真的。他用普通话说过,“学问和研究的崇高性究竟在哪里?”呀,“你究竟是想知道什么?”等等的。我说的是真的。我强制性地结束了那个研究会的内容,真的是把我给吓坏了。

原来如此。那么说,说大阪方言的横井是“伪装”的吗?他的确出身于大阪,莫非他在品性上说普通话时更轻松,只不过在职场上因嫌麻烦就一直在当“关西人”。但是在研究会上动真格的,不由自主地就…?也许他还是个确信犯呢。因为对“关西人”开始厌倦了,所以就扔掉假面具寻找坦白的机会。那样的话,从此以后横井就要一直说普通话吧。真有点令人毛骨悚然啊。

或者啊,还有这种可能性。那就是他并没有“伪装”自己,只是因过于热忠于用普通话来进行的学问谈论中,他就忘了说大阪方言,成了跟平常不一样的横井。时不时地再用关西口音说上一句“初犯やがな。見逃してぇな (Shohan-yagana. Minogashitê-na; 初犯嘛,就放过了吧)”之类的话。即使这样也有点让人不舒服。

到底是怎么一回事呢。索性不如给横井检察官做个供述记录吧。不过,他今天是以什么样的表情来上班的呢。如果是我的话,开口第一句就会大喊一声“なーんちゃって (Nânchatte,什么呀)”,然后就以平常的横井检察官来行动。原来如此,就是把昨天所说的内容全部当成玩笑,这是个好办法。不过,要是那样的话,就应该用大阪方言说“なーんちゅうて (Nânchûte)”,不应该说普通话的吧。也许吧。哎呀,真是连我都心惊胆颤的。

 

就这样,关于“横井检察官事件”可以有形形色色的解释方法。无论是哪一个解释,事件的核心就在于“原本是‘关西人’的横井检察官,在某一瞬间里就变得不是‘关西人’”的横井检察官的变样上,这个事实是不会被改变的。我们的心惊胆颤和忐忑不安都是因这个变样而引起的。

让我们心惊胆颤、忐忑不安的横井检察官的变样,并不是单纯的“形式的转换”。我们所期待的是“这个人的说话方式是这样的,今后也会一直是这样的说话方式。这种说话方式应该跟这个人的家世以及人品有密切关联。不能像形式那样可以故意转换”。当这个期待被背叛,产生变样的时候,不光是当事人就连看到变样过程的其他人也会像现在这样,虽然能一定程度地猜测到那究竟是怎么一回事,但是还是会感到尴尬甚至忐忑不安。这些都是在我们日常会话的根底里。我把这个现象区分于语言的“形式”,将它叫做“话语角色形象”。关于这些,想必各位读者都已十分清楚了吧。但是,不管怎样“角色形象”和“话语角色形象”是本连载的中心概念。为了让大家多加注意一下容易产生误会的“异人”角色,近来一直在写关于这个的内容 (第79节以来)。至于结果,请下回见分晓。(待续)

author

《烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系》(筑摩新书,2008)定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。

地域語の経済と社会 第171回 動く「方言エール」~東日本大震災復興の方言メッセージ(4)

2011年 10月 8日 土曜日 筆者: 田中 宣廣

地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第171回 動く「方言エール」~東日本大震災復興の方言メッセージ(4)

 第146156166の3回にわたり,東日本大震災に関連する「方言エール」について紹介してきました。

【写真1 方言エールTシャツ初期の例】
【写真1 方言エールTシャツ初期の例】
(クリックで拡大)
【写真2 大きく「がんばっぺ」】
【写真2 大きく「がんばっぺ」】
(クリックで拡大+ステッカーも)
【写真3 ローマ字でも「Ganbappe」】
【写真3 ローマ字でも「Ganbappe」】
(クリックで拡大+袖も)
【写真4 Tシャツを見る人も頑張ります】 【写真5 まさしく復興メッセージです】
左:【写真4 Tシャツを見る人も頑張ります】
右:【写真5 まさしく復興メッセージです】
(クリックで拡大)
【写真6 高速バスの「けっぱれ」】
【写真6 高速バスの「けっぱれ」】
(クリックで全体を表示)

 今回は,“動く”方言エールを紹介します。ポスターや看板などの,場所が固定された掲示物と異なり,動くので,見る人も多くなります。

 まずTシャツです。第156回に「②F がんばっぺす! みやこ(Tシャツ)」【写真1】(第156回での写真はクリックでエールの部分だけ表示されます)を紹介しましたが,最近,方言エールをプリントしたTシャツが多く見られます。Tシャツなので,着ている人が動けば,方言エールも一緒に動きます。

 方言エールは,胸側,背中側の両方ともあります。第156回で紹介した例は左胸に小さく(楕円の長径約10cm)ですが,最近のものは,胸側でも背中側でも大きく描いています。

 描かれる方言エールは,基本的なもので,上の「がんばっぺす! みやこ」や「がんばっぺ東北」【写真2】があります。「がんばっぺ東北」は関連するステッカー類も発売されています【写真2~クリック】。

 また,ローマ字の「Ganbappe 3.11」【写真3】もあります。袖にはかなと漢字の表記もされ,やはり,ステッカーもあります【写真3~クリック】。

 派生形もあります。たとえば,近年流行の当て字的な書き方による「顔晴っぺ宮古」です。読み方は,「ガンバッペ」ですが,この書き方には,顔が晴れ晴れするように,悲しみを乗り越えて,の意味があるといいます。

 別のことばでは,「負げねぞ釜石」や「がんばっつぉ!! 宮古」【写真4】があります。

 方言ではなく,なんと英語も登場しました。「REVIVE MIYAKO」(私の訳で『よみがえれ宮古』とします)【写真5】です。岩手県宮古市に救援に駆けつけた各都道府県警察に感謝したTシャツです(「MPD」は,Metropolitan Police Department=警視庁=東京の警察)。

 “動く”と言えば,バスもありました。高速バスの後ろに「けっぱれ! 東北!!」とありました【写真6】。

 現在,Tシャツは,10枚程度から,オリジナルを注文して作成できます。ユニフォームにしているグループも多くあります。つまり,方言エールTシャツは,いくらでも作ることが可能なのです。バスに出会うことがあるかもしれません。皆さんも見つけましたら,私たちに教えてください。

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【筆者プロフィール】

言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
 井上史雄大橋敦夫田中宣廣日高貢一郎山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)

『付属語アクセントからみた日本語アクセントの構造』田中宣廣(たなか・のぶひろ)
 岩手県立大学 宮古短期大学部 准教授。博士(文学)。日本語の,アクセント構造の研究を中心に,地域の自然言語の実態を捉え,その構造や使用者の意識,また,形成過程について考察している。東京都立大学大学院人文科学研究科修士課程修了。東北大学大学院文学研究科博士課程修了。著書『付属語アクセントからみた日本語アクセントの構造』(おうふう),『近代日本方言資料[郡誌編]』全8巻(共編著,港の人)など。2006年,『付属語アクセントからみた日本語アクセントの構造』により,第34回金田一京助博士記念賞受賞。『Marquis Who’s Who in the World』(マークイズ世界著名人名鑑)掲載。

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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載。

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この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

漢字の現在:手書き文字に味わいあり?

2011年 10月 7日 金曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第134回 手書き文字に味わいあり?

 「」、この字は一字で「としょかん」と読む。音読みとみれば合字、訓読みになっているとみれば一種の形声文字といえようか。秋岡梧郎が作った個人文字に端を発する。秋岡氏は、「図書」「読書」など、筆記に便利な個人文字をほかにもいくつも作り、弟子が受け継ぐ中で残ったのがこれだった。同じ頃に、日本に滞在していた中国の人が作った「圕」は、東京外大の蔵書印でも使われている例を見かけたが、それよりもよほど簡便で、位相文字(集団文字、場面文字)となっている。

 これを「図書」の略記としても使っているという男性もいらした。たしかに、そう使いたくなるのも人情だろう。『図書館雑誌』では、これが活字になって使われていたと知らせてくれた女性もいらした。これは確か明朝体で印刷されていたのを見たことがある。

 この字は、実は他の集団も、別の意味で使っている。高校生に対する模擬講義の際に、この字について話してみた。その時に、その私立学校では、これを「かくと」と読ませている、と生徒たちが言う。「囗」が「角(かく)」なのだろう。各自図書館へ、という特定の時間を表す略記なのだそうだ。秋岡梧郎の造字とは別個に生まれたものなのだろうか。あるいはそれに当て読みをして、その高校独自の意味を付与し、新用法を獲得させ、定着させたものだろうか。

 さらに、かつて、受講していた法学部生が興味深いことを教えてくれた。ある若い先生が、これを「登記」の略記として板書に用いているというのだ。学生のノートの字にもそれが影響しているそうだ。なるほど、民法では、「登記」は頻出する用語で、一方、そこでは「図書館」などという語はそうは出てこない。たまたま面識のあったその担当の先生にうかがったところ、「ト」の周りは「くにがまえ」ではなく「□」(四角)とのことで、自分もそれを先生から教わったという。まさにこれはこれで集団文字だった。記号のようだが、語形との明確な対応を有しているのだ。

 このような状況になっていることが確認されたため、「」をもしそういう字まで収集対象にする字典を作って記述するならば、日本の用法としては、ブランチが3つ立てられる。

 なお、登記には「」という旗印を書くという先生もおいでだそうだ。自分のもの(会社や土地)だ、として旗を立てるということなのだろうが、そんなものは知らない、という法学の先生のほうが多く、どうも学内でもいろいろと流派のようなものがあるようだ。概して集団文字というものは、当事者になってみないとはっきりとは掴めない。意外な事実がまだまだありそうだ。逆に当事者であっても、もちろんそれを意識化し、客体化させないかぎりは、それは空気のような存在であって、その位置に意味を見出すことは生まれない。地域文字にそれはいっそう顕著だ。

 文字の話をするときには、具体的な文字を示さなければならない。具体例に沿わない文字の議論は、眠気を誘うばかりとなりかねない。司書さんたちへの話では、黒板がない国際会議場の2階建てのホールだったので、文字を書いた紙を、背後の大きなスクリーンに投影できる、かつてのOHPのような設備を準備して下さった。急遽、白紙と、受付にあったサインペンとを持ってきていただき、それにその場で文字を書いては示すこととなった。先に書いておくという時間の余裕はもうない。1枚だけ、とくに厄介な字を書いてはみたが、本番では取り紛れて出てこなくなった。

 習い事など、型やお作法にはめられることを嫌うというか苦手とする性分だが、知識は力なりと堅く信じていた高校時代に、文部省認定という謳い文句を信じて受講したペン習字やレタリング、校正実務、さらに大学生になって近所で看板を見て飛び込んだ書道塾(そこでは立派な先生に巡り会えた)が、多少なりとも字の結構や点画の形状の再現に、役立つこととなる。文字を研究する際には、文字に関わることに、没入しきると危うさが生じるが、そうした経験はしないよりはしておいたほうがよい。もっと何でもやっておけばよかったのかもしれない。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

* * *

【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「図書館の集団文字(位相文字)」でした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

「百学連環」を読む:なぜScience and Artsなのか

2011年 10月 7日 金曜日 筆者: 山本 貴光

第27回 なぜScience and Artsなのか

 西先生は、まず日本語(漢語)の「學術技藝」について確認した後、そもそもこうした語を対応させることになった欧米の言葉に目を向けます。続きを読みましょう。

學術の二字則ち英語にてはScience and Artsをラテン語にはScio ars{私カ物ヲ知ル}又はartis. 大此の如しと雖も、其の學問といふ所以を深く知らさるへからす。

(「百學連環」第2段落第11~12文)
{ }内は行の左に添えられている。

 次のように訳してみました。

「学術」の二字を、英語ではScience and Arts、ラテン語ではScio arsまたはartisという。おおまかにはこういうことだが、そこで言われてる「学問〔学術〕」のなんたるかをよく知る必要がある。

 ご覧のように、日本語の「学術」が英語、ラテン語と対応していることが示されます。

 前々回にも少し触れたように、ScienceとArtsと、単数形と複数形が並べられているところが、ちょっと気になります。現代のようにScienceが「学術」ではなく「科学」と訳される場合であれば、Scienceの名の下にさらなる諸科学が分類されるという意味も見てとりやすい道理。しかし、「百学連環」で言われているScienceは、「科学」ではなく「学術」に対応しています。

 それならいっそのこと、Artのほうも単数で記せばよさそうなもの。現に「乙本」ではこの箇所は、”science and art”と記されています。とはいえ、実際のところ西先生がどう考えていたのかは、この文章だけからでは判断できそうもありません。

 ひょっとすると英語では一般的な表記なのでしょうか。角度を変えて考えてみます。

 そこで連想されるのは、アメリカの科学雑誌『American Journal of Science and Arts』です。そう、”Science and Arts”です。1818年に創刊されて、現在も続くこの雑誌は、もっぱら地球科学に焦点を当てたもの。ウェブサイトを見ると、いまでは”and Arts”は外されています。

ディジタル化されたものが公開されているので、創刊号を覗いてみましょう。扉にはこうあります。

THE AMERICAN JOURNAL OF SCIENCE,
more especially of MINERALOGY, GEOLOGY,
and the other branches of NATURAL HISTORY;
Including also AGRICULTURE
and the ornamental as well as useful ARTS.

 実際にはすべての文字が大文字で印字されていますが、ここでは一番大きく印字されているJOURNAL OF SCIENCEと、学術名を大文字にしてみました。訳せばこうなるでしょうか。

アメリカ科学ジャーナル
特に鉱物学と地質学
およびその他の自然誌〔博物学〕の諸領域について。
ただし農業と
装飾と実用にわたる
諸技芸も含む

 さらにページを繰って、雑誌の趣旨(PLAN OF THE WORK)を読んでみると、「本誌は、一連の自然諸科学(circle of THE PHYSICAL SCIENCES)と、そうした科学を諸技芸(THE ARTS)やあらゆる実用目的への応用を包括的に取り扱うものである」(同誌, Vol.1, p.v)と書かれています。ここではSciencesと複数形が使われていますね。

 詳しい検討は省略しますが、その文章全体を読んでみると、自然科学のさまざまな領域を意識する文脈では、Sciencesと複数形を使い、自然科学全体を「科学」とひとまとめで扱いたい文脈ではScienceと単数形を選ぶというように、使い分けられていることが判ります。

 それに対して技芸のほうは、ほぼ例外なくArtsと複数形で書かれています。そこでより具体的に並べられているものを見てみると、農業、機械製造、化学製造、家政、音楽、彫刻、版画、絵画などなど、驚くほど多種多様です。

 これは推測に過ぎませんが、科学に比べて、ここに並べられた諸技芸は、一口にArtとまとめてしまうには、あまりにも多様なために、Artsと書くことになるのではないかと思います。まとめきれないと申しましょうか。

 これはもちろん西先生の「百学連環」と直接関係することではありません。しかし、ここで考えたことは、ひょっとしたらこの先で西先生の学術観を知るうえで補助線となるかもしれません。そう思って少し寄り道をしてみました。ラテン語の話は次回にしましょう。

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=槪(U+69EA)

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筆者プロフィール

山本貴光(やまもと・たかみつ)

『コンピュータのひみつ』(朝日出版社) ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

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【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。

談話研究室にようこそ 第13回 呪文のなかのラテン(その2)

2011年 10月 6日 木曜日 筆者: 山口 治彦

第13回 呪文のなかのラテン(その2)

 ここでは例をたくさん挙げることは控えましたが,見た目にはむずかしそうな呪文らしい呪文が,『ハリー・ポッター』シリーズでは数多く出てきます(興味のある方は,The Harry Potter LexiconやWikipediaのThe List of Spells in Harry Potterなどをインターネットでご覧になればいいでしょう)。

 これらの呪文は前回で確認したように,ラテン語を模して作られています。では,『ハリー・ポッター』の呪文は,ラテン語が分からないとまったく意味をなさないのでしょうか。

 いえ,そんなことはありません。ラテン語を2度あきらめた私にもじゅうぶん予測がつきます。前回挙げた呪文をもとに考えてみましょう。再掲しておきます。

(18) a. Petrificus Totalus (ペトリフィカス・トータラス)
b. Expelliarmus (イクスペリアーマス)
c. Expecto Patronum (イクスペクトー・パトローナム)
d. Wingardium Leviosa (ウィンガーディアム・レヴィオーサ)
e. Obliviate (オブリヴィエイト)

 まず,第11回にも見たPetrificus Totalusですが,これは,petrification(石化),petrify(石化する,硬直させる),そしてtotal(全体の)といったラテン語系の英単語を知っていたら,全身を石のように硬直させる呪文であると予想できるわけです。

 同様に,Expelliarmusは,expel(強制退去させる,放校処分にする)とarms(武器)から,相手の武器(魔法の杖)を剥奪する呪文であると見当がつきます。 Expecto Patronumは,patron(庇護者,後援者)に当たるものをexpect(期待する,待ち望む)するわけです。つまり,守護霊を招来する呪文です。

 Wingardium Leviosaは,ラテン語もじり(dog Latin)の最たるもので,英語にとっては土着的な(古期ノルド語から移入された)基本語wing(翼)とラテン語系の語幹levi-をふたつある単語の語頭にそれぞれ組み入れています。(-ardiumの部分は,ラテン語のarduus(高い)を含んでいるという指摘もあるようですが,一般の英語読者はおそらくそれに気づく知識を持たないだろうし,作者も気づいてくれることを意図していないだろうと思います。)要は,wingとlevi-が目立つ訳です。そして,levi-の意味は,levitate(心霊術などで空中に浮遊させる)やlevity(軽率)といった単語から,軽さや浮遊状態を表すことが予想できます。物体を羽根があるかのように空中に浮かせてしまうという呪文です。

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【筆者プロフィール】

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版) 『語りのレトリック』(海鳴社)山口治彦(やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。
専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。
著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998)『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

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【編集部から】

雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。

クリストファー・レイサム・ショールズ(7)

2011年 10月 6日 木曜日 筆者: 安岡 孝一

タイプライターに魅せられた男たち・第7回

しかし、1873年9月18日、ジェイ・クック商会の預金支払停止に端を発した株価の暴落は、アメリカ全土を恐慌の渦の中に叩きこみました。E・レミントン&サンズ社は、倒産こそしなかったものの、タイプライターの製造を始められる状態ではありませんでした。困ったのはショールズです。ショールズは、タイプライターの特許使用料が入ってくるのを見越して、公共事業委員会の幹事職を辞職していました。しばらくは貯えがあるものの、このままではたちまち困窮してしまいます。

ショールズは、ミルウォーキー・デイリー・ニュース紙の編集に、職を得ました。新聞編集者として働きながら、E・レミントン&サンズ社がタイプライターの製造を始めるのを、じっと待ったのです。そして1874年5月、「Sholes & Glidden Type-Writer」の最初の1台が、ショールズのもとに届きました。時にショールズ55歳。7年に渡る開発を経て、やっとタイプライターは商品化されることになったのです。ただし、E・レミントン&サンズ社は、あくまでタイプライターの製造を請け負っただけでした。タイプライターの販売や宣伝は、ショールズとデンスモアとヨストに任されていました。

sholes7a.jpg
「Sholes & Glidden Type-Writer」1号機

E・レミントン&サンズ社から届いた「Sholes & Glidden Type-Writer」は、外見がまるで足踏み式のミシンでした。構造自体はショールズのタイプライターを踏襲していて、1文字打つたびにプラテンが1文字分ずつ左に移動する仕掛けでした。ただし、ショールズのタイプライターとは違い、フットペダルが追加されていて、フットペダルを踏み込むことでプラテンが右端に移動する仕掛けになっていました。印字は原稿用紙の下側におこなわれるので、打っている途中で時々プラテンを持ち上げて、文章に間違いがないかどうかチェックする必要がありました。印字可能な文字は、大文字のA~Z、数字の2~9と、ピリオド、コンマ、コロン、セミコロン、疑問符、ハイフン、アポストロフィ、アンパサンド、アンダーラインと「」でした。数字の1は大文字のIで、数字の0は大文字のOで、それぞれ代用しました。「」は、電文を受信する際の「段落と段落の区切り」に用いられました。

ただ、E・レミントン&サンズ社から届いたタイプライターには、ブランド名の「Sholes & Glidden Type-Writer」が、どこにも記されていませんでした。その結果、ヨストが、このタイプライターを、「Type-Writer」という名前で宣伝・販売しはじめてしまったのです。発明者のショールズとグリデンは、全く無視された形となってしまったのです。

sholes7b.jpg
タイプライターの宣伝広告(The Nation, 1875年12月16日)

(クリストファー・レイサム・ショールズ(8)に続く)

【筆者プロフィール】

安岡孝一(やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

http://slashdot.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

近刊案内(2011年10月)

2011年 10月 5日 水曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部
三省堂の辞書・事典、また言語関連の本で2011年10月に刊行が予定されているものは…

新明解 現代漢和辞典

影山輝國 編集主幹
伊藤文生・山田俊雄・戸川芳郎 編著
B6判 1,776ページ 2色刷 ¥2,940
ISBN 978-4-385-13755-1
2011年10月28日 販売会社搬入予定



漢字・熟語の原義と、日本独自の意味・用法とを区別して示した新しい漢和辞典。
親字10,700、熟語54,000。2010年11月改定・改正の最新の常用漢字・人名用漢字に対応。
全漢文用例に書き下し文と現代語訳を掲出。訓の歴史を知る「古訓」欄ほか、「旧国名(旧州)地図」など特色ある付録を満載。


『新明解現代漢和辞典 』のページへ



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また、既にご報告いたしましたとおり12月1日に新明解国語辞典の第七版が刊行されます。

新明解国語辞典 第七版

山田忠雄・柴田武・酒井憲二・倉持保男・山田明雄・上野善道・井島正博・笹原宏之 編


いずれも1,728ページ 2色刷

[並版(赤)] B6判  ¥3,150   2011年12月1日 全国一斉発売
[特装版(白)] B6判  ¥3,150   2011年12月1日 全国一斉発売
[革装版] B6判  ¥5,250   2012年1月中旬 販売会社搬入予定
[小型版] A6変型判  ¥2,940   2012年1月中旬 販売会社搬入予定
[机上版] A5判  ¥4,725   2012年1月中旬 販売会社搬入予定
[大活字版] B5判  ¥4,935   2012年2月下旬 販売会社搬入予定



日本でいちばん売れている小型国語辞典『新明解国語辞典』の7年ぶりの全面改訂版。
新たに1,000語を増補し、収録語数約77,500。
版型を大きくし、紙面を刷新、いっそう見やすく使いやすく。
2010年内閣告示された新「常用漢字表」に完全対応。
新設の[文法]欄では、助詞・助動詞の接続情報をはじめ、文法に関する問題点を広く取り上げ、日本語の表現性の豊かさに着目。
また、形容詞項目を全面的見直しをはじめ、客観的な意味分析を踏まえ、定評あるシャープな語釈にさらに磨きをかける。
運用欄もさらに充実、特に待遇表現や使用場面によって帯びる特殊な意味などを中心に、運用面での諸相を簡潔に示した。


『新明解国語辞典 第七版』のページへ

漢字の現在:図書館の集団文字(位相文字)

2011年 10月 4日 火曜日 筆者: 笹原 宏之

漢字の現在 第133回 図書館の集団文字(位相文字)

 一時期、これは、と思ってパワーポイントでの資料作成に凝ったことがある。準備に手間が掛かるが、作ってしまえば発表当日はそのきれいな画面と時には音声にまで頼って話すことができる。

 ある学会で、アニメーション機能まで付いた労作の動画を、レジュメ代わりとして眺めていたときに、これは自分の頭の中を素通りしてしまっている、と気付いた。面白かったかな、といった感想は残るが、中身が箇条書き風に整理されすぎているためもあるのか、聴き手のものにならないように感じたのである。

 私は、それから自分にとっての基本に立ち返ろうと思った。聴きに来て下さっている方々に合わせられるように「ぶっつけ本番」を旨とするようになった。様々な理由からパワーポイントを使わない主義だと公言する教授もおいでとのことで、その思想に共感し、意を強くする。一方、パワポを使わない先生は怠けているというような評価も一部で耳にするが、講義も講演も、私の場合、基本はしゃべりと板書だということは確信している。皆が眠くなる食後、とくに午後の時間帯こそそうだ。

 一言一句、あらかじめ準備をすることも、求められないかぎりやめた。紙芝居のような原稿の切れ端を持っていき、手元に並べていく。落とせばゴミと見紛うメモだ。これは、話にある程度流れを作る必要と、話す内容を忘れて頭の中が真っ白にならないための資料だ。プリントも、来場の方に上を向いてもらいたいという気持ちもあって、最小限に減らした。聴いて下さる方々の関心に即して、内容をその場で微妙に変え、話し方も工夫しようと試みてみる。

 先日、いろいろなご縁がつながって、私立大学の図書館に勤務される方々360名にお話をする機会を頂いた。司書の方々に対しては、大人しそうなイメージを勝手に抱いていて、さらに先人たちの講演されたテーマを見て、頭を抱えた。何とか、自分が学生時代からの大学図書館との関わり、配架された蔵書にいかにお世話になったものか、知識面でも理論面でも、知の再構成のためにどれほど必要な場なのかを、ささやかな経験をもってお話しし、さらに漢字研究に不可欠な場であること、そしてどれほど豊かな文字情報が眠っている所であるのかをあくまでも自己流に、それらの限界を含めて語ってみた。

 そこにおおらかに育ててもらい、今でも助けてもらっている図書館へ、いつもの如く我流ながら恩返しが少しでもできたならば、この上ない幸いであった。調べに苦闘する私の若き姿の幻も浮かんだ方がおいでだったそうだ。電子版が整備されていなかったころの『大蔵経』からの調査など、発熱した夜には夢に繰り返し現れ、魘されたこともある。ネット上で全文検索がとにもかくにもできる良い時代となったので、そうしたツールを活用した新たな研究がどんどん開かれていくはずだと思う。

 膨大な蔵書は、書誌に関する遡及入力が済み、多言語対応まで完備された大学図書館だ。ネットのシステムで所在を検索して来たかと思えば、昼寝だけをしていたり、中には蔵書を汚損したり、レポートのために借り出したまま1年間も放置したりするケースが出るなどの現状は、どこでも同じなのだそうだ。学費が講義や図書館を成り立たせていることを忘れてはもったいない。元を取ろうとする姿勢を、学生たちにはもたせようと努めなくては、と躍起になっている。

 世の中の文字の現実も、本にどんどんと盛り込んで、調べごとや読書をする方々や、少々無理のあるリファレンス内容にも応対する司書の方のためにも、さらに役立てて頂かなければ、と、今回話をするに当たって、会場で落としたらゴミと間違われそうな紙片の原稿を整理したり、実際に壇上で話を進めたりしながら、痛感した。もちろん、本にできることは、各自が知ることのきっかけ作りまでかな、とも思っている。「悉く書を信ずれば則ち書無きに如かず」、元々の意味とは変わっているようだが、これはこれで当を得ている。本はもちろん、どこかに絶対の正答が眠っている、なんて思ってしまうと危ういものだ。

 図書館関係者が集まる会ということで、ゆかりの深い「字」を持ち出してみた(右上の緑色の字を参照)。図書館員には常用の字で、メモ書きなどに頻出するのだが、活字になることは稀で、文字コードに採用する必要性も唱えられない字だ。とある甲骨文字を楷書にした隷定字形などに、たまたま同形の字があるため、頑張ればパソコンでも使えるようになっているのかもしれない。この字は、岩波新書『日本の漢字』に記したとおり、秋岡梧郎というアイデアに富んだ先人が90年ほども前に発明した「字」だった。蛇の道は蛇、なんていうと讃えていないようだが、この事実に迫るきっかけを教えて下さった国会図書館の司書さん(お名前をうかがおうとしたが、固辞された)に感謝したい。この字は、何と読むかお分かりだろうか。ヒント:答えは、この本文の中にたくさん書いてある。

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【筆者プロフィール】

『国字の位相と展開』笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
 早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)

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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「ドット文字と略字」でした。

この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。

耳の文化と目の文化(29)―地名の表記(3)―

2011年 10月 3日 月曜日 筆者: 新田 春夫

クラウン独和辞典―編集こぼれ話―(116)

ドイツ語の正書法では[k]の音はkで表し、cで書かれる語はラテン系言語からの外来語である(例:café「コーヒー店」)。また、本来cで表記される語であってもドイツ語の語としてはkで書かれるようになったものも多い(例:Kaffee「コーヒー」)。このことは地名に関しても言える。従って、ドイツの地名でありながらcで表記されたものはたいへん目立つように感じられる。

前回(第115回)、ウムラウトに関連して、Kölnケルンはローマ人によって建設された植民都市を意味するcoloniaに由来することを述べた。このKölnの表記はその語頭のkも本来はcであったがドイツ語の正書法に従いkになった。実際に、中世ではCöllenという表記もみられる。また、シュプレー河畔のベルリンにCöllnという地区があるが、これは1200年頃にライン河畔のKölnからやって来た入植者が故郷の町の名前に因んでつけた名前である。

紀元前後にローマ人が建設した植民都市はライン河畔の各地にある。ライン川にモーゼル川が流れ込む地点にあるKoblenzコブレンツはラテン語のconfluentes「合流」に由来し、1926年まではCoblenzと表記されていた。また、ライン川の発するボーデン湖に臨むKonstanzコンスタンツもローマ皇帝Constantius Chlorusの名前を冠したローマ人の要塞であったことによる。実際、中世ではConstantzと表記していた。

ラテン語に直接に由来しない場合もある。中部ドイツ、ヘッセン州にあるKasselカッセルはフランケン方言cassellaに基づくが、これはラテン語castellum「要塞」からの借用語である。Casselという表記も中世にはまだあった。また、南西ドイツのフライブルクからライン川を渡ってフランスのシュトラスブルク/ストラスブールへ向かう地点にKehlケールという町がある。この名前は中世ドイツ語のkanel「管、雨樋、溝、用水路、運河」に由来し、同じ意味のラテン語のcanalisからの借用語である。この場合、kanelはライン川の支流を指していると思われる。

【筆者プロフィール】

新田 春夫(にった・はるお)
武蔵大学教授
『クラウン独和辞典第4版』編集委員

【編集部から】

2008年2月に『クラウン独和辞典』(第4版)が刊行されました。日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

An Unofficial Guide for Japanese Characters 80

2011年 10月 2日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki

<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 79

“Kansai natives” (2)

An often overlooked case related to the “Kansai native” character is public prosecutor Yokoi from Takahashi Kazumi’s Hi no Utsuwa. What kind of person is Yokoi? He is this kind of person.

“I was a communist back then.” Yokoi, who was from Kansai and shared a room with me, for some reason had never been promoted. He was always made to handle the burglars and pickpockets, and was always joking around. He dropped cases against all first-time offenders without even interrogating them.

“How could you be such an idiot?! Your kid is about to start middle school, and he doesn’t even have a bag or a pair of leggings. So you stole them from a department store. Moron! You took a train to the department store, didn’t you? Did you walk? You wrote right here that you took the train. If you had saved up your train fare, tightened your belt a bit, you could have bought the things you stole… what do you mean you did it out of motherly love? As for the leggings, you could have made a pair out of an old blanket or your waistcloth. Understand? I’m going to give you a break this time. But if you do this again you’re going straight to prison. Got it? Right.”

Even in the prosecutors’ office, Yokoi’s dropping of cases became a problem for a while. But, he overwhelmed the opposition at our meetings with his blunt Osaka accent and articulate reasoning for not prosecuting first-time offenders.

[TAKAHASHI Kazumi, Hi no Utsuwa 1962]

By the by. Later in the story, when the “Premeditated Crime Research Committee, advised by Public Prosecutor Washio of the Public Safety Division, analyzed the letters, records of interrogation, and records of a probation officer, regarding the rehabilitation, or faked rehabilitation, of a leftist youth,” it is described as follows.

“Let’s go back to the start of the argument.” Sitting next to me, Prosecutor Hatoda expelled the kind of bad breath particular to ulcer sufferers as he spoke. “If, after re-arresting Mr. A, we give the examining judge that legal argument, he will probably decide that the statement of rehabilitation, dated 1931, is false, and in light of Mr. A’s behavior, should question the problem of his faked rehabilitation. Wouldn’t that have more merit?”

“What merit?” Yokoi said, rudely putting an elbow on the table. Amazingly, he did not use Kansai dialect. “I only joined this research committee because Prosecutor Masaki invited me. I’ve participated in the committee every week and researched various legal precedents and behavior, namely Manabe, Sano, and Mitamura. However, I have always secretly thought that one day we’d have to ask ourselves: What in God’s name are we trying to learn? Surely someone would say it, I thought, but nobody did. This is a good opportunity. So let me say it. What I want to say is this: Because we are the ones who do the questioning, we ourselves are being questioned. Each of us is asked, what, to thinking animals such as humans, is thought? Have you never asked yourself, what is thought to beings like us? Are we trying to prove that humans are monkeys? Do we want to know that pain is the human condition? Or are we looking for the characteristics of the ‘blood and earth’ of the Japanese people?”

It was too dark to read the expressions of the people sitting across from me. In the darkness, I couldn’t distinguish outside from inside. The blackboard, and Washio standing tensely beside it, was just a mass of shadow. But nobody got up to flip the switch next to the door. Yokoi’s voice went on.

“Where’s the nobility in scholarship and research? I suppose one facet of scholarship is proving and reveling in the fact that humans are humans, but has there been even a glimpse of nobility in our research? A single being, confronted with huge, overwhelming authority, reduced to its two legs, two hands, its fragile skin, and its hairs, which don’t even protect its body, will scream for its minimal right to continue living.

That scream, the pain of that voice, is the only truth. Whether it’s screaming “A” or “B,” it only proves the fundamental principle that “life wants to live.” That’s no surprise. You could say from the record of the preliminary trial questioning, the trial records, the written descriptions and the letters that this rehabilitation was brought about by the love of the family. You could categorize this or that as remorse felt while under arrest, that as personality, this as racial awareness and so on. You could say the incontrovertible facts of that premeditated crime are such-and-such, or the motivation of this crime against the state are this or that, and run your statistics on them. But what is the point?

What’s the point of analyzing and arguing, like flies sucking the blood out of a corpse? Masaki, you’re the theorist of this research group. You have the most enthusiasm for this problem. I’d like to hear your answer. You were so eager to get us to participate in this research committee. What are you so passionate about? What the Hell are you hoping to find out?

[TAKAHASHI Kazumi, Hi no Utsuwa 1962]

Hmm… although Yokoi’s words leave us with a lot of… unanswered questions, it’s getting late, and today’s column is already twice its usual length, so I would, like to adjourn for now and pick up where we left off next time. Thank you.

(To be continued)

author

Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems)Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

角色大世界――日本 80

2011年 10月 2日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)

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“关西人”们(2)

上节末尾写到,要说起“关西人”角色的话,那就得要提一下在高桥和已的《悲器》中出现的横井检察官。横井检察官是什么样的人呢?他是这样的一个人。

“俺,从前可是共产主义者”,同屋的出身于关西的横井检察官一直没有晋升,他总是对付一些盗窃犯或小偷什么的。他还经常自暴自弃地乱开些玩笑,也不认真地盘问犯人,而且只要是初犯者他都不起诉。

“(用关西方言说)你为什么要干这么蠢的事啊!孩子都进中学了,连个背肩包和裹腿布都没有。你就到百货商店偷这些呀!傻子啊你!去百货商店时是坐电车的吧。难道是走着去的?这儿写着你是坐电车去的。花着电车费去偷那些稍微一节约就能买的东西。什么母爱啊!裹腿布的话,用毛巾或者剪开你的围腰子就能做出来。是吧。嗯,这次就先放你一马,若再有第二次的话就把你关进监狱里。好吧,知道了吧。”

检察官内部里一时还因横井检察官的这种不起诉处分的行为而成了大问题。但是,在会议上,他还是会滔滔不绝地说一口大阪方言,将初犯不起诉论的意见坚持到底。

[高桥和已《悲器》](1962)

但是,有一天却有了些变化。那是在“以公安科的鹫尾检察官为报告负责人的确信犯问题研究会上,关于一左派青年的背叛乃至伪装背叛的问题,由书信、盘问笔录以及保护观察记录等来分析的时候”,他会这样。

“学问和研究的崇高性究竟在哪里?学问也是人类作为人类的自豪和明证的一部门。但是,在我们的研究中有过崇高性的一斑吗?当某一个存在置身于膨大的绝对的权利面前,又被还原为赤裸裸的、只有两条腿两只手和易破的皮肤以及覆盖不了身体的头发的时候,他只能为守护最低的生存权而拼命喊叫。那是喊叫,只有那声音的悲伤才是真实的。不管那内容是A还是B,那只是证明了‘生欲生’的这一基本原理。那是当然的。你们将那些用预审盘问的笔录或审判记录或感想录或信件来分辨为,这个背叛是由家庭爱而导致的、那个是拘禁中的反省、那个是性格、这个是民族的自觉等等。那个确信犯的确信内容是这般如此,而这个国事犯的动机是什么什么,统计这些究竟有什么意义呀。就跟爬在死者血上的绿豆蝇似的,分析和议论这些问题到底有什么用?正木检察官,你是这个研究班的理论家。你对这个问题更加热心。请回答一下。因为你,我才积极地参加这个研究会,你的热情究竟是什么?你究竟想知道什么?”

“咱把讨论的焦点还原吧”,坐在我旁边的波户田检察官喘着胃溃疡患者特有的口臭说到。“到不如说,如果是A君在被再逮捕之后跟预审审判员讲述了那个法律论的话,那么他在昭和六年所做的背叛声明应该是伪装的,因此现在对A君的行状就应当要讨论伪装背叛的问题。那样的话,成果会多一些吧。”

“什么成果?”,毫无礼貌地把胳膊肘支在桌上的横井检察官说了一句。奇怪的是那语调不是关西方言。他接着说“原本,我是被正木检察官邀到这个研究会的。但是,我心里一直暗想总有一天我们必须要好好考虑一下我们究竟在追究什么?我以为会有人开口,可是谁也不说。今天是个好机会。那就我来说吧。是这样的。我们虽是在审问的立场上,但同时也在被审问。我们每个人难道没有想过,思想对有思维的动物即人类来说是什么吗?思想对于那个存在究竟意味着什么?我们是要证明人类是猴子的吗?我们是想要知道人类所苦恼的人类般的存在的吗?还是想弄清日本民族的<血和土>的特性呢?”

会场已暗得看不清对面人的表情了。黑暗里没有外和内的区别。黑板和直立在黑板一旁的鹫尾检察官,现在也只不过是一整块儿的影子罢了。但是,没有一个人肯站起来去拧开门口儿边上的开关。横井检察官的声音仍继续着。

[高桥和已《悲器》](1962)

嗯,那个,横井检察官说了这么一番话,嗯,看来议论还没结束。不过,那个什么,现在时间不早了,再说稿子的字数也远远超过了既定的字数了。后续内容还是下回再讲吧。那个,本节内容就暂时在此告一段落吧。谢谢了。(待续)

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《烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系》(筑摩新书,2008)定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。

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