漢字の現在

第144回 3、4匹の「龍」

筆者:
2011年11月11日

坂本龍馬は、妻となるお龍(りょう)に名前の字を尋ね、自分と同じ字だと笑ったそうだ。司馬遼太郎の『竜馬伝』は、「龍馬」を「竜馬」とすることで、フィクションであることを表したという話を聞くが、本当なのだろうか。ある検定済みの国語教科書では、「坂本竜馬」と「芥川龍之介」とが年表の中で、近くに並んでいた。常用漢字表に従って、固有名詞ながら「竜」で統一していた時期があったそうだが、現場の国語の先生たちが芥川についてだけクレームを入れてきた結果だと聞いた。ある字体へのなじみは、やがて好みになるのだ。さらに澁澤龍彦も、名を「竜」で書かれることを嫌がったのだそうで、日本では字体にまつわる思いの籠もった逸話に事欠かない。

かつて大型コンピューター全盛の頃、使用できる文字のリストを眺めていたら、という字が収められていた。こうした文字表に出るものは、たいてい音・義も用法もはっきりしないことが常であり、もどかしい。かつて人名にでも用いられたものが、登録されて残り続けたということなのだろうか。漢和辞書には、は載っている。「龍龍」(本当は1字)と同音の字で、異体字ともされる。かつて、書店で『大字典』を開いていたら、これまでは載っていて、感銘を受けたものだ。古色蒼然とした版面に「タフ・ダフ、龍行く、」とある。龍が飛ぶさまである。文字番号は14886、目当ての『大漢和辞典』の1/3くらいで、いっそう『大漢和辞典』が欲しくなるが、これも忘れがたく、手にとってレジに向かった。この項目では、名乗として「ユキ」ともある。明治の『名乗字引』に出たもののようで、人名に用いられることがあったのだろう。その略字として、「竜」3つも実在したのだろうか。

  

龍4つも「龍龍」と「言」からなる字から生じたものと考えられる。テツ・テチ、多言。当時の『ギネスブック』にも、『中文大辞典』を根拠に、この字が世界一の画数の字として登録されていた。もっと凄い画数の字があるのにと義憤を感じ、文字についての西洋中心の記述を改めるべく準備を始めたのは、中学に入ろうかという辺りだった。今では、『ギネスブック』は日本版が毎年は出なくなったようで、開いても言語の項目が失われていて寂しい。そのも、人名には、ときおり選ばれ、使われていた。人名用漢字の縛りのなかった当時である。おしゃべりとかうるさいとかいう字義よりも、そのたたずまいの格好の良さ、画数の多さが選ばれた要因であろう。昨今流行の字画占いは可能なのだろうか。その煩雑さから、とすることがあった、との話をある本に記した。先日、情報を辿ってやっと確認しえたところ、となぜか「龍」が一つ減って記されていたのだった。実物は崩し字で書かれており、明治初年であれば、64画はいつも書くのが大変というほどのことはない。目撃された方からも、確かにその写真のものだったとの確証を直接うかがえた。真相の確認に思いのほか時間が掛かってしまった。

 

辰年を迎える来年には、何とかきちんと修正したい。正月には、広場では凧が揚げられることだろう。そこには江戸の昔から「龍」が登場する。字凧の定番だ。そこに「竜」は似合わない、とたいていは思うようで、圧倒的な数の「龍」が舞う。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。