漢字の現在

第145回 「雰囲気」は「ふんいき」or「ふいんき」?

筆者:
2011年11月15日

中学2年生たちには、「宜しく」をきちんと書ける人もいた。しかし、訓読みを含めては習っていないこともあり、やはり「宣」が現れる。「宜しく」と書くと、「あー」。そして、「夜露死苦」は、例によって大勢が書ける。漫画、小説で覚えたそうだ。「高崎で」、という声は、暴走族による落書きを見たということだろうか。かつては壁にスプレーペンキで殴り書きされていたり、「なめ猫」といっしょに写っていたものだ。

「四六四九」と書く生徒もいた。これは、江戸時代に滝沢馬琴が使っていたものだ、と話すと「オー」と喚声が上がる。生徒さんたちが文学史までよく勉強していることに、こちらも驚く。表記には、遊びと実用の境目が現在でも希薄なところがある点も、こうした伝統に実は裏打ちされてのことのようだ。

「うるさい」を「○月○(虫偏の字)い」と書くときに、2つの○にはそれぞれ何が入るでしょうか。明治初期からあるが習うことのない「五月蠅い」よりも、「誤答」が多くなるのは当然ではあろう。

 六月蛙い
  七月蛙い

確かに田んぼで蛙がやかましい、という。こういう表記に地方色(地域差?)が出てきて、楽しい。

 三月虹い

「むしろ爽やかでは?」と微笑んでしまう。

 三月蚊い
  五月蚊い
  八月蚊い

「蚊」は、たしかにいつの季節だって、音だけでなく、存在も行為も煩わしい。我が家では、この11月に入ってからも刺された。

 五月蛆い

「ウジ虫」。静かそうだが、煩わしいという本来の意味での「うるさい」に当たるものだろうか。

 五月蝦い
  11月蝦い

「蝦」を「エビ」と読めてのことだろうか。なぜそれらの月でなのか、疑問は尽きない。

 七月蟬い
  八月蟬い

やはりセミも登場した。当世の意識の反映なのであろう。さらに、私も見たことのないような新字系の解答も現れた。漢和辞典には見つかるものも含まれようが、たまたまであろう。とくに5月のそれはいやな感じだ。

  

 四月(虫+差)
  五月(虫+汚の右)
  八月(虫+釆)

短い時間なので、どんどん進める。「ふんいき」「ふいんき」、ふだんはどちらを使って話していますか? そしてその漢字は?

 「不陰気」
  「風因気」 ふいんき

いかにも「ふいんき」という発音らしい漢字が当てられていた。「雰」の字をまだ習っていないようだったから無理もなかろうが、大人でもたまにこうした表記で書く人がいる。さらに、「ふんいき」にも、

 「風囲気」

と、あいまいに鼻音化した発音に惑わされたようなものが登場した。また、

 「範囲気」

が出現したのも、母音の響きの怪しさに惑わされた結果だろうか。日本人には、この「n i」(んい)という音の連続が、発音しにくいのだ。「店員」「定員」は、大学生でも打ったり書いたりするのに、ごちゃごちゃになることがある。「範囲」の読みを「はいい」と書いた学生もいた。字音として覚えるのではなく、耳で聞こえた印象でとらえてしまうようだ。これらは、若年層を中心にだいぶ広まってきたが、社会一般からは表記としてなかなか容認されそうにない。

改めて発音してもらうと、皆で「ふんいき」と、努めてはっきりと発音する。「変換できない」と男子の声。一部でこの「なぜか変換できない」は、決まり文句となったが、そうした不満や揶揄に配慮し対応することによって、今では「ふいんき」からでも変換されるソフトが現れている。表記や発音の「矯正」へ向かう契機を失わせる可能性もある。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。