漢字の現在

第158回 ここでも揺れる「葛」の字体

筆者:
2012年1月27日

高知での一場面。田舎の駅の跨線橋の階段を、女子中学生同士が手を繋いで降りてくる。また腕を組んで駆け登っていく。大学近くの線路を渡ったところにある神社では、学生たちかデートをする光景もあり、のどかだ。地域文字はないか、と探すのは卑しい感じがしないでもない、自然に眼に入ってくるのを待つのだ。

「葛島」だ。歩き回っているうちに自然に着いた。空港からのバスの中からも見ていた所まで来てしまった。この「葛」は、ときどき字体に問題ありとして扱われる字で、教え子もこの字を丹念に観察して修士論文を仕上げた。皆さんのパソコン画面では、この字は、どういう字体で見えているだろうか。高知のその地名では、

 かづら

 かずら

と、仮名遣いも揺れているが、字体が気に掛かる。

葛(ヒ)島」と、明朝かゴシック体で看板にあった。ほかに、

葛(L人)島」と明朝体。

葛(匕出ない)島」と筆字とゴシック体。この手書き用とデザイン用の両方の書体が、互いに似てくるとは皮肉なことだ。はねない「ヒ」のほうが伝統的な筆字に近い。

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葛(Lメ)」と、かえっておかしくなっているものが、この地にもあった。大学生も「○葛飾郡」・「葛飾区」という住所で、この字をよく書いているが、引っ越して来て間もない者は、この字体で書きがちだ。新参者であることが字面からある程度分かる。生粋の者、生え抜きはどこかの段階で習ったり自覚したりするのだろうか、「葛(L人)」と書く者がほとんどだ。

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葛(メ×一)」も、高知の電柱の手書きに見られた。

さて、この字については、飛行機で東京に戻ってからも気付いたことがあった。羽田空港からリムジンバスを待つ。これに乗れれば、モノレールよりもさらに楽に帰宅できる。停留所で、待っている行き先とは異なる「葛西」行きという表示が出る。

そのバスが来た。先頭の電光掲示では「葛(ヒはねる)」。

同じバスの側面の電光掲示では「葛(L人)」。

字種として、文字列として、表記として、気にする必要のない差だという事実を体現してくれていた。指摘されれば、ドット文字のフォントを揃えなければ、と思うかもしれない。JISの規格の見出し字体や常用漢字表の改定に翻弄されたような市も生じた。

道中の疲れの中、やっと来たバスに対して、そんなことを気にする人もそうはいないだろう。バスの先頭座席が好きだ。小学校の頃は酔うことがあったが、進行方向を見ている人は絶対に酔わないと聞き、それを知ってから見晴らしのよい席をできれば選ぶようになった。臨場感やドキドキ感もあり、ゲームのようだとはしゃぐ子供のようだが、風景の中に溶け込んだ字も、よく見えるのだ。

路上の白い字には、独特の癖がある。車内の運転席から読みやすいようにと細長く記されている。テレビで、親方がまっすぐに線を引き、カーブも巧みに仕上げているのを弟子が真似をするという場面への取材があったのを思い出す。100キロを超す速度の中、動体視力で読みやすい字体は、実際にあの公団フォントだったのだろうか。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。