2012年 2月 のアーカイブ
2012年 2月 29日 水曜日 筆者: 泉山 真奈美
歴史を彩った洋楽ナンバー~キーワードから読み解く歌詞物語~ 第21回

●歌詞はこちら
http://www.olivia-newtonjohn.com/music/lyrics/never-been-mellow/been-never-mellow.html
曲のエピソード
オリヴィアにとって、「I Honestly Love You(邦題:愛の告白)」に続く2曲目の全米チャート制覇となった大ヒット曲。アダルト・コンテンポラリー・チャートでも堂々のNo.1を記録し、カントリー・チャートでもNo.3と大健闘した。
彼女に複数の楽曲を提供しているオーストラリア生まれのソングライター/プロデューサーのジョン・ファラー(John Farrar/1946-)が、1974年に彼女の全米ツアーに同行したミュージシャンたちが会話の中で好んで“mellow”という言葉を使っていたことにヒントを得て作った曲だと言われている。その際、自らもミュージシャンであるファラーもツアーに同行していたのだろう。
英語圏では、しばしば曲のタイトルが誤って伝わることがあるが、これも「Have You Ever Been Mellow」と勘違いされることが多い。邦題の「そよ風の誘惑」は、歌詞の内容とは全く関係がなく、アーティストや曲のイメージから思いついた雰囲気もののタイトルに過ぎない。当時、原題が長いため、恐らくオリヴィアの担当ディレクターが頭をひねって考え出したものだろう。「誘惑」から察するに、ラヴ・ソングかと思いきや、じつはこれはメッセージ・ソング。それでも、邦題がすっかり浸透してしまったためか、今でもカタカナ起こしなどに変更されることなく使われている。
曲の要旨
肩ひじを張って、いつも神経をとんがらせている人。何事をするにもあくせくしていて、見ている方まで気疲れしてしまいそう。でも、そんな人を見ていると、かつての自分自身を思い出さずにはいられない。そんな生き方が、どんなに息苦しいものなのか、自分も体験しているだけに、よく理解できる。そんな人に、思わず声をかけたくなってしまう。「これまで一度も肩の力を抜いたことはないの?」と。そうすれば、きっと楽になるはずだから。このへんで歩みを緩めてみましょうよ。
1975年の主な出来事
| アメリカ: |
ウォーターゲート事件の裁判で判決が下る。 |
| 日本: |
沖縄県の本土復帰を記念する沖縄国際海洋博覧会が開幕。 |
| 世界: |
イギリス保守党がマーガレット・サッチャーを同党初の女性党首に選出。 |
1975年の主なヒット曲
Please Mr. Postman/カーペンターズ
Black Water/ドゥービー・ブラザーズ
Lady Marmalade/ラベル
Lovin’ You/ミニー・リパートン
Jive Talkin’/ビージーズ
Have You Never Been Mellowのキーワード&フレーズ
(a) mellow
(b) one’s song
(c) kick one’s shoes off
この曲が流行ったのは、筆者が小学校5~6年生の頃。たまたま従姉妹がオリヴィアのLPを持っていたので、邦題の「そよ風の誘惑」をオン・タイムで知った。歌詞の内容なんて解らなかったから、邦題に惑わされて、てっきりラヴ・ソングだとばかり思っていた。やがて高校時代に趣味で訳詞をやり始めた頃、何となくもう一度この曲を聴いてみたくなって、今度は自分でLPを買い、一生懸命に訳してみた。そこで初めて、これがラヴ・ソングではないことを知ったのだった。確かに、「そよ風の誘惑」は清楚なイメージのオリヴィアにはピッタリの邦題だったけれど、別の曲に当てはめた方が良かったのでは……?
(a)は、ひと昔前、日本でも流行した言葉。「メロウな気分で」とか、「メロウな音楽を聴きたい」とか、そういう使われ方をしたものだ。カタカナ語は、原意とはちょっと違うニュアンスになってしまっている。原意は「やわらかな、甘い、(果実などが)熟した、(土地などが)肥えた」の他に「感じのいい、心地好い、くつろいだ」といった意味。もちろんこの曲の(a)は後者の「くつろいだ」という意味に匹敵する。「くつろぐ」、すなわち「肩の力を抜く、リラックスする、気分をほぐす、心を落ち着ける」という意味合いで使われており、タイトルは「あなた(この曲の“you”は不特定多数の相手を指すと考えてもいい)はこれまで一度も肩の力を抜いたことがないの?」と解釈できる。これを「あなたはこれまで一度も優しい気持ちになったことがないの?」と解釈する人もいるようだが、それは誤り。タイトルを口語的に意訳してみると、「このへんで深呼吸でもして、いっぺん肩の力を抜いてリラックスしてみたらどぉ?」てな感じだろうか。メッセージ・ソングであるから、ターゲットは、日々の生活の中でストレスがたまっている人、あるいは朝から晩まで仕事追われる企業戦士、はたまた、日々、勉強に没頭する受験生……。ひと言で言えば、これは、立場は違っても、四六時中、緊張感を強いられ、小休止する暇もなく毎日を送っている人々に向けての「ひと息入れましょう」ソングなのである。1975年当時、ストレスを抱えた多くの人々がこの曲に励まされ、愛聴したことだろう。
オリヴィアが1974年に全米ツアーを行っていた頃、バック・バンドのミュージシャンたちは、ステージに繰り出す前に、“Let’s get mellow!(肩の力を抜いてやろうぜ!)”と言いながら互いを励ましていたのかも知れない、なんてことをちょっと想像してみた。
(b)は非常に誤解しやすい言い回し。「あなたの歌(あなたが口ずさむ歌)を聴いて幸せな気分になったことは一度もないの?」というのはハッキリ言って誤訳である。もしそうであるなら、そこのセンテンスは以下のようでなければならない。
♪Have you never been happy just to sing your song?
ところが、(b)を目的語とする動詞は“sing”ではなく“hear”である。仮に“you”がソングライターだとして、「あなたが作った曲がどこからともなく聞こえてきて、幸せな気分になったことは一度もないの?」という解釈もあるだろうが、曲全体から考えて、“you”がプロのソングライターとは考えにくい。となれば、(b)の意味はこれしかない。以下、解りやすいように書き換えてみる。
♪Have you never been happy just to hear your favorite song?
ラジオからたまたま流れてきたお気に入りの曲を耳にしたアメリカ人の友人が、“Yeah! That’s MY SONG!”と小躍りした場面に出くわしたことがあった。そう、(b)は、「~のお気に入りの曲」という意味なのだった。余談ながら、イーグルスの有名曲「Hotel California」(1977, 全米No.1)に“. . . my wine”という一節があった。「俺が醸造したワイン」じゃなくて「俺の口に合うワイン」といったところでしょうかね。
(c)の“kick off”は、それだけで「(靴などを)蹴るように脱ぎ捨てる」という意味だが、そこに“one’s shoes”がつくと、「くつろぐ」という意味になる。スラング的言い回しで、R&Bやラップ・ナンバーに古くから登場する。特に、これからベッドで交わろうとする時、男性が女性に言う常套句として使われることが多い。この「靴を脱ぐ=くつろぐ」という発想は、寝る時以外はほとんど靴を脱がない欧米人の生活習慣がもとになっているのでは、と勝手に想像しているのだが……。靴を脱いで家に上がる日本人には、ちょっと思いつかない発想だ。 (c)は、“kick off one’s shoes”という言い方もできる。
【筆者プロフィール】
泉山真奈美(いずみやま・まなみ)
1963年青森県生まれ。幼少の頃からFEN(現AFN)を聴いて育つ。鶴見大学英文科在籍中に音楽ライター/訳詞家/翻訳家としてデビュー。洋楽ナンバーの訳詞及び聞き取り、音楽雑誌や語学雑誌への寄稿、TV番組の字幕、映画の字幕監修、絵本の翻訳、CDの解説の傍ら、翻訳学校フェロー・アカデミーの通信講座(マスターコース「訳詞・音楽記事の翻訳」)、通学講座(「リリック英文法」)の講師を務める。著書に『アフリカン・アメリカン スラング辞典〈改訂版〉』、『エボニクスの英語』(共に研究社)、『泉山真奈美の訳詞教室』(DHC出版)、『DROP THE BOMB!!』(ロッキング・オン)など。『ロック・クラシック入門』、『ブラック・ミュージック入門』(共に河出書房新社)にも寄稿。マーヴィン・ゲイの紙ジャケット仕様CD全作品、ジャクソン・ファイヴ及びマイケル・ジャクソンのモータウン所属時の紙ジャケット仕様CD全作品の歌詞の聞き取りと訳詞、英文ライナーノーツの翻訳、書き下ろしライナーノーツを担当。近作はマーヴィン・ゲイ『ホワッツ・ゴーイン・オン 40周年記念盤』での英文ライナーノーツ翻訳、未発表曲の聞き取りと訳詞及び書き下ろしライナーノーツ。
2012年 2月 29日 水曜日 筆者: 辞書ウェブ 編集部
三省堂の辞書・事典、また言語関連の本で2012年3月に刊行が予定されているものは…
三省堂 例解小学四字熟語辞典
田近洵一・近藤 章 編
[並版]B6判 ¥1,365 ISBN 978-4-385-14290-6
[ワイド版]A5判 ¥1,575 ISBN 978-4-385-14291-3
それぞれ288ページ 2色刷
2012年3月23日 販売会社搬入予定
小学生用として初めての本格的四字熟語辞典。
中学受験にも必要十分な1600語を収録。最重要語100語は特別囲みで重点的に解説。
すべての漢字がふりがな付きで、1年生から使えて、イラストも豊富。
わかりやすく学習の広がるコラムに、便利な索引や出典解説、まちがいやすい四字熟語と付録も充実。
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西方 草志 編
四六判 480ページ
¥2,100 ISBN 978-4-385-13648-6
2012年3月15日 販売会社搬入予定
万葉集以来、千年の名歌・名句の5音7音表現(約6万)を実作者向けに分類したユニークな辞典。
雅語・歌語を手軽に手の内に。読むだけで句がうまくなる超速表現上達本。昔の美しい言葉も使ってみたいという期待に応える。親切なふりがな付。
既刊『五七語辞典』は「マンネリ気味で言葉探しに四苦八苦の身に珠玉の助け舟」と大好評。
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デイリーコンサイス仏和・和仏辞典 第2版 中型版
木内良行・三省堂編修所 編
B6変型判 1,312ページ
¥3,360 ISBN 978-4-385-11952-6
2012年3月19日 販売会社搬入予定
定評あるポケット版仏和・和仏辞典の見やすい中型版。
基本語から専門用語まで仏和7万1千項目、和仏2万5千項目を収録。実用重視のシンプルな構成。
全見出しに発音記号、重要語にカナ発音を併記し、初学者から上級者まで対応。類書中最大の和仏には、会話例も多数収録。付録に発音解説。2色刷。
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仏検対応 クラウン フランス語熟語辞典
久松健一 編著
A5判 544ページ
¥3,360 ISBN 978-4-385-36579-4
2012年3月19日 販売会社搬入予定
仏検5~1級まで、全級対応の初めての熟語辞典。
過去の問題を分析し、よく出る 2171の熟語を収録。
テーマ別の分類と豊富な例文、丁寧な補足説明で単なる暗記ではない、フランス語の実力が身につく。2色刷。
2012年 2月 28日 火曜日 筆者: 笹原 宏之
漢字の現在 第163回 消されゆく地域文字「垳」(がけ)
地域文字を用いた一つの地名が消滅の危機に瀕している。埼玉県八潮市にある「垳」が、今どきのどこにでもあるような地名に変えられようとしているのだ。一度変われば、この日本で唯一の国字を使用した地名は、もう住所として復活させることは困難であろう。ちょうど、この字が公的にも使われている事実がふと頭をよぎった矢先に、地元近くの方から、上記の連絡をいただいて初めて知ったことだった。もし地名が新しいものになれば、この地のためにJIS漢字第2水準に採用されたこの地域独自の「垳」の字も、用いられる機会が激減するに違いない。
地域独自の漢字がある、というとまず驚かれる。ことばに方言があり、「訛り」や「イントネーション」(実際には多くはアクセント)や表現上の違いがよく話題に上る。一方、文字は、全国一律という通念がある。しかし、周の時代から一貫して、漢字には種々の地域差というものの発生と定着が不可避であった。形態の面からも、造字法の面からも、表語機能の面からも、それは必然であった。
地域文字は各地の表記を彩るものである。話を高知に戻そう。
日本中に分布する文字・表記だが、地域ごとに使用に濃淡があるケースも見つかっている。地域でしか使わない字体や字種とはレベルが異なるが、違う意味でそれぞれよその地の人には目立つ。
「寿し」は、すでに記したとおり(第154回参照)高知では非常によく目に入ってくる一方で、「鮨」「鮓」はほとんど見られないのだが、その偏りについてはあまり意識化されないようだ。
「月決め」は、他の地で優勢な「月極」ではないため、ふだんからそこそこ目立つようで、意識化されることもある(第153回参照)。
「汢ノ川」(ぬたのかわ)は、どうだろう。小さな地区の地名であり、存在は目立たないが、見つかると目立つ。しかし、地元の住民はかえってなかなか意識化しないのかもしれない。
ヌタは各地の地名に残っている。山梨では「垈」であった(第100回参照)。「汢」という文字通り、湿地帯の意で、「ぬたうつ」「のたうち回る」と同源の語であろう。「怒田」は字義が勝るし、「沼田」(ぬた)は訓と整合しない。「垈」は「土に代わるもの」などの会意であるとともに、形声で「(ぬ)た」を「タイ」で示したものか。同形の字は、より古く中国や朝鮮で見つかるが、衝突に過ぎない。ヌタアエなど食べ物では「饅」も江戸時代から当てられていた。
高知市から東京に戻る前に、汢ノ川へ行こうか、迷っていた。記憶を頼りにケータイで、その地について最低限の情報が得られる。便利な世の中だ。ケータイなどあえて持たなかった頃は、思えば「情報弱者」に追いやられていた。『JIS漢字字典』のコラム(池田証壽氏のご執筆分)にあるように、こうした地名だけからJISの第2水準に採用された字がいくつもある。『国土行政区画総覧』という地名資料に載ったためで、確かにそれを調査したときには、「汢」はこの地にしか現れなかった。
いわゆるJIS漢字名所巡りで、同じ志をもった幾人かが訪れたり、調べたりしたことを聞いている。もう行く必要もないかと葛藤もあったが、一人でも多く、いろいろな人が行く方が目が増えて良い。合わせれば経年調査のようにもなるだろう。時間もでき、せっかくここまで来たので、自分でないと見えないもの、気付かないこと、感じられないこと、もしかしたら自分にしか残せないことなどもあるかもと、やはり行こうと決意した。何よりも、その地の風や空気、川の音、人の暮らしまでも含めて、肌で理解することができるのだ。
ホテルのロビーに置かれたパソコンでも、その地について最低限の確認をする。想像したのと駅が一つ違っていたので、やはり見ておいて良かった。それ以上拡大できず、目指す地名も表示されないあいまいなWEBの地図だが、プリントできたのは幸いだった。
JR高知駅の若い女性駅員も、汢ノ川の最寄りとなる仁井田駅については、よく知らないようで、慌てて時刻表を慣れた手つきで開き、ページをくっては、なんとか教えてくれた。明らかに聞き慣れていない場所のようだった。特急がないときは26駅、片道2時間半近く、特急との乗り継ぎもよく分からない。
「歴女」「あしゅらー」や「鉄ちゃん」「鉄子」が注目されてきた。趣味が道楽にという人もなくはなかろうが、彼らに限らず一つのことに熱中する、熱心な人たちには多かれ少なかれ近しさを感じる。この区別が内外ともに難しそうなのだが、熱狂的、マニアックにならず、対象を客体化さえするならば、研究と通じるところがある。私も鉄道模型や鉄道写真に一時期凝って散財し(高価なHOゲージを思い切って捨てたのは良かったのかどうか)、運転士などにも憧れたものだ。根っこは同じかもしれない、と気持ちが分かるように思える。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
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【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「籠」と「篭」でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2012年 2月 26日 日曜日 筆者: 定延利之(中文)
<< 角色大世界――日本 99
(最后一节)为什么要考虑角色形象?(下)
为何要研究角色形象呢? 在第98节、第99节中,分别从日语教育和语言研究的观点叙述了其理由。虽然跟语言研究有点重复的部分,最后就从沟通研究的观点进行一下补充吧。
有这样一段大人和小孩的对话情景。当小孩像“所以呢,嗯……”这般地说不上话来的时候,大人会帮着小孩说到,“要么,下次的儿童会就别去了吧”,于是小孩便连忙点了下头。
对上面的这段会话也许会有人进行这样的解释吧,“孩子说话吞吞吐吐地,说不上是流畅的,但其实孩子是在利用这样的说话方式来成功地获取来自大人的支援”。(说不定还真有这种事儿呢。)这样的分析也许会有一点道理的时候吧,但并不见得总是会那样。小孩并没有什么要获取大人的支援的意图,只不过是因手足无措而说不出话来罢了。假设,在这段对话之后写下,“不能沟通实在是太难受了。对不起”,然后就死掉的话,那么“获取来自大人的支援”和“成功”等等的分析又到底会是什么呢?
觉得幼儿摇摇晃晃地走路太危险了,即便看不下去的父母抱起了幼儿,那么被抱起来的幼儿(大都)应该不会在父母看不见的死角里做出胜利的V字手势吧。在未必有意图的地方里判断有意图的存在,还把不经意的行动看成为“目的的达成”,这样的行为很有可能会连接到把在沟通上产生的各种事物(如,摇摇晃晃的走路或不流利的说话方式)只看做是常常会成功的事物。但现实里,却有很多人伫立在与沟通的成功甚远的地方,甚至还有人会为沟通的事情而烦恼、孤立、或死掉。即使不到那么严重的程度,但觉得与他人沟通是件可怕又郁闷的事情的人,应该有不少吧。
在掌握现实当中的“幸运”与“不幸”时,我们有必要去重视不一定会跟意图有联结的如实的“说话者”像,而不是沟通参加者们的一味的“成功”吧。例如,《白色巨塔》(1969)中的遗孀佐佐木良江或《一个女人》(1911-1913)中的田川夫人的“不幸”是,接受不了昨天还在“格上”的地位一夜之间就零落到“格下”、还被原本地位比自己低的“格下”的人以“格上”角色来对待的事实而产生的困惑和愤慨。而以冷眼眺望这一切的商家野村和早月叶子的“幸运”是,作为新的“格上”所产生的东西(第49节至第52节)。嗯,虽然不是什么爽快的例子,但在这个连载中,研究角色形象的时候,至少是触及到沟通的“幸运”与“不幸”的一部分了吧。
要从“角色形象”的角度来掌握我们在沟通上的“幸运”与“不幸”的尝试中,已经有濑沼文彰的《キャラ論(Kyara ron, 角色论)》(STUDIO CELLO, 2007)和相原博之的《キャラ化するニッポン(Kyaraka-suru Nippon, 角色化日本)》(讲谈社, 2007)的存在了。但是,这些都是论及到像小泉长期政权或拒绝上学等等,聚焦于最近的日本世态人情或年轻人的沟通的内容。然而,在这个连载中所提及到的却是,比如像在太宰治的戏曲《春天的枯叶》(1946)里年轻男女跟“老人”似的互相说,“あなたの兄さんは、まじめじゃからのう(Anata-no nîsan-wa,majime-ja-kara-nô; 你哥哥很认真哟)”、“あなたの奥さんだって、まじめじゃからのう(Anata-no okusan-datte, majime-ja-kara-nô; 你的太太也很认真哟)”的情景,以此来证明“我们从很早以前开始就一直在做这样的事情”(第10节)。本连载是以不限于“最近”或“年轻人”的形式来论述日语社会的“沟通”以及“语言”,因此要论述的对象原本就不跟这些相同。
当然,对象的不同会产生对“角色形象”的想法的区别。例如,在上述相原先生的书中介绍的伊藤刚的《テヅカ・イズ・デッド―ひらかれたマンガ表現論へ―(Tezuka izu deddo ―Hirakareta manga hyôgenron e―, 手塚已死―向敞开的漫画表现论―)》(NTT出版,2005)里,叙述漫画表现时将“キャラクタ (Character)”与“キャラ (Kyara)”视为不同的事物来进行区别。这大概是因为伊藤先生认为区分两者对漫画表现论是有效的吧。还有,濑沼先生在自己的书中采用了与“キャラクタ (Character)”、“アイデンティティ (Aidentiti, 个性)”、“役割(Yakuwari,作用)”都不同的新用语“キャラ (Kyara)”,这也是因为濑沼先生认为在论述最近的年轻人的人际关系或沟通时有必要这样做吧。同样,我虽不区别“キャラクタ (Kyarakuta)”与“キャラ (Kyara)”,却将这些区分于“形式”和“人格”是因为我认为在论述日语社会的语言及沟通时,这个措施很有效。每位论者根据自己要论及的事物来采用独自的“キャラ(クタ)”的定义是理所当然的事情吧。
当然,去考虑统一的“キャラ(クタ)(角色形象)”论,对我来说也是件很有趣的事情。在以漫画表现为对象的同时,还通过那个理论来“打开与其他的表现行为或学问领域、社会现象的回路”的伊藤先生的开放性想法,不仅仅是伊藤先生一个人的。不过,在超越领域,与其他的“キャラ(クタ)(角色形象)”论之间进行联结时,首先有必要把我自身的“キャラ(クタ)(角色形象)”论给弄清楚吧。
与可以根据对方而自由地改变的“形式”不同,还有被期待为不改变的东西。一旦目睹了其变化的过程的话,虽然马上能察觉到究竟是怎么一回事,就像“哇,这家伙,原来在我面前是伪装和善的”、“这个人,在比自己强的对手面前是彻底地弱小啊”、“那个人在恋人面前会变成如此地三头身(像小孩)”等等的,但不仅是被看到的人还有看到的人也会感到很尴尬的东西。话虽如此,却没有像“人格”那么根本的东西。以这样的“キャラ(クタ)(角色形象)”的定义,怎么去论述日语社会的语言以及沟通(的“幸运”与“不幸”)呢?本连载就是打算尽可能具体地展示这个。
我认为,在此定义的“キャラ(クタ)(角色形象)”可以与“形式”和“人格”合起来,从被称为“归属 (attribution)”的社会心理学性观点来进行总结。不过,至少现在的我还没有着手于这种尝试的余裕。归根结底,这个连载中所叙述到的就是,在掌握日语社会里一个说话者所发出的语言的多样性或沟通的“幸运”与“不幸”时,仅“形式”和“人格”是有限度的。只要读者能够理解这一点,那么小论的目的算是达成了吧。
非常感谢您长期以来的阅读。
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补充说明:小论中为了统一记载,将文献中的“キャラクタ―”都以“キャラクタ”的标示来进行了引用。在此将声明一下连载中,还有把严密地说应该写成“日本語を母語とする者(Nihongo-wo bogo-to-suru mono, 以日语为母语的人”、“日本語を非母語として学習する者(Nihongo-wo hibogo-toshite gakusyû-suru mono, 以日语为非母语的学习者)”的地方,因优先考虑内容的易懂而写成了“日本人”、“外国人”的部分。另外,作为角色形象名使用了“おかま(Okama,男同志)”、“外人(Gaijin,外国人)”、“おやじ(Oyaji,老头子)”等带有歧视语感的词语。这是因为我认为在观察角色形象时有必要揭露出歧视(差别)意识,但是并没有要助长歧视意识的意图。还望多多谅解。
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致意:本连载受到了本人的专职大学神户大学、以及兼职的关西学院大学、京都大学(按50音序)的诸位学生的各种各样有益的意见。并且在汉语翻译中借助了许多人的力量,尤其是,前半部分受到了张丽娜、后半部分受到了阿荣娜以及罗米良、波多野博显的帮助。另外,原稿的上传以及图像上,受到了三省堂辞书出版部的荻野真友子、山本康一和山田志野的关照。在此将表示谢意。小论是由日本学术振兴会的科学研究费补助金所颁布的基础研究(A)“人物像に応じた音声文法(Jinbutsuzô-ni ôjita onseibunpô, 依据人物像的音声文法)”(课题序号:19202013, 研究代表者:定延利之)、基础研究(B)“役割語の理論的基盤に関する総合的研究(Yakuwarigo-no rironteki kiban-ni kansuru sôgôteki kenkyû, 关于役割语的理论基础的综合性研究)”(课题序号:19329969, 研究代表者:金水敏)的成果的一部分。
author
定延利之(SADANOBU, Tosiyuki)
神户大学大学院国际文化学研究科教授。文学博士。
专业:语言学、交际学。现在正在进行的课题:《与人物形象相应的音声语法》的研究、《以日语、英语和汉语对照为基础,制定有益于日语音声语言教育的基础资料》。
著作:《Ninchi Gengoron (认知语言论)》(大修馆书店,2000)、《Sasayaku Koibito、Rikimu Repotaa―Kuchi-no-naka-no Bunka (喃喃细语的恋人、用力说话的报告人―口中的文化)》(岩波书店,2005)、《Nihongo Fushigi Zukan (日语不可思议图鉴)》(大修馆书店,2006)、《Bonno-no Bunpo―Taiken-o Katari-tagaru Hitobito-no Yokuboo-ga Nihongo-no Bunpo Shisutemu-o Yusaburu Hanashi (烦恼的语法―人们想谈体验的欲望会动摇日语的语法体系)》(筑摩新书,2008)等等。
2012年 2月 26日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki
<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 99
(Final) Why think about characters? (Part 3)
Why think about characters? So far, I have explained my reasons from the point of view of Japanese language instruction and linguistic research (parts 98, 99). Finally, I would like to add the perspective of communications research, although it overlaps in places with linguistic research.
Consider a conversation between an adult and a child. Suppose the child stammers: “Because, uhh…” The adult responds by throwing the kid a lifeline, “Well, I guess we can skip the next Children’s Club meeting,” which the child immediately agrees to.
The child’s halting speech, while not very fluent, was successful in that the child’s way of speaking actually prompted the adult to lend assistance -this might be one interpretation of the situation. (Or rather is, in fact, the interpretation that would likely be made.) While this interpretation is true from one perspective, it is not necessarily always so. Perhaps the child had no intention of calling on the adult to lend assistance, but was simply confused and couldn’t spit out the words. Suppose that after this conversation he had killed himself, leaving behind a note that said: “I can’t go on because I can’t communicate. Forgive me.” What then of the interpretation that the child was successful in prompting the adult to lend assistance?
When a parent picks up a baby because it is about to toddle into danger, that baby does not (generally) secretly flash a tiny victory sign. Seeing intent where it does not necessarily exist and attributing “goal attainment” to unconscious behavior could quite possibly lead us to always view the various things which occur during communication (e.g. toddling and halting speech) as successes. In fact, many people are far from successful in their communication, and become worried and withdrawn, or even die, because of communication. Even if things don’t go that far, there are more than a few people who feel that nothing is more frightening or depressing than having to communicate with others.
Rather than seeing never-ending success among the participants in communication, it is necessary to focus on a realistic image of the speaker, not necessarily in conjunction with intent, in order to grasp real “fortune” and “misfortune.” For example, “misfortune” for the widow Yoshie Sasaki in Shiroi Kyotou (1969) and Mrs. Tagawa in Aru Onna (1911–1913) was falling from a position of “high rank” in a short period of time, and seeing people of “low rank” behave as their superiors, but not being able to acknowledge this fact, leading them to become confused and resentful. This was a stroke of “fortune,” in the form of a new-found “high rank” for the scornful vendor Nomura and Youko Satsuki respectively (parts 49–52). Although these are not very eloquent examples, they illustrate how we touched on “fortune” and “misfortune” in communication by considering character in this series.
As for other experiments in trying to grasp our “fortune” and “misfortune” in communication from the perspective of character, one could cite SENUMA Fumiaki’s Kyara Ron (Character Theory STUDIO CELLO, 2007) and AIHARA Hiroyuki’s Kyara-ka suru Nippon (“The Characterization of Japan,” Kodansha Ltd., 2007). However, as the theories in these works also encompass the prolongation of the Koizumi administration and the problem of truancy in schools, they deal more with current events in Japan and focus on the communication of young people. We looked at how the young man and woman in Dazai Osamu’s Haru no Kareha (1946) affected the accents of the “elderly,” saying “Anata no niisan wa, majime ja kara noo” and “Anata no okusan datte, majime ja kara noo” (“your elder brother is so serious,” “well, your wife is quite serious too”) in play. In this series, I have said that “we have been doing this sort of thing since long ago,” (part 10). I have tried to explain “communication,” and furthermore “language” in a form that is not limited to “recent times” or “youth,” and thus, from the beginning, have tried to use topics other than these in my explanations.
Using different topics, naturally, produces different ideas regarding “character.” For example, in ITO Go’s Tezuka Izu Deddo: Hirakareta Manga Hyoogenron he (Tezuka is Dead: Towards an Expanded Theory of the Language of Manga, NTT, 2005) introduced in the aforementioned work by Mr. Aihara, “Character” and “kyara” are categorized separately within the language of manga. This was probably because Ito judged that separating the two would be effective with respect to his theory of manga language. Also, Senuma’s use of the term “kyara” as a thing separate from “character,” “identity,” and “role” is probably due to the fact that he found it effective in discussing interpersonal relationships and communication among today’s youth. Similarly, while I do not make a distinction between “character” and “kyara,” my emphasis on the differences between “style” and “persona” stems from the fact that this is an effective method for discussing the language and communication of the Japanese-speaking community. It is only natural that each theoretician has a unique definition of “character (kyara)” that corresponds with what they want discuss.
Of course, considering various unified theories of “character (kyara)” is extremely fun for me. In considering the language of manga, Ito’s expansive idea that his theory “will open avenues connecting other expressive behaviors and academic fields with social phenomenon” is certainly not held by just Ito alone. However, in order to connect together “character (kyara)” theories in a way that transcends academic field, I need to first clarify my own theory of “character (kyara)” with respect to the other “character (kyara)” theories to which it should be linked.
Language and memory are not expected to change, unlike style, which can be freely altered to fit the person to whom one is speaking. Thus, if they do change, the observer is quickly lead to any number of conclusions about the speaker—“this person has been deceiving me,” “this person crumbles in the face of a strong adversary,” “this person is completely different around her lover” etc.—making both the observed and observer uncomfortable. However, it is not as fundamental a thing as “persona”—so, how can we discuss (the fortune and misfortune of) the language and communication of the Japanese-speaking community with this definition of “character (kyara).” I have tried to explain this as concretely as possible in this series.
I believe that ultimately the definition of “character (kyara)” we have given here can be combined with “style” and “persona,” and regrouped from the socio-psychological perspective of “attribution.” However, I do not currently have the wherewithal to embark on such an experiment. So, in closing I will say that in this series in grasping the variety of language produced by single speakers and fortune and misfortune in communication within the Japanese-speaking community, there are limits to just using “style” and “persona.” I will consider the goal of my essays fulfilled if the reader is satisfied on this point.
Thank you for staying with this series for so long.
* * *
Disclaimer: For the sake of consistency, I have quoted the word “kyarakutaa” from reference materials as “kyarakuta.” Please note that, in deference to understandability, in places I have referred to what should, more rigorously, be called “persons whose native language is Japanese” and “learners whose native language is not Japanese” as “Japanese” and “foreigners.” I have used as character names words which have discriminatory nuances, such as “okama,” “gaijin” and “oyaji”(1) as I deemed it necessary to illuminate disciminatory tendencies when considering character; it is not my intention to perpetuate discrimination. Thank you for your understanding.
* * *
(1) Slang for transgendered/transsexual, foreigner, and middle-aged man respectively.
* * *
Acknowledgements: thanks to the students of (in alphabetical order) my regular school Kobe University, my part-time workplace of Kwansei Gakuin University, and Kyoto University, for their valuable opinions. Furthermore Mayuko Ogino, Koichi Yamamoto, and Shino Yamada of Sanseido Publishing Co.,Ltd. helped greatly with uploading the essays and providing the illustrations. I would like to express my thanks to them here. These essays partially resulted from research performed through the Japan Society for the Promotion of Science Grants-in-Aid for Scientific Research: Basic Research (A) Jinbutsuzoo ni oojita Onsee Bunpoo (Spoken Grammar in Response to Portraits, Grant No. 19202013, Research Representative: SADANOBU Toshiyuki), Basic Research (B) Yakuwarigo no Rironteki Kiban ni Kansuru Sougouteki Kenkyuu (Comprehensive Research on the Theoretical Basis of Role Language, Grant No. 19329969 Research Representative: KINSUI Satoshi).
author
Toshiyuki SADANOBU.
Professor of Linguistics at Kobe University. Ph.D.: Kyoto University, 1998. Research Interests: Personal Experience in Grammar and Communication.
Selected Publications:
(1) Bonnou no Bunpou: Taikien o Kataritagaru Hitobito no Yokubou ga Nihongo no Bunpou System o Yusaburu Hanashi (The Grammar of Earthly Desires: How Our Desire to Narrate Daily Experiences Shape Japanese Grammatical Systems). Tokyo: Chikumashobo, 2008;
(2) Sasayaku Koibito, Rikimu Repootaa: Kuchi no naka no Bunka (Whispering Lovers and Creaking Reporters: Culture in Our Mouth). Tokyo: Iwanami, 2005;
(3) Ninchi Gengoron (A Cognitive Study of Language). Tokyo: Taishukan, 2000.
URL:URL:http://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm
2012年 2月 25日 土曜日 筆者: 大橋 敦夫
地域語の経済と社会―方言みやげ・グッズとその周辺―
第190回 「若手経営者の方言選択(長野市)」
長野市内で、店名に方言を用いた例が目立ちはじめました。
まずは、JR長野駅を出て、すぐの所に、ランチから営業の居酒屋 NaKaRa。
(画像はクリックで全体を表示)

【NaKaRaの箸袋】

【あんきの暖簾】

【ずくなしの看板】
おしゃれなローマ字表記にお店の工夫が感じられますが、「なから」は、[だいたい、おおよそ、ほぼ]を意味します。「なからできた」[だいたいできた]のように使います。『枕草子』にも、用例のある語ですが、ここ信州では、老若問わず、現在も日常語です。
さらに、北に向かうと、信州を代表する郷土食の一つ、蕎麦の名店に行き当たります。
「あんき」は、[安心]を意味し、「子どもしつけちゃったから(一人前にしたから)あんきだよ」のように使います。
長野県下全域で使われていた語ですが、若者たちは、ほとんど使わなくなっています。そのせいか、お会計の際に、店名について尋ねられることも多いそうです。県外の方は、その意味を知って安堵し、県内の方は、「そう言えばおばあちゃんが使っていた」と懐かしがられるとか。レジで、もうひと押し、方言を話題に、お客様とのコミュニケーションがはかられています。
さらにさらに足をのばすと、農産物・菓子・パン・雑貨を販売している「SlowCAFE ずくなし」が。
「ずくなし」は、[怠け者・ものぐさ・活力がない]などを意味し、これも信州人の日常語で、自ら方言と自覚して使っている語でもあります。
なお、「ずく」については、この連載の第5回・第55回でも扱われています。
3店舗とも、創業の意欲に燃える若手経営者のお店という点が共通しています。また、お客様をお迎えするという立場から、感情表現に関する語を選んでいる点がポイントとなっています。
* * *
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【筆者プロフィール】
言語経済学研究会 The Society for Econolinguistics
井上史雄,大橋敦夫,田中宣廣,日高貢一郎,山下暁美(五十音順)の5名。日本各地また世界各国における言語の商業的利用や拡張活用について調査分析し,言語経済学の構築と理論発展を進めている。
(言語経済学や当研究会については,このシリーズの第1回後半部をご参照ください)
大橋敦夫(おおはし・あつお)
上田女子短期大学総合文化学科教授。上智大学国文学科、同大学院国文学博士課程単位取得退学。
専攻は国語史。近代日本語の歴史に興味を持ち、「外から見た日本語」の特質をテーマに、日本語教育に取り組む。共著に『新版文章構成法』(東海大学出版会)、監修したものに『3日でわかる古典文学』(ダイヤモンド社)、『今さら聞けない! 正しい日本語の使い方【総まとめ編】』(永岡書店)がある。
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【編集部から】
皆さんもどこかで見たことがあるであろう、方言の書かれた湯のみ茶碗やのれんや手ぬぐい……。方言もあまり聞かれなくなってきた(と多くの方が思っている)昨今、それらは味のあるもの、懐かしいにおいがするものとして受け取られているのではないでしょうか。
方言みやげやグッズから見えてくる、「地域語の経済と社会」とは。方言研究の第一線でご活躍中の先生方によるリレー連載です。
* * *
この連載への質問、また「ここでこんな方言みやげ・グッズを見た」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「地域語の経済と社会」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2012年 2月 24日 金曜日 筆者: 笹原 宏之
漢字の現在 第162回 「籠」と「篭」
土電では「ごめん」と、車体の上部の行き先表示に大きめに出ている。何かで見ていたものだったが、地元で見れば違和感は少ない。「後免」方面だ。
土電の路線図には、ゴシック体で「小篭通」もあった。「籠」は凸版印刷での使用頻度などに従って、常用漢字表に2010年にこの複雑な字体のまま入ったのだが、この字を地名などで頻用する地域では、新潟を初め、各地で「篭」とよく書かれている。それでも、常用漢字表は「篭」には戻らないのではなかろうか。しかし、各地も「籠」を手書きで常用するとは思えない。
略字の使用は地名に限らない。「箋」の「
」という拡張新字体を見かけた。筆字風で、土産物の便箋の表紙に、やはりあった。常用漢字表改定以前から、便箋や処方箋などで見かける字体だった。戦前には漢字政策の案に登場していたが、なかなか意識には残りにくいものだ。「戔」は「浅」などはあっても縦に冠などが来る類例があまりないせいだろうか。
時間が余ったので、高知駅周辺も歩いてみた。「新本町」は簡単な字で、意味もよくわかる。しかし、どう読むのか、初見では厳しい。
シンホンチョウ
シンホンまち
あらもとチョウ
あらもとまち
ほかにも、「にいもとチョウ」などもありえなくはない。「しんほんまち」とふりがなが添えられていた。やはり間違えそうだ。
お城は遠くからでも見えた。名所旧跡の類には展示物や説明書に面白いものがあるには違いない。だいぶ前だが、小田原城内でもいろいろと見つけた。江戸時代の日本での「囍」の使用まで記録できた記憶がある。が、そうした観光地にあるものは、大勢の眼に触れるからには誰かが記録したりどこかにアップしたりして報告される可能性がある。
東京の空気が実は合わないのか、しょっちゅう喉が赤く腫れて痛くなる。都内で生まれ育ち、勤め続けているのに、困ったことだ。学生たちがタバコを吸うのもよくない。喉さえ強ければ、もっと仕事ができるが、これも黄信号として捉えた方がよいのかもしれない。こういう地に来ると、喉の調子が良い。雑事を忘れ、ストレスから解放されるためということもあるのだろうか。
(クリックで周辺全体を表示)
高知大学のそばを歩いていて、「咥内」という地名を見つけた。「咥」が作字の跡も生々しい看板もあった。「こうない」と読むのは、「かむ」や「くわえる」の訓からであろうか。
また、「廿代町」には「Nijudai Machi」とローマ字で読みが示してあった。夜中に通ったときには暗くて気付かなかった。「にじゅう」と読むのか。この「にじゅう」は語の発生からは音読みといえるが、字の読みとしては訓読みとなる。しかしさらに合字だと見れば音読みといえてしまう。「ネン」などが本来の音読みだったはずだから、これは慣用音ともいえよう。中国では古代は二音節だったのだろうか。用語のラベル貼りは、座標軸を決めてしまわないとできない。漢語起源の訓読みは、「図書館」の合字などでも見られるが、語としてはやはり字音語と区分される。
ディーゼル列車に乗る。
「襟野乃」?
「襟野々」駅の機械設備の金属の箱に、ナール体のような書体で、一瞬こう書かれていたように見えた。帰りに確認するチャンスがあったが、速度が意外に落ちず、油断して見逃してしまった。一期一会とはいわないが、WEBにもさすがにこういう写真は載っていないようで、無念が残る。そういえば、福島の「橲原」(じさはら・など)の道路脇に埋められた石の字も、車内から一瞬しか見えず、気に掛かったままだ。
「須崎方面」、車内放送では「すさき」。濁らないのか。さすが西日本という例か。さらに南西へと降りる。
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【筆者プロフィール】
笹原宏之(ささはら・ひろゆき)
早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。最新刊は、この連載がもととなった『漢字の現在』(三省堂、2011年8月刊行)。
* * *
【編集部から】
漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。前回は「辻」のしんにょうの点の数でした。
この連載への質問、また「ここでこんな字が使われていた」などの情報は、問い合わせフォーム( http://dictionary.sanseido-publ.co.jp/support/question.html )から、「漢字の現在」への質問・情報である旨を記してご投稿ください。
2012年 2月 24日 金曜日 筆者: 山本 貴光
第46回 誤用にご注意
次に西先生は、「觀察」と「實際」の違いについてもう少し説明します。
觀察とは、萬事其理を極めるヲ云ヒ、實際とは業サに就て極むるを云ふなり。theoryなる文字を英國誤りて speculation 或は hypothesis なる字意に代へ用ゆることあり、注意せさるへからす。
(「百學連環」第8段落第1~2文)
ここでは、speculationとhypothesisの左にそれぞれ「觀想」「思ヒ定メル」と訳語を添えてあります。
訳してみます。
「観察(theory)」とは、万事の理〔ことわり〕を極めることを言うのであり、「実際(practice)」とは、技を極めることを言うのである。イギリスでは、theoryという語を、間違って speculation や hypothesis という語の意味で使うことがあるので、これは注意しなければならない。
「理(ことわり)」を極めるか、「技」を極めるか。そういう違いだというわけです。条理を頭で理解するか、実際に手足を動かしてなにかをつくったりなしたりするかという違いです。
前回も述べたように、理を極めることも一種の技ではなかろうかと思ったりもしますが、このように「観察」と「実際」を分けるのは、古典ギリシアから受け継がれている発想でした。なぜそう分けるのか。このことを考えるには、アリストテレスの議論をじっくり分析してみる必要がありますが、それはもう少し先に行ってからにしましょう。
さて、「百学連環」を読み進めるにつれて、だんだん分かってきましたが、西先生が英文交じりで説明している場合は要注意です。これは別の本から訳述している可能性があります。
そういうつもりで探してみると、これもまた『ウェブスター英語辞典』に類似した表現が見つかります。「theory」の見出しの1番目の定義とその注釈は、次のような文章です。太字にした箇所にご注目。
| 1. |
A doctrine, or scheme of things, which terminates in speculation or contemplation, without a view to practice; hypothesis; speculation. |
| * |
“This word is employed by English writers in a very loose and improper sense. It is with them usually convertible into hypothesis, and hypothesis is commonly used as another term for conjecture. The terms theory and theoretical are properly used in opposition to the terms practice and practical. In this sense, they were exclusively employed by the ancients; and in this sense, they are almost exclusively employed by the Continental philosophers.” Sir W. Hamilton. |
(『ウェブスター英語辞典』1865年版、「THEORY」の項目、強調は引用者)
先の西先生の言葉と完全に一致するわけではありませんが、太字にした箇所は、重なっているように見えます。つまり、定義1の末尾にhypothesisとspeculationが掲げられている。そして注釈として、ウィリアム・ハミルトン卿からの引用文が添えられており、その最初の2文が西先生の発言に近いのです。その箇所を訳してみます。
この〔theoryという〕語は、イギリスの作家が大変ゆるく、不適切な意味で使っている。普通、「仮説(hypothesis)」という語と言い換えられている。そして、「仮説」という語は一般に「推測(conjecture)」というもう一つ別の語として使われている始末だ。
ご覧のようにハミルトン卿は、イギリスで物書きが「理論(theory)」という語を、本来それとは別の意味を持つ「仮説(hypothesis)」と同じような意味の語として使っているが、それは不適切だと指摘しています。
西先生は、先に見た箇所で「イギリスでは、theoryという語を、間違って speculation や hypothesis という語の意味で使うことがあるので、これは注意しなければならない」と述べていました。ハミルトン卿の指摘と重なる部分はありますが、卿はspeculationについて言及していません。ひょっとしたら、西先生が参照した版の『ウェブスター英語辞典』では、speculationもそのような扱いだったのかもしれません。
それこそ推測を逞しくすれば、上に引用したtheoryの定義の末尾に「hypothesis; speculation」と掲げられていること、そしてハミルトン卿が「不適切にもhypothesisと混同されている」と指摘していることを考え合わせて、speculationも同様であると捉えたとも考えられそうです。
speculationも根を辿ると、「見る」ことに関わる言葉ですが、もっぱら「推測」と訳されますね。そういう意味では、西先生が言う通り、必ずしも「理論(theory)」とごっちゃにしてよい語ではなく、妥当な指摘だと思います。
さて、次回は話ががらりと転じます。
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筆者プロフィール
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)、ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(http://d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/)
twitter ID: yakumoizuru
*
【編集部から】
細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。
2012年 2月 23日 木曜日 筆者: 安岡 孝一
タイプライターに魅せられた男たち・第26回
1901年8月、マレーは2年5ヶ月に渡るニューヨークでの生活に見切りをつけ、ロンドンへと渡りました。イギリス郵便省に、遠隔タイプライターを売り込むためです。1901年9月17日、マレーは、ロンドン中央郵便局で、遠隔タイプライターの公開実験をおこないました。この実験では、送信機と受信機はわずか10フィートほどしか離れていませんでしたが、送信機側で打った文字列は、無事、受信機側で印字されました。マレーは、遠隔タイプライターの売り込みに成功したのです。マレーに与えられた課題は、送信機と受信機の間の距離を、どこまでのばすことができるかでした。
1902年9月21日、ロンドン~エジンバラ間370マイルを、マレーの遠隔タイプライターが繋ぎました。この実験では、既存のモールス電信線をできる限りそのまま使って、毎分160ワードの通信速度に挑戦したのです。ただし、毎分160ワードというのは、通信回線のスピードであって、受信タイプライターの印字スピードは、毎分100ワードが限界でした。また、送信者が鑽孔タイプライターを打つスピードも、最高速で毎分70ワードが関の山でした。つまり、毎分160ワードというのは、あくまで、送信側で事前に作った鑽孔テープから、受信側の紙テープが鑽孔されるまでのスピードだったのです。
翌月マレーは、通信回線のスピードを、毎分300ワードに上げています。さらに、送信機と受信機の両方を安価にすべく、小文字26字(a~z)の送受信をあきらめました。大文字26字(A~Z)と数字10字(0~9)・記号18字が送受信できれば、当時の通信事情としては十分だったのです。
これに加え、マレーは、電流パターンも改良しました。最大の改良は、「+++++」という電流パターンを、元々の「Z」から、大文字へのシフト符号に割り当て直した点です。すなわち、鑽孔テープ上で「○○○○○」、つまり5つとも穴が開くパターンを、大文字へのシフト符号に変更したのです。なぜこんな変更をおこなったのでしょう。理由は、送信側での鑽孔テープの打ち間違いにありました。

マレー送信機の鑽孔タイプライター(改良後)
この改良を加える以前のマレー送信機では、鑽孔テープを打ち間違った場合、ハサミとノリでテープを切り貼りしていました。しかし、これではあまりに非効率です。打ち間違った部分を、テープを切ったり貼ったりすることなく、削除することができれば便利です。紙テープというものの特性から言えば、一度開けた穴をふさぐのは難しいですが、穴の開いていないところに新たに穴を開けるのは簡単です。だとすると、どのような間違いであっても、その間違いを「○○○○○」というパターンに開け直すことは容易なわけです。
すると「○○○○○」に対しては、アクチュエーターが何も印字しないように、設計しなおさなければなりません。そこでマレーは、「○○○○○」を、大文字へのシフト符号としたのです。こうすれば、「○○○○○」を連続で何度受信したところで、アクチュエーターのカム・シャフトが大文字側になるだけで、受信タイプライターは何も印字しません。つまり、送信側で鑽孔テープを打ち間違った場合には、間違ったところまで戻って、間違いから後を全て「○○○○○」にしてしまい、その後に改めて続きを打てばよいようにしたのです。
(ドナルド・マレー(6)に続く)
【筆者プロフィール】
安岡孝一(やすおか・こういち)
京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)、『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。
http://slashdot.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。
編集部から
安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。
2012年 2月 22日 水曜日 筆者: 泉山 真奈美
歴史を彩った洋楽ナンバー~キーワードから読み解く歌物語~ 第20回

●歌詞はこちら
http://lyrics.wikia.com/Michael_Jackson:Thriller
曲のエピソード
世界で最も売れたアルバムとしてギネスブックに認定されている『THRILLER』(1982)からのじつに7枚目のシングル・カット曲。意外なことに、全米チャートではNo.1にならなかった。同アルバムからの全米No.1ヒットは、「Billie Jean」と「Beat It(邦題:今夜はビート・イット)」の2曲のみ。が、プロモーション・ヴィデオ(PV)がTVや街角のスクリーンで流れた回数は、アルバム収録曲の中でもこれが断トツに多いだろう。マイケルが2009年6月25日に亡くなった直後から、日本のTVでもしょっちゅうこのPVを目にしたものだ。この曲を聴けば、十人中十人がPVの映像を即座に思い浮かべるほど、その印象は余りに強烈だった。MTV時代の本格的な到来を高らかに宣言した曲でもある。
1980年代初頭、つまりマイケルが『THRILLER』の制作に取りかかっている頃、彼が「自分を主人公にしたピーターパンの実写版映画をスティーヴン・スピルバーグに撮って欲しい」と切望している、というニュースが漏れ聞こえてきた。が、彼の思いはスピルバーグに届かず、すげなく断られてしまったらしい。マイケルがあくまでも短編映画のようなPV制作に執着したのは、そうした苦い経験があるからではないだろうか。ピーターパンになれなかったマイケルは、自身のPVで狼男からゾンビに変身する魔物に扮して溜飲を下げた。
曲の要旨
真夜中近くの暗闇。かすかな恐怖におののきながら夜道を歩いていると、どこからともなく妖気が漂ってくる。気がつけば、そこはいつもとは違うどこでもないどこか。心を恐怖に鷲掴みにされ、身動きが取れない。と、そこへ忍び寄ってくるのは、この世のものとは思えない恐ろしい魔物の冷たく凍るような手だった…。どこへも逃げられないと悟り、全身を引き裂くような恐怖が走る。そのうち、“thriller(相手に悪寒を走らせる人)”が姿を現し、襲いかかってくる――。
1983年の主な出来事
| アメリカ: |
女性初の宇宙飛行士を乗せたチャレンジャー号の打ち上げに成功。 |
| 日本: |
千葉県浦安市に東京ディズニーランドがオープン。 |
| 世界: |
フィリピンで反体制指導者のベニグノ・アキノが暗殺される。 |
1983年の主なヒット曲
Down Under/メン・アット・ワーク
Africa/TOTO
Flashdance … What A Feeling/アイリーン・キャラ
Every Breath You Take/ポリス
Say Say Say/ポール・マッカートニー&マイケル・ジャクソン
Thrillerのキーワード&フレーズ
(a) thriller night
(b) fight for one’s life
(c) see the sun
(d) be outta time
この曲には苦い思い出がある。曲というよりタイトルに関して。1982年10月、筆者が所属していた三沢米軍基地の日米友好クラブ(Japanese American Friendship Club/略称JAFC)が基地内でハロウィーンのお祭りを大々的に開催した。JAFCはスポーツ・クラブやディスコを併設した娯楽施設内でお化け屋敷を主催することになり、筆者は紙粘土で作られた、頭から血を流す女性の幽霊の首を上げ下げする役目を仰せつかった。重要な役目のドラキュラに扮したのは、長身の白人男性。準備中に、彼とこんな会話を交わした。「確か君、マイケル・ジャクソンが好きだったよね?(注:筆者は6歳の時から12年間、マイケルの忠実なファンだった!) そろそろ新譜が出るらしいって聞いたけど、君、タイトル知ってる?」 もちろん、親しいアフリカン・アメリカン女性から基地内で買ってきてもらったUS誌で、とっくに情報を得ていたので、得意気に教えてあげた。“The name of his new album is THRILLER.”――“Huh? What did you say?”
数分間、このやり取りをくり返した。そのうち、話題はマイケルの新譜のタイトルからすっかり離れてしまい、“thriller”の正しい発音レッスンの場と化した。ああ、口惜しい!“thriller”には、日本人が苦手とする発音がふたつも――[th]の無声音、[r]――が含まれていたのだった! こんなことなら、その発音をもっと練習してくるんだったと思っても、時すでに遅し。でもまあ、そのお蔭で、ものすごーく難しい“thriller”の正しい発音をマスターできたのだけれど。「Thriller」を聴いたりPVで映像を見たりするたびに、あの時のことが脳裏をよぎる。“Say that again!(さぁ、もういっぺん!)”――ドラキュラさんによる、厳しいレッスンだった。
さて、その“thriller”である。(a)が登場するフレーズに、以前から居心地の悪さを感じてきた。何故なら、英語としてちょっとヘンだから。それを言うなら“a thrilling night”もしくは“a thrilled night”なんじゃないの? 何が何でも“thriller”を使いたいのなら、“a thriller’s (または thrillers’) night”じゃないと、どうにもこうにもしっくりこない。その謎を解くカギは、PVの中にあった。
みなさんの多くは、「Thriller」のPVをフル・ヴァージョンでご覧になったことがあると思う。曲が始まる前に、マイケルがガールフレンドと一緒に映画館に行きますよね? その際、スクリーンに映し出される映画のタイトルが『THRILLER』。どうやらホラー映画らしく、彼女は客席で目を伏せたり、隣にいるマイケルに思わずしがみついたりする。とうとう我慢できずに、「もう出ましょ」と促す。マイケルは「どうして? 僕は楽しんで観ているのに」と言う。怒って映画館を飛び出す彼女。外に出た彼女に「怖いんだろう?」と笑いながら言うマイケルに向かって「怖くなんかないわよ」と返す彼女。……とまあ、だいたいそんなやり取りが繰り広げられる。
そう、歌詞に登場する“thriller”とは、PVの中で上映されていた映画のタイトルを指していたのだった。例えば、そこを他の映画のタイトルに置き換えて次のような英文を作ってみると解りやすい。
It’s a SAW night! ※『SAW』は2004年にアメリカで公開されたホラー映画
これを訳すなら、「今夜は『SAW』を観に行こう!」とか、「今夜は『SAW』を観て盛り上がろう!」とか、そういう意味になる。よって、マイケルは「今夜は『THRILLER』(という架空の映画)を観てゾクゾクしなくっちゃ!」と言ってるわけ。ただ、そこを理解するためには、PVの存在が不可欠になる。なので、筆者がこの曲を訳した際には、苦肉の策として「今夜は背筋が凍るような夜」と、思い切った日本語にした。「映画」という前提を踏まえて訳すとなると、そこには注釈が必要となってくるし、訳詞がクドくなってしまうから。“a thrilling night”か“a thrilled night”ならすんなり訳せたんだけどなあ……。あくまでも推測だが、マイケルは最初からこの曲のPVに映画館のシーンを組み込むことを想定しつつ、この曲を作ったのではないだろうか? 当時の彼が、映画作りに心を奪われていたことを考えれば、あながち的外れな推測ではないと思う。
(b)は、字面を見ただけでも理解できる言い回し。「~の命を守るために闘う(戦う)」で、いろんな使い方に応用できる。例えば、“fight for one’s rights”と言えば、「~の(~する)権利を勝ち取るために闘う」という意味に。この曲に登場する“you”とは、曲の聴き手であり、不特定多数の人々をも指している。架空の映画『THRILLER』のような恐怖体験をした人々が「命を獲られまいと必死になる」様子を表しているフレーズと解釈していい。
直訳すると原意とちょっとズレてしまうのが(c)。「太陽を見る」。ハテ、これは何を意味しているのか……? 恐怖にがんじがらめにされた“you”は、「この先、太陽を見られるのだろうか?」という危惧を抱く。ここのフレーズを以下のように書き換えてみる。
… if I’ll ever see a brand-new day.(…果たして自分は新しい日を迎えられるのか)
もうお判りですね? “you”は、死の恐怖に恐れおののいているというわけ。魔物や化け物たちに取り囲まれて、「ここで死ぬかも知れない」と本気で思っているのだ。なので、「もう二度と、おてんとう様を拝めないかも知れない(=明日という日を迎えられないかも知れない)」とビクビクしているのである。筆者がそういう境地に陥ったのは、後にも先にも昨年の3・11東日本大震災発生の時。JR藤沢駅に向かう歩道橋の上で、「今、ここで自分は死ぬんだ」と本気で思った。もう二度とおてんとう様を拝めないんだと。今、思い返してみても、身も凍るような恐怖だった。
ネット上に溢れる歌詞によっては、(d)が“be out of time”となっているものもある。マイケルの歌い方は(d)に近く、“out + of”の発音がくっついて[áuţə]となり、ついでにスペルも“outta”になった。英語の決まり文句に“Get outta here!(冗談だろ!、うそつけ!)”というのがあるが、その際、“Get out of here!”などとまどろっこしい言い方は滅多にしない。たいていの場合は“out of”が“outta”になる。“-tta”は、アメリカ英語特有の発音で[ţə]と聞こえる。で、肝心の(d)は、「時間に遅れて、時間切れになって」という意味。ここでは、「自分が足を踏み入れてはいけない場所に入ってしまったと気づいても、もう遅い」という意味で使われている。ああ、怖い。
今では、PVなしのヒット曲なんて皆無に等しい。「新曲を聴くよりもそのPVを先に目にする」ことを当たり前にした曲、それがこの「Thriller」だった。
【筆者プロフィール】
泉山真奈美(いずみやま・まなみ)
1963年青森県生まれ。幼少の頃からFEN(現AFN)を聴いて育つ。鶴見大学英文科在籍中に音楽ライター/訳詞家/翻訳家としてデビュー。洋楽ナンバーの訳詞及び聞き取り、音楽雑誌や語学雑誌への寄稿、TV番組の字幕、映画の字幕監修、絵本の翻訳、CDの解説の傍ら、翻訳学校フェロー・アカデミーの通信講座(マスターコース「訳詞・音楽記事の翻訳」)、通学講座(「リリック英文法」)の講師を務める。著書に『アフリカン・アメリカン スラング辞典〈改訂版〉』、『エボニクスの英語』(共に研究社)、『泉山真奈美の訳詞教室』(DHC出版)、『DROP THE BOMB!!』(ロッキング・オン)など。『ロック・クラシック入門』、『ブラック・ミュージック入門』(共に河出書房新社)にも寄稿。マーヴィン・ゲイの紙ジャケット仕様CD全作品、ジャクソン・ファイヴ及びマイケル・ジャクソンのモータウン所属時の紙ジャケット仕様CD全作品の歌詞の聞き取りと訳詞、英文ライナーノーツの翻訳、書き下ろしライナーノーツを担当。近作はマーヴィン・ゲイ『ホワッツ・ゴーイン・オン 40周年記念盤』での英文ライナーノーツ翻訳、未発表曲の聞き取りと訳詞及び書き下ろしライナーノーツ。
2012年 2月 20日 月曜日 筆者: 富井 篤
6 「分類」の構成・3
(2) 50音順
今回から2回にわたり、(2) 50音順です。
前回、下記のような予告をしました。
また、この「順番」と「分類」の概念は、(2) 50音順と(3) 表現別にも適用することができ、実は、(2)は「順番」であり(3)は「分類」になっているわけです。さらに厳密に言いますと、(3)は各「表現」が外的には「50音順」に並べられており、内的には「分類」されていることになります。
(2) 50音順は、純然たる「順番」です。これを、前回の(1) アルファベット順で使用した鉄道の路線図になぞらえて示すと下記の通りです。

となり、始発駅や終着駅はもちろん、すべての駅が ○ です。すなわち、すべての駅が「順番」であり、「分類」は何もないということになります。もちろん、この路線にも、◎、すなわち、急行停車駅のように大きな駅もありました。しかし、これらは、(1) アルファベット順の場合と異なり、◎、すなわち、急行停車駅は独立させ、すべて(3) 表現別に収納させているわけです。
というわけで、今回と次回の2回は、もっぱら英和翻訳の時とか英文雑誌や新聞を読んでいる時などに、自分がそれまでに和英翻訳の時に苦労した単語や表現や言い回しなどを収集してきて集まったものを、もっぱら「50音順」に披露していきます。
ここに集めた50音順の言葉は、おおむね、以下のような基準で収集したものです。
(i) その時点で、過去に、和英翻訳の際にその言葉で 難儀した経験のある言葉
(ii) 和英辞書に該当する英単語があるが、意味が同じでありながら別の単語や表現や言い回しなどで表わしている言葉
(iii) われわれ日本人ならばこの単語や表現や言い回しなどを使うはずなのに、彼らは別の単語や表現や言い回しなどで表わしている言葉
何分にも、翻訳者になりたてのころから集め始めていますので、今なら何ということではない単語や表現や言い回しなどを、ことさら三ツ星料理のように、たいそうに披露しているものもたくさんありますが、「トミイ方式」の来歴を見る思いでご覧いただくと参考になると思います。
それでは、今でも皆さんの評価に耐えられるような単語や表現や言い回しなどを、英語の使用例とともに、 50音順に、スペースが許す範囲内でご披露していきます。
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あいまって
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in parallel with
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In parallel with the development of …
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この言葉は、確かに普通の和英辞書に見出し語として出ています。しかし、対応する英語として示されているのは、coupled with や combined などのように別の英語ですので、表現を1つ追加できたことになります。
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遊び
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play
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Avoid humor, especially word play.
In some applications, play between A and B, …
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この言葉は、普通の和英辞書にも出ていますが、英語と日本語との間の奇妙な一致があり、それに興味があって集めた言葉です。日本語では、子供たちが何かして遊ぶことを「遊び」と言います。また、意味は全然違うのに、ある2つのものの隙間のことも「遊び」と言います。ところが英語でも、上に例示してあるように、この2つの「遊び」をどちらも play といいます。
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穴だらけの
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porous
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to begin the instant rebuilding of their porous defense
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日本語でも、よく「穴だらけの守備」とか「穴だらけの三遊間」などと言いますが、その意味での「穴だらけの」を和英辞書で引いても出てきません。これは、以前に紹介しました、アメリカ出張からの貴重なお土産です。
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誤って
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accidental
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accidental activation
accidental contact with …
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日本語の「誤って」という副詞を、英語の accidental という形容詞と対応させていますので、まずその理由から説明します。我々は、よく「誤って」という言葉を使いますが、この言葉は、品詞的には副詞ですので、その後ろには、「作動する」とか「接触する」という動詞が来なければなりません。それを英語で表現すると、正しくは「accidentally に activate する」とか「accidentally に contact with …」となります。しかし、英語は「名詞言語」といわれているように、「activate する」とか「contact する」などという動作を、activation とか contact のように動詞ではなく名詞で表現することがよくあります。一方、日本語は「動詞言語」といわれるように accidental activation や accidental contact with … は「誤った作動」とか「誤った接触」とは表現しないで「誤って作動する」とか「誤って接触する」と言います。実はこれが、「誤って」という副詞を accidental という形容詞と対応させている理由です。
さて、和英辞書を見ても、「誤った」に該当する単語として、accidental という単語を載せている辞書はあまりありません。accidental という言葉は、accident の派生語であることから、「誤って」という意味に結びつきにくいのかもしれません。by mistake とか erroneously など、ほとんどが mistake とか error という言葉を語幹に使った表現を示している場合が多いようです。accidental を「誤った」という意味に捉えておくと、日本語での「誤って~する」に対応する自然な英語を使うことができます。
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ある
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include
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These include AT&T, GTE, TRW, and Hughes Aircraft.
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include という言葉は、普通には「~を含む」とか、「~を包含する」などという訳語で表される動詞ですが、このような例においては、「~を含む」より「~がある」と訳したほうが自然です。include の中に「ある」とい訳語を載せている辞書は、あまり見たことがありません。
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あろうとなかろうと
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be
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The repeatability is necessary to compete with the best manufacturers, be they foreign or domestic.
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ネイティブの使う be には、しばしば驚かされることがあります。実に自由奔放に使っていて、この用法を知らなければ表現できないというような局面に出くわすこともよくあります。この種の be に出くわしたら、迷うことなく、必ず収集することを、強くお勧めします。
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あわせて
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to
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… can be adjusted to the changing flow conditions
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これは、内容のある英単語というのではなく、前置詞 to です。この to が「~に合わせて」という意味に使われているということを知ってからは、その後収集したこの用法の例文は、すべて「大分類」が(4) 品詞別、「中分類」が「前置詞」、「小分類」が「単体前置詞」、「細分類」が「to」、「細々分類」が「あわせて」の中に入れています。最初から「細々分類」までの分類ができるわけではありませんので、初めのうちは、「前置詞」の中の「to」まで分類しておくだけで十分です。詳しくは、(4) 品詞別の中で、また説明します。
前置詞 to に「~に合わせて」という意味があるということは、決して、筆者が発見したわけではなく、英和辞書を丹念に見ていくと、後ろのほうに、必ず出てきます。まだ翻訳者としては駆け出しのころだと思いますが、これを知る前は、おそらく、奇妙な訳をしていたのではないかと、今から思うと冷や汗ものです。
これで、「あ行」の主なものがやっと終わりました。あと1回で残ったすべてを取り上げることはできませんが、このような調子で、次回、もう一度、50音順を取り上げます。
【筆者プロフィール】
富井篤(とみい・あつし)
技術翻訳者、技術翻訳指導者。株式会社 国際テクリンガ研究所代表取締役。会社経営の傍ら、英語教育および書籍執筆に専念。1934年横須賀生まれ。
主な著書に『技術英語 前置詞活用辞典』、『技術英語 数量表現辞典』、『技術英語 構文辞典』(以上三省堂)、『技術翻訳のテクニック』、『続 技術翻訳のテクニック』(以上丸善)、『科学技術和英大辞典』、『科学技術英和大辞典』、『科学技術英和表現辞典』(以上オーム社)など。
2012年 2月 19日 日曜日 筆者: SADANOBU Toshiyuki
<< An Unofficial Guide for Japanese Characters 98
Why think about characters? (Part 2)
Why think about characters? Why is it necessary, and what advantages are there, to thinking about characters? Last time we responded to this question by looking at Japanese language education. This time I want to propose a second answer by talking about the significance of thinking about verbal characters in linguistic research. In terms of significance, the reader might remember the “discovery” of the character particle, e.g. the pyo-n in expressions like uso da pyoon (I’m kidding pyoon). As you’ll recall, character particles may be mistaken for sentence-ending particles, but actually appear after even the sentence-ending particles (such as yo), and are coupled with the character of the speaker (like pyoon). Up until now, part of speech classifications have not taken character particles into account, nor has their position in sentences been addressed in structural observation. While they may appear to be frivolous and superficial, character particles in fact have the potential to advance the areas of speech classification and structural observation. I think this is easy to grasp, and as we have already discussed them previously in various columns (parts 1, 10, and 20) I want to look at a different significance of character particles here. First, let’s consider the following text regarding the omission of the syllable ra.
Let’s think about some ra-less words. For example, using the verb mireru instead of mirareru (in the sense of “to be able to see”) is a ra-less word. Similarly, using the verb nereru instead of nerareru (“to be able to sleep”) is also a ra-less word. Why are ra-less words becoming so wide-spread, particularly among the youth of Japan?
One explanation is that heretofore the Japanese grammatical system has assigned too many functions to the auxiliary verb rareru. There is the passive voice -rareru, as in Oya ni shikarareru (be scolded by one’s parents), and the honorific -rareru used in Okyakusama ga korareru (a customer will come). There is the spontaneous -rareru, as in Yuku sue ga anjirareru (a dreaded prospect) and the potential -rareru of Doonika mirareru (be somehow visible). It’s tricky to load four functions (the passive, honorific, spontaneous, and potential forms) on one -rareru. Therefore, one explanation is that the younger generation has removed one of these functions—the potential—reducing the load on -rareru to three, instead of four, functions.
This seems fully plausible. However, is the “trickiness” of loading -rareru with four functions really our “problem?” Maybe today’s youth are nervous that -rareru will not be interpreted as they intended. Maybe they feel sorry for their conversation partners who will have to figure out what -rareru means. Perhaps ra-less words are a bold step taken by the youth of today to save our troubled Japanese communication for tomorrow’s children. If so, why then don’t adults praise the use of ra-less words, and instead denigrate them heartlessly as the “sloppy language of uneducated youths?” Why don’t the youths proudly assert themselves, but rather mutter under their breaths “I’ve gotta be careful not to use ra-less words” at my job interview?
The image of the “speaker,” which is marched out to explain grammar, has been elevated to abnormally high levels of cleverness and rationality, not only in ra-less words.
[SADANOBU Toshiyuki, Bonnoo no Bunpou (The Grammar of Earthly Desires) Introduction, pp. 10–11, Chikumashobo Ltd., 2008.]
I didn’t think I’d be quoting myself at length at this final stage, but it does directly and conveniently sum up my thoughts (naturally), so I hope you’ll forgive me. This frightfully intellectualized “speaker,” quite removed from reality, tends to be trotted out by linguists to explain changes in language, such as the spread of ra-less words. The same is true when explaining variety in language, such as jargon (terminology/associated language and slang used by members of specific professions or groups) and language used by youths.
Jargon is often given teleonomic explanations; e.g. jargon is created and used because it’s effective for “preventing outsiders from understanding what the words mean,” “increasing a sense of identification with the group,” “strengthening bonds between insiders,” “casually advertising ones detailed knowledge of insider information in one’s own field,” “providing pure enjoyment with word-play,” and “quickly conveying information.”
Certainly, jargon is created and used in vast quantities, and such explanations fit a wide range of jargon. However, there is also subtle jargon which is casually used, but which may not be completely understood by members of other groups.
| (25) |
I work at a certain car manufacturer doing ignition timing and fuel setting. –Is every day a battle against engine knocking? Yes, but at our company knocking is called an “engine phenomenon due to abnormal fuel burning during times of high load.” Phenomenon such as those Ollie describes are called “surges” and “snatches.” When thinking about engine knocking we divide it into categories. (These terms are probably only used at our company.)(http://www.geocities.co.jp/MotorCity/9055/0403egeobook.html, April 15, 2005) |
The author of this post (25) from an online forum writes that the definition of “knocking” used by his company would probably not be understood at other companies. Even if it does raise concerns, there is no need to connect this “knocking” with the above-described sense of purpose.
[NAKAGAWA (MOKHTARI) Akiko, SADANOBU Toshiyuki Senmon no Kotoba, Nakama no Kotoba (Specialized Language, Collegial Language), UENO Tomoko, SADANOBU Toshiyuki, NODA Harumi (eds.) Nihongo no Baraeti (Variety in the Japanese Language) p. 23, Ohfu, 2005.]
Oh dear—I did it again. But it’s no use. Using my own writing is just too convenient. That is to say that while, to be sure, people speak in jargon and youth slang in order to “prevent outsiders from understanding” and “for the enjoyment of the group,” this is not always the case, as illustrated by the above example. In some cases, people speak in jargon and youth slang without any particular objective or intention. Using such jargon with a wink and the air of an insider, as if to say “this is to preserve secrecy and strengthen our bonds” would just be embarrassing.
When producing language, we don’t always “set some objective and intentionally use words to fulfill that objective.” However, modern linguistic research often forgets the real-life “speaker,” settling instead for “high-altitude thinking (pensée du survol)” (uh-oh, I’ve gone and said it).
So, when speaking of variety in language, in addition to social variety such as jargon and youth slang, we must not forget about variety in individuals.
The variation in language spoken by a single person far exceeds our expectations (part 95). Traditionally, this variety has been addressed with a feasible explanation: the speaker adjusts to the context, situation, conversation content, and the conversation partner, selects an appropriate style, and uses language accordingly. There is no need to explain that in using “selecting a style” and “using language accordingly,” this means of addressing the issue assumes a rational speaker that intentionally uses language to achieve some purpose. Can we really completely address individual variations in language this way? If not, where and how should we address them? That is to say, where are the limits of this utterly rational speaker, who has both teleonomic verbal and utilitarian linguistic perspectives, and uses style as they will? What sort of entity is this new speaker, who fills in all those gaps?
Unlike style, which can be freely changed, there are things that are expected to not change. If they are seen to change (except in the context of play), they will be recognized immediately, and both the seer and seen will feel awkward. In other words, these things cannot be freely controlled. That these things undoubtedly exist in our daily lives is something I think we “intuitively understand” (part 94). I call this thing “character,” and in this series I have used it as a perspective from which to observe Japanese society. (I feel that the Japanese language—modern, common Japanese—is strongly connected to character. Thus it poses an extremely large problem to learners.)
In this series, I have attempted to provide one answer to the above-stated problem in as concrete and understandable a form as possible. As to whether this attempt has been a success or failure, I leave it up to the readers’ judgment. However, the one thing that should be clear is that our speculations on how to explain the phenomenon of linguistic variety produced by single speakers have provided an enjoyable opportunity for reconsidering and advancing the framework of linguistic research (from the perspectives of spoken language and linguistics). That this is one significance of considering characters within linguistic research is something that nobody would contest. (To be continued)