漢字の現在

第165回 「汢ノ川」にて

筆者:
2012年3月6日

自販機の所在地名としては、「仁井田」の後ろが数字になっている。真新しいモールの先にあった橋の柱には、確かに書かれていた(写真参照)。

橋の柱

(クリックで周辺を表示)

目指すはこの先だ。渡ってみて、家々を回る。昼間で、外にいる人は少ない。表札などを見ようと近づくと、飼い犬が吠えてくる。繋がれているから安心だが、犬は犬嫌いが分かるようだ。怪しまれないようにしているのだが、一匹が吠えると他の家の犬も共鳴しだす。

小さいときに犬に追いかけられて、ますます嫌になった。昔から苦手だが、猫は噛んでもそんなにひどい怪我にはならない。私は、犬派よりも少数派の猫派に属する。猫背ぎみ、ひどい猫舌で、おまけに猫っ毛でもあることと関係するのだろうか。猫そっくりの猫好きの方も存じ上げている。田舎でも東京に出てきてからも、親は猫を飼っていた。生活の中に猫がいた。猫から教わったことも実は多かった。猫はたいてい可愛く、決して怪しい人に刃向かってはいかない。番犬はいても番猫はいないのも道理だ。以前、青森での早朝の調査では、大きな音が出る庭先の砂利も、歩いて近寄るのにプレッシャーだったことがある。砂利は盗人除けにも意外と効果がありそうだ。

集落の入り口付近に大きな家がある。気候が良いせいか、入り口が全開になっていた。ドアから大きめに声をかける。音がするので正面からまた「ごめんください」(この地では、これはいかにも余所者という挨拶だったようだ)。70代の男性が杖をついて奥から出てきてくださった。真っ昼間の突然の来訪者、きっと怪しいこと限りない。来意をお話しする。

持っていたグシャグシャになったメモ紙に書いてもらうと、さんずいに土、点は右上だった。昔は「汢」の「土」に点があったが、それが「点をのけて」「汢」になったとのこと。かつて聞いたことがあった二水の字についてはご存じないそうだ。10年くらい前に、「パソコンにないから」ということでこう変えたという。その地名が記された橋も、確かに新しいものだった。JIS第2水準の影響だ(後述する)。『国土行政区画総覧』に、その字体でこの地名が出ていたことがそのJISへの唯一の採用理由だった。前回触れた、消滅の危機にある「垳」もその一つだ。

「ぬた」については、シイラなどの魚を食べるときに、味噌、酢、砂糖を混ぜて作るドロッとした(酢味噌の)ヌタではないか、とのこと。何かで読まれたものだろうか、また、湿地、水のあるところだったのではないかと言う。猪は子供のころは見なかったが、最近増えたそうで、それが寄生虫などを捕るために道に体をこすりつけて、穴を空けるヌタバがあり、それから付けられた地名だと「我々は思っている」ともお話しくださる。この字が珍しいという話は、意に介してはおいででなかった。

表札やポストには地番だけしか用いられていない。役場から来る集団検診のときなどの知らせには、「汢」と書いてあるそうだが、そのときくらいだそうで、橋と電柱に見かけたことを振ってみても、それ以外には使われないと言う。

ヌタノカワという名の川も小さな谷にあるが、集落名と川の名とではどちらが先かは分からないそうだ。中世期までにおそらく川の名がまずそう呼ばれるようになったものなのだろう。


* * *


*「垳」の危機について(第163回参照)、朝日新聞(2012年 3月 5日付第 2社会面、東京本社最終版)にも取り上げられた。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。