タイプライターに魅せられた男たち・第29回

ドナルド・マレー(7)

筆者:
2012年3月8日

1906年2月23日、マレーの遠隔タイプライターが、モスクワ~サンクトペテルブルク間を繋ぎました。この頃すでに、マレーの遠隔タイプライターは、ロンドン~パリ~ベルリン間や、ニューヨーク~シカゴ間を結んでいました。しかし、マレーの遠隔タイプライターは大量生産が難しく、いくら便利であることがわかっていても、すぐには生産・設置できない、という問題を抱えていました。大量生産を阻んでいたのは、受信機のアクチュエーターでした。既製のタイプライターの下部にアクチュエーターを繋ぐ、というやり方では、受信機を1台1台手作業で作るしかありませんし、おいそれと移動もできません。アクチュエーターを内蔵した電動タイプライターを、マレーは製作する必要があったのです。

「Blickensderfer Electric」

「Blickensderfer Electric」

しかし現実には、この当時、実用化されていた電動タイプライターは、わずかに「Blickensderfer Electric」しかありませんでした。もちろんマレーは、「Blickensderfer Electric」を改造して、受信機として使うことも考えたのですが、これはうまくいきませんでした。受信機として使うためには、鑽孔テープを読み込んで印字をおこなう必要があるのですが、マレーがこれまでに使用してきた鑽孔パターンを、直接「Blickensderfer Electric」に適用するのは、無理があったのです。かと言って、「Blickensderfer Electric」に合わせた鑽孔パターンを設計しなおすと、鑽孔5つで1文字を表すことができず、送信機や通信回線の大幅な設計変更が必要となります。「Blickensderfer Electric」をマレー受信機として使うのは、どう考えても無理がありました。ただ、「Blickensderfer Electric」が、キャリッジリターン(プラテンを右端に動かす)と改行(行送り)の動作機構を独立させていて、それぞれにキーを準備している点は、マレーも参考にしたようです。

マレーは、ロンドンとニューヨーク、さらにはシカゴとの間を、忙しく往復しはじめました。マレーの受信機を製造できる会社は、アメリカにしか存在しないと考えたからです。ニューヨークに本社を置くウェスタン・ユニオン・テレグラフ社との交渉で、マレー電信機のアメリカにおける特許権は、同社が買い取ることになりました。さらに同社との交渉で、マレー電信機の実際の製造はウェスタン・エレクトリック社がおこなうことになり、マレーは技術顧問という形で提携していくことになりました。

ウェスタン・エレクトリック社製のマレー電信機(写真右方が送信機、左方が受信機)

ウェスタン・エレクトリック社製のマレー電信機(写真右方が送信機、左方が受信機)

1912年1月5日、マレーは、9歳年下のパトリシア(Patricia Cosgrave)と、ニューヨークで結婚しました。マレーとクラスメートだったコスグレーブ(John O’Hara Cosgrave)の紹介で、コスグレーブの妹と結婚したのです。この時、マレー46歳。当時としても、かなり晩婚でした。

ドナルド・マレー(8)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

安岡孝一先生の新連載「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載予定です。
ご好評をいただいた「人名用漢字の新字旧字」の連載は第91回でいったん休止し、今後は単発で掲載いたします。連載記事以外の記述や資料も豊富に収録した単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もあわせて、これからもご愛顧のほどよろしくお願いいたします。