人名用漢字の新字旧字

「巫」は常用平易か(第3回)

筆者:
2012年5月3日

さて、「巫琴」ちゃんの出生届を受理するよう求めた不服申立[東京家庭裁判所平成23年(家)第7488号]に対して、東京都北区長は全面的に争う構えを見せました。北区長が東京家庭裁判所に提出した意見書を見てみましょう。

申立人は,平成23年7月25日に提出した出生届を同月20日に提出した出生届と差し替えた上で,当該出生届を受理するよう求める本件不服申立てをしている。しかし,一度受理された出生届の子の名を変更するためには,正当な事由を備えていることにより家庭裁判所の許可を得た名の変更届(法第107条の2)によるべきであって,受理された出生届の子の名を別の名に差し替える届出を認めることは,法第107条の2の潜脱であり,許されない。

「法第107条の2の潜脱」って、何だか意味がよくわかりませんね。この部分を読み解くためには、戸籍法に関わる家事審判について、多少、理解が必要になります。平成19年5月11日改正(平成20年5月1日施行)の戸籍法第121条は、出生届の不受理に対する不服申立について、以下のように規定しています。

第百二十一条    戸籍事件(第百二十四条に規定する請求に係るものを除く。)について、市町村長の処分を不当とする者は、家庭裁判所に不服の申立てをすることができる。

「巫琴」ちゃんの両親は、北区長の処分(出生届の不受理)に対して不服があったので、この戸籍法第121条にしたがって、東京家庭裁判所に不服申立をおこなったわけです。一方、戸籍法第107条の2には、以下の規定があります。

第百七条の二    正当な事由によって名を変更しようとする者は、家庭裁判所の許可を得て、その旨を届け出なければならない。

北区役所としては、とりあえず別の漢字で出生届を受理してしまったのだから、それを「巫琴」に変更するのなら、戸籍法第121条じゃなくて、戸籍法第107条の2にしたがって、名の変更として申し立てるべきだ、という主張なわけです。それを北区長は「法第107条の2の潜脱」と称しているわけです。一見もっともな主張に見えますね。でも、そこには落とし穴があるのです。戸籍法第107条の2の冒頭にある「正当な事由」という部分です。

戸籍法第107条の2にしたがって、名の変更許可を申し立てる場合には、「正当な事由」が必要となります。そして、裁判所が現時点で認めている「正当な事由」は、おおまかには、以下の7つなのです。

  1. 奇妙な名である。
  2. むずかしくて正確に読まれない。
  3. 同姓同名者がいて不便である。
  4. 異性とまぎらわしい。
  5. 外国人とまぎらわしい。
  6. 神官・僧侶となった(やめた)。
  7. 通称として永年使用した。

端的に言えば北区長は、東京家庭裁判所が名の変更を認めないだろう、という点も見越した上で、あえて「法第107条の2の潜脱」を主張しました。その背後には、平成12年に起こったある事件があったのです。

第4回につづく)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

全5回の予定で「人名用漢字の新字旧字」の特別編を木曜日に掲載いたします。好評発売中の単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もお引き立てのほどよろしくお願いいたします。「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載中です。