人名用漢字の新字旧字

「巫」は常用平易か(第4回)

筆者:
2012年5月10日

平成12年5月23日、愛知県佐屋町のとある夫婦のもとに、男の子が誕生しました。両親は、子供に「矜持」と名づけ、6月3日、佐屋町役場に出生届を提出しました。しかし佐屋町役場は、この出生届を受理しませんでした。「矜」が、常用漢字でも人名用漢字でもなかったからです。やむをえず両親は、「矜持」を「協持」に変えて、6月5日、出生届を再提出しました。さらに6月28日、両親は名古屋家庭裁判所に不服申立[平成12年(家)第1826号]をおこないました。子供の名づけを制限するのは憲法違反なので、「矜持」と名づけた出生届を佐屋町長に受理させるか、さもなくば子供の名を「協持」から「矜持」に改名させてほしい、と申し立てたのです。

この申立に対し佐屋町長は、子の名を「協持」とする出生届がすでに受理されているので、新たな出生届を受理しなおすことなどできない、と主張しました。また、「協持」から「矜持」への改名についても、「矜」は常用漢字でも人名用漢字でもないので許すべきではない、という意見でした。そういう形で名の変更を許すと、子供の名づけに使える漢字を制限している意味がなくなる、というのです。佐屋町長の意見を受けて、名古屋家庭裁判所は、平成12年9月29日、両親の申立を棄却しました。子供の名づけに使える漢字を制限しているのは憲法違反ではないし、また、子供の名を変更する「正当な事由」があるとは認められない、というのが棄却理由でした。この審判に納得のいかなかった両親は、平成12年10月6日、即時抗告をおこないました。「矜持」ちゃんの改名に関する争いの場は、名古屋高等裁判所の抗告審[平成12年(ラ)第282号]に移りました。

平成13年2月16日、名古屋高等裁判所は、両親の即時抗告を棄却しました。一旦「協持」と命名された以上、これを変更するには「正当な事由」が必要だが、本件に関しては「正当な事由」がないので、「協持」という名をいかなる名に変更するかにかかわらず、名の変更は認められない、というのが名古屋高等裁判所の結論でした。「矜」が人名用漢字であろうがなかろうが関係なく、「協持」という名を変更するためには、以下に示すような「正当な事由」がなければならない、というのです。

  1. 奇妙な名である。
  2. むずかしくて正確に読まれない。
  3. 同姓同名者がいて不便である。
  4. 異性とまぎらわしい。
  5. 外国人とまぎらわしい。
  6. 神官・僧侶となった(やめた)。
  7. 通称として永年使用した。

この決定に対し、両親は、平成13年2月23日、憲法違反を理由として、最高裁判所に特別抗告[平成13年(ク)第250号]をおこないました。しかし、最高裁判所第一小法廷は平成13年6月25日、子供の名づけを制限するのは憲法違反ではない、として両親の申立を退けました。こうして「矜持」ちゃんは、戸籍上は「協持」ちゃんとして生きていくことになったのです。

最終回につづく)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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編集部から

全5回の予定で「人名用漢字の新字旧字」の特別編を木曜日に掲載いたします。好評発売中の単行本『新しい常用漢字と人名用漢字』もお引き立てのほどよろしくお願いいたします。「タイプライターに魅せられた男たち」は、毎週木曜日に掲載中です。