漢字の現在

第186回 転記ミスの再現ゲーム

筆者:
2012年5月18日

さて、前回考えついたと書いたのは「伝言ゲーム文字編」、あるいは「伝文ゲーム」、いや「漢字伝言ゲーム」が伝わりやすいか。それは、「転写ゲーム」と呼んでも良いような内容である。古写本では、転記ごとに本文が変わっていく。漢字は表意性が高い表語文字だ。意味と音の両面が意識され、言語と結びつく。そのため、固定性ももつが、種々の条件下でどんどん変わっていきもする。解釈に基づく意図的なものもあれば、そうでないものもある。

今回はあいにく就職活動や卒業旅行の時期と重なってしまい、バスを予約するほどではなく、参加者はちょうど16名になっていた。4人ずつ、4チームに分けられる。うまく盛り上がるかどうか分からない、未知数なのだが、たまにはゼミ合宿でも専門に関わることを試みてみようではないか。

私が部屋で問題を準備する。大学2,3年生なので、少し難しめにしてみる。

 鱈か鰯か眉を顰めて喧々囂々。

鱈・鰯

無理に難しめの漢字を多用してみた。字体は、無用の混乱を招くのを避け、拡張新字体としておく。ヒントというか3人目の漢字復元のために、漢字の部分だけをホワイトボード(白板)に□で示した。

 □か□か□を□めて□□□□。

1人目: 出題文を見て、覚える。それを思い出して紙に写す。

いつになく真剣な表情。入試のための受験勉強では、相当な量の暗記をこなした面々だ。

いつになく神妙な表情で、指で空書をするなど、時間をかけて覚えている。彼らにとって、一次記憶の容量は超えてはいないようだ。読めないと言いながら、席に戻って、切られた白紙に、懸命に記憶によって書き写す。ここですでに忘れたという声も出る。「余計なこと言わないで」、と話しかけてくる友達を遮る女子。

かつて南方熊楠は、よそで『和漢三才図会』を読んでは、自宅で思い出して写本を作ったそうだ(書体まで似ていたが、細かく校合してみたいものだ)。

2人目:1人目の写した文を見る。それをひらがなに直して書く。リレーのようなものだ。

「(漢字を)ひらがなにするのがミソですね」、その通りなのである。

3人目:2人目の書いたひらがなの文を見て、□の部分を漢字に直して書く。

4人目(アンカー):3人目の書いた文を、再びひらがなだけに直して書く。そしてこれをホワイトボードにそのまま写す。

 一通り、伝達を終えたので、各班のアンカーが、マジックで記す。すると、笑いが漏れる。

自信がない部分については、担当箇所が終わって紙を回し、役目を終えてから、気になってケータイを調べたり、同じ所を分担した学生に聞いたりしていた。文字体系を変えて写すことを「訳し」と言っている。「踊り字だよね」「繰り返し」という声もした。

 「魚に雪が…」、後で声がする。「鱈」と「鰯」は表外字だが、意外と読めるので感動した。このゲームでは1人目、2人目の責任はとくに重大だ。

1人目からアンカーまでの解答用紙を教壇に並べて、確認をしながら答え合わせをしてみる。

 鱈 > たら > 田羅 > たら

「田んぼの田」に「羅生門の羅」、かえって難しそうにも見え、大きな笑いが起こる。互いに笑え合える仲になっていたので、どこらへんで変化したのかも、ほのめかしてみる。当て字を経ても、なんとか語形は保持され、「田羅」で漢字の字数をオーバーしているのは反則だったが、「たら」という正解に導いたのである。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。