日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第11回 小学校のトイレについて

筆者:
2012年6月24日

共同体が違うと、意図の露出に対する敏感~鈍感がしばしばずれるということを前回から述べている。

人物像ということからは離れてしまうが、そう言えば私は昔、中国のとある大学に滞在していた時、宿舎の同じフロアに住んでいたアメリカ人たちにサプライズパーティを仕掛けられたという苦い経験がある。サプライズパーティとは、たとえば誰かの誕生日なんかに友人たちが本人には黙っておいて密かに集まり準備して、いきなりパーティをやらかす、本人はビックリ仰天という趣向のもので、困ったことにアメリカ人はこれが大好きなのである。

苦い経験、と言うのは、私は誕生日当日にスケジュールを変更して学生と街に調査に出かけ、宿舎への帰宅時間を大幅に遅らせて、サプライズパーティを頓挫させかけてしまったからである。(後から考えてみれば、誕生日のスケジュールを1週間ぐらい前にアメリカ人にそれとなく聞かれた気はするけど、そんなこと知らねえよ。こちとら日本人だい!)

私の帰宅を待ちくたびれて宿舎から帰る途中の友人(日本人)と路上でばったり出くわし、「おまえの誕生日ということでサプライズパーティが仕組まれている。みんなおまえの帰りを何時間も待っている。えらいことになってるぞ」と言われ、宿舎に飛んで帰ってあくまで素知らぬフリでパーティをぶちかまされ、同行していて全てを知っている学生の見ている前で、拙い英語で「わらまた、わらまた」(What’s the matter? What’s the matter?)と驚いてみせた。私の心はあの時に死んだ。

しかし気を取り直してよく考えてみると、私のような未開人相手の場合とは異なり、アメリカ人どうしの間ではサプライズパーティというものは、「殆どいつも」成功するのである。アメリカ人にとって興ざめなことを言うが、そのような高い成功率は、誕生日のスケジュールを聞かれた時点で「あ、サプライズパーティが来るな」と気づき、当日のスケジュールを死守して、わざとひっかかるといった努力なしには実現できないはずだ。

まんまとサプライズパーティを仕掛けられて、「まさか! 夢にも思わなかった!」などと感じ入っている背後から「ワザ。ワザ」(前回参照)などとささやかれたら、スーパーマンも超人ハルクもイチコロではないだろうか。

いやいや、アメリカのサプライズパーティなど持ち出さなくても、人物像に直結する、もっと適切な例が我が国にはあったではないか。学校のトイレである。

私が小学生だった頃、学校のトイレで大便をする奴は重罪人であった。それはいまも変わらないらしい。次の(1)(2)を見られたい。

(1)   1998年夏に日本トイレ協会主催で「学校トイレ文化フォーラム」が開催された。ここで、「子供は学校でウンコしたがらないが、この理由は何か」という問題が取り上げられた。 [中略] この問題は今に始まったものではなく、何十年もの昔からあったのであるが、イジメの具体的な問題として提起されてこなかった。最近、学校でのイジメが問題になっているのと軌を一にして、なぜ学校のトイレでウンコしないのかという問題が取り上げられているのは興味深い。イジメ現象をより多角的に取り上げなければ、「なぜ学校のトイレでウンコしないのか」という問題は解決しない。

[//www.y-morimoto.com/haisetsu/gakkoh2.html,
最終確認日: 2012年6月2日.]

(2)   なぜかは分かりませんが、日本の小学校では「学校のトイレでウンコをする」というのが非常に恥ずかしい行為と認識されているかと思います。 [中略] 私が小学校の頃はまだそこまでキツイものではなかったと思うのですが、最近の子供に聞いてみると何やらかなりキツイものになっているようなのが何ともかんとも。

[//blog.livedoor.jp/kashikou/archives/51872929.html,
最終確認日: 2012年6月2日.]

私はこの現象を、「アイドルはトイレに行かない」神話(補遺第1回参照)と似たものと位置づけている。特に大便の排泄行為が人前で語れるようなものではなく、その意味でかっこ悪い振る舞いだという認識は、世界においても何ら珍しいものではないだろう。ただ、キャラ大国・日本では、この認識が特に人物像レベルに浸透し、「『かっこいい人』はトイレに行かない」という神話まで生んでいる。どんな『かっこいい人』にもかっこ悪い局面があるとは認めず、『かっこいい人』はいつでもどこでもかっこいいのであって、だから大便などしないというわけである。『かっこいい人』は大便などしない、ということは、大便をするのは『かっこ悪い人』ということでもある。だから子どもたちも大便に行かないのではないか。

このように考えるのは、「ボクはいまウンコに行きたいけれども、学校では行かない。家まで我慢するよ」などという発言も、子どもはまずしないだろうと思われるからである。つまり、学校のトイレで大便するとアウトだというのは結果であって、そもそも自分が大便したいということが級友に知られるのがアウト、アイドルと同じように、とにかく自分と大便が結びつくとアウトなのだと思えるからである。

「生き物は、排泄せずには、いられない」という普遍の真理は小学生の頭にもちゃんと入ってはいるのだが、この真理が公然と勝ちをおさめ、「『かっこいい人』を取り繕おうとするあまりの大便我慢」がよくよく考えてみれば結局かっこ悪いのだという認識に落ち着き実践に至るには、中学、高校と進んでもうちょっと大人になる必要がある。

大学の廊下で「オレ、ちょっとウンコしてくるから待ってて」などと、ことさらに詳しく友人に断っている学生のことばに、「オレはもう大人だから」と言うにも似た、どことなく誇らしげな響きを聞きとってしまうのは私の思い過ごしだろうか。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。