漢字の現在

第203回 姓と漢字

筆者:
2012年7月17日

佐賀では、日本全体で多い「佐藤 鈴木 高橋」といった姓は、とても少ないのだそうだ。九州では、大分がやや関東風の姓の地区であるが(方言も九州色が薄い)、これらの姓は東日本に人口が集中していて、順位を上げているのだ。

江・副

佐賀の七賢人とよばれる人たちにも、「江藤」「副島」「大隈」と、佐賀に多い姓とその漢字が集約されていた。佐賀では、「○武」「江○」「副○」「○副」というパターンが多い。「副島」は、福島という姓や地名からの類推が働きやすい関東では、フクシマと読まれることさえある。「源五郎丸」などの「○丸」も特徴的だ。「隈」という字もよく使われる。早大では、あまり周りの仲間に使われていないせいか、「大隈重信」を「大隅重信」などと書き間違える学生もいないわけではない。

「江」は、「江口 江藤 江頭」など、確かに目立つ。多用されている「副」と合わさった「江副」もまた多い。なるほど言われてみればあれこれつながってくる。芸能界で活躍する人たちにも、九州北部に特徴的な顔立ち、形質、気質というものが思い浮かぶことがある。なお、江崎グリコも、この地の出身の創業者の姓を社名に入れたものだった。芸能人の、江頭2:50も佐賀出身である。

「えがしら」はよその地では、「えとう」に読み変えられることもあるそうだ。こうした佐賀の大姓を指摘してみると、確かに県職員などでは知人に何人もいるそうだし、生徒同士でも、指差したりもしていた。伝統的な方言が薄れる中、今なお顕著に伝わる「土地の手形」が姓名なのだ。江戸の昔から、人口の移動は、思いのほか小さい。

 田中 山口 山田

簡単な姓ばかりを挙げる生徒も珍しくない。長崎、福岡の大姓などと類似性もある。西日本らしさもよく現れている。国字の「辻」も、各種の集計ではベスト70以内とされる。

社会人では、「松尾山口犬の糞」と書いた方もいらした。東北でも「佐藤斎藤犬の糞」と言い放った教員が都内の中学にいた。

樶・(ノ木偏+最)

「さいしょ」「ごうりき」と何度も声が挙がるのは、わざと珍名を言っているだけか。もしも力強いイメージの「剛力」ならば、芸能人で有名となったもので、静岡辺りからの稀姓か。「最所」が「さいしょ」だそうだが、岡山の地域文字を使った「(ノ木偏+最)所」と、漢字を用いた「税所」とが混ざった表記ではなかろうか、と思えてくる。岡山のこの地域文字は、JIS第2水準に入れる際に、禾偏が木偏に間違って写されてしまい、まず使われない「樶」となって、JIS漢字表に入ったために、落ちてしまっていたと推測している。同様の例が、佐賀にあったのだ。それが先に述べた「うつぼ」である。

文字を用いる環境が、個々人の意識や知識を形成するのだ。大学では、名字は「黒木」が日本一多そうだ、と答えた女子学生は、やはり宮崎出身だった。また、「新井」が多いという意識は、埼玉で見られた。歯科医の佐久間英氏の調査に拠れば、確かにかつては、埼玉一の人口を誇ったとされる。しかし、ベッドタウン化が進み、人口が県内に流入した結果、とくに県南部では密度が薄まってしまった。

生徒さんたちは皆、世間を知っていく最中であり、多くの人と出会いながら成長しつつある。ブラックモンブランという飲み物は、佐賀ではコンビニでも置いてあり、日本中にあると、この地では誰もが思い込んでいるそうだ。同じことが、姓の分布や気付かない方言にいえる。

授業後、男女の先生が、「咾分」(おとなぶん)は、川副(かわそえ 濁らないそうだ)町で、バス停にもなっていると教えに来て下さった。こうしたものは、大人ならば社会生活の中で必要性があれば自然に覚え、空気のような存在となるのだ。「吉野ヶ里」の「ヶ里」や「ケ里」も、この地の特色ある地名のタイプだ。「鐘ヶ江」など「ヶ江」という地名は姓にもしばしば見られた。「南里」(なんり)は、姓だけでなく地名にもあった。地名、人名、方言、そして漢字は、授業でも、講演会でも、その打ち合わせでも話題が尽きない。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。