漢字の現在

第215回 松江の「鼕」

筆者:
2012年8月28日

島根県にある「亀嵩」(かめだけ)の地は、推理小説『砂の器』で有名になった。そこのそばを土産に買おうとしたが、売り切れていた。宍道湖辺では「すずめー、すずめー」と売り子の声がしたと聞く。雀を食べるのかと旅人を驚かしたそうだが、「蜆」(しじみ)のことを訛ってそのように発音する。ズーズー弁が東北から遥か離れたこの地にも分布しているのだ。「宍道湖」の「宍」(しし)も、「肉」の古風な字体と字訓を保持している。

ここでは「鼕」という字がしきりに目に入った。観光用のビデオや掲示物によると、「出雲地方では大太鼓をドウと言います」とのことで、多くの町や会がドウと呼ぶ大きな太鼓を所有しているそうだ。江戸時代からの祭りで、この難字の使用もこの地ではすっかり習慣化している。

鼕

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【鼕】

「ドウ」という音が先に存在したとすると、太鼓の音を表す「鼕」はトウ・ズという字音であるため、「(鼓×堂)」など別の字を当てた方が適していたのでは、と推測してみた。しかし、この字の音は「タウ」であり、より遠かったのかもしれない。10月第三日曜日に催される祭りでのみ使われるので、構成要素が「冬」となったのだろうか。鼓は今では縁遠い楽器となったが、かつては日常に密着していたようだ。伊豆の下田でも、たしか「鼓」を含む、音を表すような字を用いた小地名があった。

「鼕」は、バスから「・・・鼕庫」と建物の看板に大きく筆字風で書かれているのが見えた。そうした倉庫は、市中にいくつもあった。この字は、JISの第2水準に入っており、字体はフォントによって異なるもののおおむね「冬」の下部が「冫」となっている。そのために、手書きでも、そう書かなくては、という固定化したこだわりもできてしまっている可能性がある。

テレビでは、こちらで8チャンネルの地方局で、伝統的なこの祭りのことを繰り返し報じていた。「鼕」の字体は揺れていた。ハッピの背にも書かれ、「どうゆうかい」「どうむのかい」「どうみやいいんかい」といった会名、「どうねり」「どうだい(台)」という語も読み上げられていた。

鼕夢 どうむ ドームに掛けているか。

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【 鼕夢 どうむ ドームに掛けているか。】

擬音が太鼓の名称(名詞)と化し、さらに祭りや会の名(固有名詞)にも用いられるようになった。そうした中で、それらしい構成要素、字義と発音を持つ漢字を探し出して当てたのであろう。地元出身の方は、「竹かんむりに冬」と記憶していて、字義は知らない、ここだけなのか、と意外そうに話して下さった。祭りでは「笛」も用いられるので、部首が混じられたのであろう。

鼕

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【鼕】

消火器「用」ということか。「猟」も入っていそうだ。

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【 消火器「用」ということか。「猟」も入っていそうだ。】

そういう情報も、アンテナを立てれば広がりを持ちうる。地域への愛着にもつながるだろうから、空気のようになっている地域伝来の特有の文字を発見させ、報告させる授業を、地元でも1時間でも持たれると良いのでは、と思っている。

陰

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【 陰 松江で。かつてから知られた「方言文字」。もとは書写体、俗字。】

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。