漢字の現在

第223回 「潟」の略字の広がりと消失

筆者:
2012年9月25日

親しくしていただいている、漢字にとても詳しい県内のお3方も、県民でも「潟」の字体は怪しいと言う。適当に書いている人もいるそうだ。確かに、県民だから「潟」をきちんと書いているとは限らない。社会人でもそうだが、新潟から来た学生でも、「臼」の「ノ」の下に余計な「一」を加える人がいた。

当然だが、新潟県から離れると、周辺に行くほど、字体が怪しくなる傾向が見つかる。意図的に略す、というのとは異なる方向であり、無意識に誤る、あるいは関心が薄いために知らないのだ。

「栃木」にもその傾向はあるが、栃木県内では「厂」の1画目の揺れ(一かノか。かつては「朝日新聞」と「読売新聞」とで分かれていた)くらいであり、あとは書き順の変化によって「万」が「朽」の旁のようになる程度だ。しかし、茨城など隣県の人になると、すでに書き間違える人は多々現れる。新潟にも栃尾市があったが、平成の大合併で長岡市に編入された。


現在、新潟県内で、「潟」という字を「(氵写)」などと略すものは、地域文字と位置づけうる。高速でも読みやすいといって採用されていた国道の道路標識からは独特の道路公団フォントとともに消えつつあるが、今でも「潟」という字をきちんと書けないことで、年配の女性がコンプレックスを抱いていた、と地方紙に投書されていた。私が「(氵写)」にも歴史も意義もあるとお話ししたことをお読みになって、永年の「心の澱(おり)」が取れたとのことであった。研究者として、ふだん直接人の役に立つことは少ないが、こういう稀有な体験を得られたのは幸いだった。

(氵写)」は、新潟で生まれたものではなく、新潟に残ったというのが正確である。すでに触れたとおり、江戸時代に「(氵写)」は、当地の『北越雪譜』を著した鈴木牧之はもちろん、元禄頃の松尾芭蕉、井原西鶴なども楷書や崩し字で用い、『節用集』にも登録されていた。現在では、市内でも、略字は知っているけど使わないという学生が増えてきた。見たこともない、という学生も珍しくないのだ。手書き機会の減少は、略字への希求を減退させ、それとの接触頻度をも減らすというスパイラルを描いている。

かつて『日本語の現場』として、歴史の闇に消えかかったことばと文字の真実を数々掘り起こし、貴重な記録として残して下さった石山茂利夫氏がお亡くなりになる前、最後になることを知らずにお目にかかった際に、「潟」の略字について見せたいものがある、また次に、とおっしゃっていた。すでにご遺族にも何のことかはお分かりにならないそうで、何だったのだろう、永遠の謎となってしまった。

「潟」は、前に述べたとおり当⽤漢字表に含まれていなかったが、新たに常用漢字に採用され、種々の活字メディアや教育の場で採り入れられたことが、若者の地域文字離れに拍車をかけたのである。新潟出身の大学生たちに聞くと、何人もが自分も読めるが、実際に書いているのは年配の人たちばかりだ、と言う。「潟」が「潟」の字体で1981年に採用された常用漢字による教育を受けた世代、ということでもある。こんなところにも世代間格差があった。地域文字が地域内で位相文字(場面文字・集団文字)化も起こしているという複雑な状況だ。

県外では、たとえば秋⽥でも八郎潟などでこの字は用いられ続けている。そこではまず「(氵写)」で覚えさせる。次に「(潟の臼が白)」という字体、最後に「潟」という順番で学校で習った、という大学生もいた。子供の発達段階に合わせて、字体の難易度を上げていくというのだ。年齢の「才」「歳」の発想に似ている。「(氵写)」は皆がそう書いていて、パソコンでもユニコードを使ったらなんとか出せたため、常用漢字にもあると思い込んでいた、「潟」とは別の字として意識していた、という話を聞かせてもらったこともある。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。