タイプライターに魅せられた男たち・第54回

黒沢貞次郎(7)

筆者:
2012年10月4日

帰国した黒沢は、タイプライターや事務機械の輸入販売を続けながら、黒沢ビルの建設に着手しました。京橋区尾張町2丁目の銀座通りに面した角地を、黒沢は取得していました。銀座通りには東京鉄道の路面電車が走っていて、黒沢の取得した土地は、尾張町電停と竹川町電停のほぼ中間にありました。この銀座煉瓦街の一等地に、黒沢は本社ビルを建てることにしたのです。

当時、尾張町界隈で有名な建物としては、服部時計店と山崎洋服店がありました。尾張町電停の北角にあった服部時計店は、煉瓦造り2階建の上に、さらに高楼を建てて時計塔にしていました。一方、尾張町電停の東角にあった山崎洋服店は、木造3階建で、その上に望楼の付いた洋風建築でした。

尾張町電停から銀座通りを北東方向に望む(左が服部時計店、右が山崎洋服店)
尾張町電停から銀座通りを北東方向に望む(左が服部時計店、右が山崎洋服店)

しかし黒沢は、このような建物には見向きもしませんでした。木造建築は見栄えはいいのですが、大火事になりやすく、町全体があっという間に焼け落ちてしまいます。煉瓦造りの建物は防火性は高いのですが、地震が来れば一たまりもありません。この時、黒沢の頭にあったのは、サンフランシスコの大地震を耐え残ったRC構造の建物でした。けれども、少数の鉄筋コンクリート橋を除いて、RC構造の建物は日本国内には一つもなく、したがって施工できる建築業者もいなかったのです。そこで黒沢は、みずからの設計・施工で、RC構造のビルを建てることにしました。

黒沢は、建築に関しては全くの素人でしたが、井上秀二(京都市土木課)や後藤佐彦(内閣鉄道院)の「鉄筋コンクリート」の研究書を読破し、さらには欧米の関連書籍まで読み漁って、RC構造の技術を修得していきました。その技術を元に、RC構造3階建の黒沢ビルを設計し、1909年10月18日に着工しました。

黒沢ビル1階設計図(復元図、『セメント・コンクリート』1992年1月号)
黒沢ビル1階設計図(復元図、『セメント・コンクリート』1992年1月号)(クリックで拡大)

鉄筋の代用品には、東京鉄道から払い下げられた古レールを、錆を落とした上にモルタルを塗って使いました。コンクリートは、愛知セメントから購入した極微ポルトランドセメントに、花崗岩を砕いて砂と水と混ぜて練りました。外壁は煉瓦タイルで化粧し、陸屋根はアスファルト防水です。実際の施工作業をおこなったのは、黒沢商店の従業員たちでした。全てが手探りで、全体の3分の1にあたる1期工事が竣工したのは、1910年12月10日のことでした。

1期工事部分で黒沢商店を営業しながら、黒沢は1911年3月31日、黒沢ビルの2期工事に着工しました。2期工事では、コンクリートの粗骨材に、花崗岩ではなく煉瓦を砕いて用いました。階段は、プレキャストコンクリートのボルト締め工法に挑戦しました。1911年10月31日に2期工事は竣工し、続けて1912年2月14日、3期工事に着工しました。3期工事では、コンクリートの粗骨材に、川砂利を用いました。まさに試行錯誤の連続だったわけです。そして黒沢は、1913年の年始を、完成した黒沢ビルで迎えました。RC構造3階建、延床面積245坪、黒褐色の威容を誇る建物が、銀座通りに出現したのです。

完成した黒沢ビル
完成した黒沢ビル

黒沢貞次郎(8)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

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近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。