「百学連環」を読む

第81回 江戸の儒者の場合

筆者:
2012年10月26日

前回は、儒者はもっぱら書籍上の論ばかりで、あまり真理について考えないという話でした。大きくまとめれば、言葉(文章)と真理の関係が問題とされているところです。では、続きを読むことにしましょう。前回読んだ箇所からから改行せずにこう続きます。

我か國にては中江藤樹、熊澤蕃山、其他新井白石、貝原篤信の如きは又其餘派とす。又徂徠、長胤{伊藤}、鳩巢の如きは學派を異にし、文事を以て重するに至れり。其後三助先生{古賀彌助、尾藤良助、柴野彦助。}且つ山陽先生の如きに至りては眞理文章相合するといふへし。然れとも猶腐儒の境界を脱すること能はす。若し山陽先生實に眞理を知るの人なるときは、其著はす所の書籍なとは和文を以て書すへきに、何故にか徒らに苦しむて漢文を以て記せしや。其漢文を以て記せるか故に、自からも大なる辛苦を得、讀者も亦多くの勞を費し、且つ漢文に暗きものは更に何等の物たるを知ること能はす。

(「百學連環」第36段落第10文~第15文)

 

訳してみます。

わが国では、中江藤樹、熊澤蕃山、その他、新井白石、貝原篤信〔益軒〕などもまた、その余派である。また、荻生徂徠、伊藤長胤〔東涯〕、室鳩巣などは別の学派であり、文事を重んずるに至った。その後、三助先生{古賀彌助〔精里〕、尾藤良助〔二州〕、柴野彦助〔栗山〕}、それと頼山陽先生などに至っては、真理と文章は互いに一致すると主張している。しかしながら、それでもなお、腐儒から脱することはできていない。もし山陽先生が、本当に真理を知る人であるなら、彼が著す書籍は、和文で記すべきところ、漢文で記していたずらに苦しんでいるのはどうしてだろうか。漢文で記すために、筆者自身も大いに苦しいし、読者のほうもたくさんの労を費やすことになる。さらに、漢文に通じていない者にしてみれば、〔漢文で書かれたものを手にしても〕なにも知ることができないのである。

前回の中国の儒者についての話から、今度は日本の儒者たちに目が転じられています。しかも、ここに並ぶ名前は、いわゆる「日本思想史」に登場する錚々たる面々。一人一人について解説する暇はありませんが、いずれも江戸時代の儒学者たちです。「三助先生」とは、いまではあまり馴染みのない表現ですが、古賀、尾藤、柴野の三人は、「寛永三博士」などとも称された儒者でした。

そして、ここで西先生が、具体的に的を絞って評価を与えているのは、頼山陽(1780-1832)です。明治維新にも大きな影響を及ぼしたと言われる『日本外史』を著した人物。その山陽は、真理と文章は一致すると述べているというわけです。

「然れとも」と続く文章では、少し面白いことが主張されています。「それでもなお、腐儒から脱することができていない」じゃないか。つまり、もし本当に真理と文章が一致すると考えているなら、腐儒から脱していてもいいはずだ。だがそうはなっていないぞ、という批判です。

「腐儒」というのは、「役立たずの儒者」というほどの罵りでした。真理と文章が一致すると考えているのなら、役立たずの儒者ではい続けられないはずだと迫っているわけです。さらに裏を返せば、腐儒は文章、言葉にばかり耽溺して、真理を見ようとしない。儒学はもっぱら「書籍上の論」じゃないかという批判は、前回、中国の儒者について言われたことでしたが、そのことを踏まえているのでしょう。

さらに西先生は、山陽先生につっかかってゆきます。ここも大変興味ある論が展開されているところ。というのも、もし本当に真理を知る人であるなら、漢文ではなく和文で記すべきではないかというのですから。

私はこのくだりを読んで、西先生の主張になんとなく違和感を覚えました。例えば、こんな具合に考えた場合、どうなるでしょう。いや、真理を知っているということと、それをどんな言語で記すかということは、直接は関係ないのではないか、何語で書こうが真理は真理ではないか、と。

ここで検討することなく用いている「真理」という言葉については、別途確認が必要です。しかし、今はさしあたり、このことは問わずにおきます。宇宙や世界について、それがどうなっているかということについて、真の理(ことわり)、本当の仕組みのことを「真理」と呼んでいるのだと考えておきたいと思います。

そうした真理を、どのような手段で表現するのか。西先生は、そのことを問題にしています。しつこいようですが「實に眞理を知るの人なるときは、其著はす所の書籍なとは和文を以て書すへき」との主張には、どういう見立てが働いているのでしょうか。本当に真理を知っているのであれば、漢文ではなく和文で書くべきであるとは、どういうことなのでしょうか。西先生の本意は、まだ見えません。このことを気に留めながら、上の文章の残りを読むと、話は意外なほうへと進んでゆきます。

つまり、漢文で書くと、書き手も苦しいはずだし、読み手も苦労が多いぞというのです。そして、当然のことながら、漢文が読めない人にとっては、ちんぷんかんぷんで、そこに真理が表明されていたとしても、なんにも分からないではないか、という次第。

この批判自体は、たぶん当たっているのでしょう。いえ、ひょっとしたら自ら漢文で著述もしている西先生は、和語で考えているのに漢文で記すことの辛さや違和感について、ご自分の経験から語っているのかもしれません。また、日頃使っている和文とは異なる漢文を読む辛さについては、読者の皆さんも身に覚えがあるかもしれません。

ただし繰り返すと、読み書きが辛いことと、真理を知っていることとには、一体どういう関係が前提とされているのか。西先生の議論の展開では、そこが少し分かりづらいように思います。真理と文章をめぐる話は、どうなるでしょうか。次回、続きを読んで参ります。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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