漢字の現在

第235回 岩手の「みさご」(身+鳥)に「うずがある」

筆者:
2012年11月6日

岩手県は、その日ごとにバスツアーを予約して、平泉や宮沢賢治ゆかりの地など、あちこち回ることにした。行き当たりばったりできちんと予約が取れるのか、と心配していたが、どこもまったく問題がないようで、大丈夫とのこと。

実際に、観光バスに乗ってみれば、貸し切りのようになっている。大型バスに、運転士と決まって年若いバスガイドさんと、私たち家族だけだったりする。客が3件まとまって乗っていた時には、こんなに多いのは久しぶりと感動されてしまった。

柳田国男の『遠野物語』で有名となった遠野の地では、民話の故郷を回る。かっぱ渕は、思ったよりも小さいが、なるほど何か出て来てもおかしくなさそうにも感じる。

綾織町と聞いて思い出したので「(身+鳥)崎」(みさざき)という地名がどこにあるか、尋ねてみた。この鳥は各地の地名の中に残っていて、「みさご」「びしゃご」など、語形も揺れているが、字体もさまざまに変化しているものだ。JIS第2水準に採用された「鵈」も、その一つだった。

若いガイドさんは知らないと言い、年配の運転士さんに聞いてくれた。

「うずがある」

「渦?」

笑ってガイドさんが「分かりますか?」と私の顔を見て聞き、訳して言う。

「うち」

「うち」つまり「家」がある、家しかないということだった。「ち」が曖昧母音となって「つ」に近づくと同時に濁音となっていたのだ。そういう所を何で知っているんですか、知り合いでもいるのですかと、逆にガイドさんに尋ねられた。

涼しげな平泉の達谷窟(たっこくのいわや)では、そのままその3字を姓とした「たがや」という振り仮名を工事現場で見かけた。


後になってのことだが、勧めてもらった三連休パスを利用して、学会までの時間、委員の仕事が始まらないうちに電車に乗ってみた。食指が動いた駅に行くには、2,3時間待たないと電車がないので、すぐに発車する列車に飛び乗る。

「次は矢幅駅」というので、そこで降りてみた。

「矢幅」という字は、駅のほかにはあまり使われていない。「矢巾」なのだ。

常用漢字表には、「幅」は「はば」、「幅員・振幅」などの「フク」という音読みも認められている。一方、「雑巾 巾着 三角巾」などの「巾」は入っていなかった。小・中学校からのプリントにも、ふりがななしで登場するこの日常生活で疑いもなく使用されている字が入っていないような常用漢字表は、不完全にも思えた。2010年の改定の際に、やっと採用された字である。

一般には、「道幅」が「道巾」と略されるほか、工事現場などで音読みの「幅員」も「巾員」と省略される表記があるにはあるが、後者には抵抗感があるという人もいることだろう。むしろ、しっかりと教育する必要があるのではなかろうか。「雑巾」は私が小学生の頃から「雑布」という、「布巾」を媒介としてであろう誤った表記が散見されたくらいだ。今でも手書きには多い。

矢巾では、踏切と駅では「矢幅」と書かれていた。しかし、「矢巾中学校」というナール体の看板が各駅列車の車窓から見えた。もしかしたらこの地では、皆、「道幅」も「道巾」とふだん書いているのだろうか。逆に「実は幅が正しい」とことさらに習っているのだろうか。気になってくる。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。