日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第21回 話しことばと書きことばについて

筆者:
2012年11月11日

前々回前回で取り上げた「きもち欠乏症」は、話しことばに特有のタイプである。たとえば「晩ご飯。どうしますか?」について、第1文「晩ご飯。」が「きもち欠乏症」を起こし不自然だと述べたのは、話しことばなら不自然ということである。食事を宅配するサービス会社の広告コピーのような書きことばとしてなら、「晩ご飯。どうしますか?」は何ら問題がない。話しことばの中で「晩ご飯。どうしますか」と言うことが、芝居じみていたり、キザで鼻持ちならなかったりして「こっぱずかしくてしゃべれない」のは、これが結局、話しことばの中に書きことばを持ち込むことだからである。齊藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』(2001, 草思社)をもじって、私が「「声に出して読めない日本語」とでも言えば近いだろうか」と述べたのも、このタイプが話しことばに限って発症するからにほかならない。

ただ断っておくと、「声に出すことば」つまり音声をメディアとする言語(以下「音声言語」)が、「話しことば」と同じものだと私が考えているわけではない。私にとって「音声言語」と「話しことば」は、あくまで「近いだろうか」と言うほどの関係でしかない。「文字をメディアとする言語」(以下「文字言語」)と「書きことば」も同様で、両者は近いが別物である。「声に出されることばは、定義上、話しことばであって、書きことばではない」などとは考えていない。

したがって「書きことばを声に出す」ことは、こっぱずかしくはあるが、それ自体があり得ない矛盾というわけはない。このことは、たとえば前々回に「二枚目俳優がゆっくり前進しながら遠い目で言う、くさ~い芝居の独り言」や「ドラマのナレーション」といった「書きことばを声に出す」具体例を持ち出していることから、読者にはすでにお察し頂けているかもしれない。また、このような私の「話しことば」「書きことば」観は、宇野義方氏やデボラ・タネン氏 (Deborah Tannen)らの考えと重なり、特に目新しくはないものでもある。とはいえ、ここで「話しことば」と「書きことば」について若干の説明を加えておくことは、このタイプの「きもち欠乏症」をより深く知って頂く上で有益かもしれない。

私が言う「話しことば」とは、音声言語そのものではなく、「音声言語的なことば」である。同様に「書きことば」も、文字言語ではなく「文字言語的なことば」である。「的」と言うように、「話しことば」と「書きことば」は程度の問題である。両者の区別は複数の観点から総合的になされ、「メディアが音声か文字か(つまり音声言語か文字言語か)」という観点はそのうちの一つに過ぎない。メディアが音声でなく文字であっても、他の観点から見て非常に音声言語的であれば、結果としては、かなり話しことばだということになり得るし、逆にメディアが音声であっても、他の観点から見てあまり音声言語的でなければ、さほど話しことばではなく、けっこう書きことばだということにもなり得る。

話しことばと書きことばを区別する観点としては、メディア(音声メディアなら話しことば、文字メディアなら書きことば)の他にさまざまなものがあり、そのうち最もよく挙げられるのは構造である。話しことばの構造は単純で断片的、書きことばの構造は複雑とされ、このことは音声の揮発性(佐藤雄一氏)や人間の情報処理能力(ウォレス・チェイフ氏, Wallace Chafe)から説明されている。前者の説明は、音声は揮発性が高く、発した端から消えていくので推敲しにくいが、文字は保存に優れているので推敲しやすいというものである。また後者の説明は、人間の「読む」速さは「書く」速さを遥かに凌ぐので、読み手と書き手は同じ場所にいない傾向にあり(いれば読み手は待ちきれないし書き手は落ち着かない)、その場合、書き手は自分だけの場所で存分に時間を使って推敲できる、これに対して人間の「聞く」速さは「話す」速さに合わせやすいので話し手と聞き手は同じ場で対面して会話する傾向にあり、その場合、話し手は聞き手の反応を見ながら即興で話すので推敲が困難というものである。

このような話しことばと書きことばの構造上の観点から、もう一度、「健康」な例文と併せて、いま取り上げているきもち欠乏症の例文を見てみよう。

(1) 晩ご飯どうしますか。
(2) 晩ご飯。どうしますか。

晩ご飯はどうするのかとたずねる発話という点では、(1)と(2)に差はないが、(1)ではこれが1文で果たされており、(2)ではこれが2文で果たされている。もちろん(2)の第1文と第2文は無関係で並んでいるわけではないが、それでもやはり、「複雑な構造」と言われれば(1)、「単純で断片的な構造」と言われれば(2)になるだろう。だが、現実の話しことば(日常会話)では、より複雑な構造の(1)が好まれ、より単純な構造の(2)は忌避される。いくら話しことばが断片的な構造を好むとはいえ、「晩ご飯。」のように文としてきもちが欠乏しているものは、話しことばでは不自然だということがわかるだろう。

さて、そのような恐ろしいきもち欠乏症は、書きことばではまったく発症しない。では、理想的な書きことばとは、書き手のきもちなど必要としない、単なる情報の表示を典型とするものなのだろうか? 何の発話キャラクタも想定できない、徹底的に無味乾燥な非・役割語なのだろうか?

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。