タイプライターに魅せられた男たち・第63回

谷村貞治(3)

筆者:
2012年12月6日

1927年10月、谷村は日瑞工作所にいました。サミュル・サミュル商会との交渉の結果、日瑞貿易は芝園橋に日瑞工作所を設立し、さらに大森町山谷に工作所を移して、電信機の研究開発をおこなうことにしたのです。谷村も日瑞工作所に移り、そこで「和文印刷電信機」の開発をおこなっていました。モークラム・クラインシュミット社からの輸入業務は、日瑞貿易が継承しましたが、「和文印刷電信機」の輸入は滞りぎみでした。

谷村は、「和文印刷電信機」を国産化するために、数々の研究をおこないました。中でも、材料となる金属の強度や展性をどうするかという問題に対しては、東北帝国大学の金属材料研究所に教えを請い、仙台にまで通いました。そうして1929年6月7日、「和文印刷電信用六単位鍵盤鑽孔機」の特許を出願したのです。この特許は1930年4月7日に成立し、谷村はいよいよ「和文印刷電信機」の送信機部分の生産を、開始できる手はずとなりました。満洲国建国の興奮も冷めやらぬ1932年7月、日瑞工作所を含む6社は、逓信省から「和文印刷電信機」の設計書提出を依頼されました。すでに送信機の設計を完成していた谷村は、受信機の設計にも意欲的でしたが、現実には難しい問題がありました。

日瑞工作所の親会社である日瑞貿易は、その名の通り、日本とスイス(瑞西)との貿易をおこなう会社で、ヴィンターツールに本社を置くフォルカート兄弟社(Gebrüder Volkart)の日本法人でした。したがって、「和文印刷電信機」を欧米から輸入すれば、それは親会社の儲けにもなります。しかし、日本国内で生産すると、日瑞貿易もフォルカート兄弟社も儲からないのです。しかも、「和文印刷電信機」の受信機に関しては、この時点では、谷村にもクリアすべき問題が山積みでした。逓信省から与えられた半年間で、ちゃんと動作する受信機を開発するだけの力が、実際のところ、谷村には足りなかったのです。結局、日瑞工作所は、逓信省への「和文印刷電信機」の設計書提出を、断念しました。

この少し前、谷村は、子連れで再婚していました。子供は新しい母親になついたものの、谷村自身は、新しい妻との折り合いが、あまりうまくいっていませんでした。谷村は、工作所近くの小料理屋の美人おかみに入れ上げていて、自宅に帰らないこともしばしばだったからです。おかみの名は内藤トキ。谷村の5歳下の女性でした。

谷村貞治(4)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。