日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第23回 富士山について

筆者:
2012年12月9日

汽車は鉄橋を渡っていった。その時、松林のはるか向こうに白いものが見えた。冠雪した富士山が夕日に照らされているのだった。

この町から富士山が見えるとは、考えてもみなかった。「富士見まんじゅう」という、茶店にあった薄汚れた品書きが思い出された。

こんなところにも富士があったんだ――私はそうつぶやいた。

そう言えば、子供の頃にも、似たようなことがあった。

上の家の祖父母やさき子、それから幸夫、芳衛、亀男たちと別れてからずいぶん長い時日が経っているような気がする。
 洪作はそんなことを思いながら窓の外へ顔を向けた時、ふいに眼の前に立ちはだかっている大きな富士山を発見して驚いた。富士山に違いなかった。湯ヶ島で何時(いつ)も見ているのとは大きさがまるで違っていた。
「あ! こんなところにも富士があらあ」
 洪作は叫んだ。すると周囲から笑声が起った。通路を隔(へだ)てた若い女たちが四人坐っていたが、みんな洪作の方を向いて笑った。洪作は恥ずかしかったので、すぐ窓の方を向いた。そして、どうして自分の言葉が女たちを笑わせたのであろうかと思った。自分の田舎(いなか)言葉がおかしかったのか。洪作には笑われた理由が判らなかった。

[井上靖『しろばんば』1960]

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自分がどういうつもりで「こんなところにも富士がある」と言ったのか、もう昔のことで、私にはよく思い出せない。あの女たちは「この子は富士山がたくさんあるものと思って、まあかわいいこと」とでも考えたのだろう。

あの時の私の発言は、たしかにそのような幼稚なものだったのかもしれない。しかし、そうでなかったのかもしれない。

いま、私のつぶやきを聞きつけても、笑う者はいないだろう。「こんなところにも富士がある」という私のつぶやきは、「富士山は一つしかない」という常識とまったく矛盾しない発言として解釈される。あの時の私の叫びも、いま私が「こんなところにも富士があったんだ」とつぶやいたのと同じ、真っ当な発言だったのかもしれない。

では、「こんなところにも富士がある」という発言を、幼稚な発言ととらえる解釈と、真っ当な発言ととらえる解釈は、どこが違っているのだろうか?

「こんなところにも郵便局がある」という発言は、何らおかしなものではない。郵便局はこの世にただ一つしかないわけではなく、あちこちに存在するからである。

「こんなところにも田中さんがいる」という発言も、おかしなものではない。それは一つには、「こんなところにも『田中さん』つまり田中姓の人間がいる。『田中さん』はそれほど日本語社会に多い」という意味を、この発言が表せるからである。

また、「こんなところにも『田中さん』という名の人形が飾られている。『田中さん』人形はそれほどまでに流行している」といった意味を、この発言が表せるからでもある。

さらに、「こんな辺鄙なところにも医師がちゃんと派遣されている。このように日本の医療事情も少しは良くなってきたのだ」などと言おうとして、その医師を自分が知っているもので、「こんなところにも医師がいる」と言わず、少し具体的に「田中さん」と名前で言うといった場合にも、この発言がしっくりくるからである。

だが、それらの場合、「田中さん」(田中姓の人間・田中さん人形・医師)は上述の郵便局と同様、この世にただ一人の唯一物ではない。

それらの場合を除外して、田中なる人物を唯一物と考えてもなお、「こんなところにも田中さんがいる」という発言はおかしくはない。というのは、田中氏が移動可能で、いろいろな場に出現可能だからである。仕舞の稽古会を観に行ったら田中氏が登場して「高砂」を舞った、素人落語会に行ったらまた田中氏が現れ「狸賽」を演った、三味線の発表会に出向いたところ、幕が上がると合奏団の中に田中氏がいて皆と三味線を弾いている、思わず「えっ、こんなところにも田中さんがいる。どれだけ古典芸能が好きなんだ」などと言えるというのがその例にあたる。

では富士山はどうか? 富士山は唯一物であり、移動可能でもない。だから「こんなところにも富士がある」わけがないというのが、この発言を幼稚な発言ととらえる解釈である。

しかし、「こんなところにも富士がある」という私のつぶやきは、おかしなものではないだろう。それは、日本語社会では伝統的に、富士山にはさまざまな姿、風景があるとされており、結果としてやはりいろいろな場に富士山が出現可能だからである。富士山は見る場所によってさまざまに姿を変え、したがってそれらの場所はそれぞれ独自の富士山の風景を持つ。つまり「こんなところにも富士がある」を真っ当な発言とする解釈とは、「こんなところにも富士の風景がある」というものに近い。

とにかくはっきりしているのは、そのような解釈の可能性にあの女たちが思い寄りもしなかったということである。そしてそれは、当時の私が年端のいかない子供だったせいに違いない。発言内容の解釈に、発言者の身体が関わってくるということ、これも前回述べた「役割語の解釈は解釈者次第」という話に通じるものである。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。