「百学連環」を読む

第88回 陽明は心を主とするけれど

筆者:
2012年12月21日

目下のところ、学問において真理に近づくための手段である「致知学(論理学)」の内実を検討しているのでした。その新しい論理学には、従来の演繹法だけでなく、帰納法もある。そこでまずは演繹法について議論をしているところ。前回は、その弊害を検討したのでした。

つまり、一つの拠り所とする原理から、いろいろなものを引き出すのが演繹法ですが、この方法には、「実知」によらず、書籍上の学でいくらでもものを言えてしまう危険性があるという次第です。

では、続きを読みましょう。

かく弊あるか故に後〔チ〕陽明の如き人ありて學は實知と云ふを論せり。其語に主心とて學は心を主とするにありと云へり。又云良知良能と。かく學は心を主として實知にありといへり。然れとも其知たる五官より發する所の知にあらす、唯我か善しと知る所を以て推シ及ほすか故に、其弊害又大なりとす。大鹽平八郎の如き皆其餘派なり。

(「百學連環」第38段落第4文~第9文)

 

訳してみます。

このように弊があるので、後の陽明のような人が、「学とは実知である」と論じたのだった。その言葉に「主心」というのがある。つまり、学は心を主とすることにあるという次第。また、「良知良能」とも言った。このように、学とは心を主として実知にあるというわけである。とはいえ、その場合の「知」というものは、五官から生じる知ではなく、ただ自分がよいと知ることをもって、それで物事を推し図ってしまうため、その弊害も大きい。大塩平八郎のような人たちは、いずれもその類である。

ご覧のように、演繹法に弊害があることを踏まえて、西先生はもう一つの例を持ち出しています。以前、「知行合一」を論じた際にも登場した王陽明の考え方です(第48回を参照)。

西先生によると、陽明は学とは実践知(実知)であると論じたわけです。この限りでは、ここで批判されている演繹のような机上の知とは違っているようです。

その陽明の説として、「主心」と「良知良能」という二つの考え方が引き合いに出されています。

陽明は、時代の学問であった朱子学を学びつつ、それに対する違和感を糧に、新たな考え方を提出した人でした。どのような学問であれ、ある対象や条理をどのように把握するかということが大きな問題となります。強調して言えば、この宇宙、この世界をどうやって知り、把握できるかということが大きな課題です。

学術の歴史とは、言ってみれば、この巨大な対象のうち、ある部分について、それがどのようなことであるのかを明らかにしようとする営みであります。中国における学問のさまざまな伝統においても、この問題に対してどこに軸足を置くか、何を主とするかという点において、多様な立場がありました。

ここで西先生が引いている陽明の発想は、他ならぬ人間の「心」を中心として考えるというものです。「百学連環」の文脈に沿ってもう少し言ってしまえば、自分の心の外にある知、例えば書物に書かれた知を中心とするのではなく、自分の心、その心が実際に経験したものをこそ重視せよということになるでしょうか。

もう一つの「良知良能」とは、孟子に由来する考え方です(『孟子』尽心章句上)。つまり、人間が生来持っている知る能力、知能を指します。

ここまでなら、恐らく西先生も文句はなかったのではないかと思います。

しかし、陽明が「良知良能」という場合の「知」の内実に問題ありというのです。陽明の言う「知」とは、五官、感覚を介して生じるものを指すのではなく、「唯我か善しと知る所」、ただ自分がよいと知ることを指している。「善し」というのは、道徳的な判断と言い換えてもよいかもしれません。何事かが善いか否かという判断が、陽明の言う良知良能だというのです。そして、それでは弊害がとても大きいと、やはり批判しています。

西先生が、道徳的な知(判断)に対して、「五官から生じる知」を対置していることに注意しておきましょう。何事かについて、私の心の中でそれを善いか否かと判じるのでは、必ずしも妥当な判断になるとは限らない。その判断自体が、現実と無縁の思い込みかもしれません。そうではなく、自分が感覚すること、経験することに基づく知があるはずだ。これまでの議論からも分かるように、西先生の考える「実知」は、実際の経験、実験や実証に基づく知でしたね。ですから、陽明の考え方に不満を持つのも宜なるかな、であります。

さて、この段落のおしまいに大塩平八郎(1793-1837)の名前が表れます。大塩平八郎といえば、救民のために幕府に反旗を翻した大塩の乱で知られる人物です。彼は、元幕府の役人であり、陽明学者でもありました。

陽明学の問題点を難じているという文脈が文脈だけに、西先生は、大塩平八郎についても、否定的な評価を下しているようにも見えますが、さて、これだけの材料では心中までは察しかねるところです。

以上でとりあえず「演繹(deduction)」の話は終わって、続いて今度はいよいよ「帰納(induction)」に移ってゆきます。果たして、帰納とはいかにして、新しい発見をもたらすのでしょうか。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
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専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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