日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第24回 ショーアップ語について

筆者:
2012年12月23日

ボタンを押すとプチッと音がする。他人から図星を指されてドキッとする。誰も何も言わずシーンとしている――こんなことは別に珍しくもない。マンガでも,登場人物がボタンを押すコマで「プチッ」,図星を指されるコマで「ドキッ」,誰も何も言わないコマで「シーン」と,背景に文字が描き込まれていたりする。

ところが,こういうオノマトペ(擬音語・擬態語・擬状語など)を口に出して言う人がいる。つまりボタンを押しながら自分で「プチッ」とつぶやく人,図星を指されて「ドキッ」と言う人が,我々の中にいる。誰も何も言わずシーンとしている場合にわざわざ「シーン」と言うのは子供と相場は決まっているが,これもまた我々の重要な一員である。こういう「プチッ」「ドキッ」「シーン」のようなことばを「ショーアップ語」と言う。

といっても,「ショーアップ語」という用語が定着しているというわけではない。このようなことばはこれまでまったく注目されず名前もついていないので,私が勝手に「ショーアップ語」と呼んでいるだけである。こういうものについて考えたことがあるという読者もまずいないだろうから,本題に入る前に,ショーアップ語について簡単な観察をしておこう。

言語は話し手によって発せられる。しかし,だからといって,言語が常に話し手の立場から発せられるかというと,必ずしもそうではない。「言語は話し手の立場から発せられる」という考えには,少なくとも2つの例外がある。

第1の例外は,話し手が他者の立場で言語を発するというものである。他者の発言や著述を音読・書写する,代読・代書する,引用する,模倣する,他者になりすます,そして神官や巫女が憑依状態で他者になりきる,あるいは他人に乗り移られる(と思い込む)といった場合がこれにあたる。

第2の例外は,話し手が誰の発話でもないものを発するという場合である。舞台芸能でセリフの割り振り上,「驚いて振り返れば」のような地の文をバックコーラス(地謡)に言わせず、驚いて振り返るその登場人物(を演じる役者)に謡わせるといった場合はこれにあたる。しかし一般的な日常会話には,「地の文」などというものはない以上,この種の例外は見られない,と思ったら実はあるというのがショーアップ語である。「プチッ」「ドキッ」「シーン」など,本来は誰が発すべきでもないにもかかわらず発せられるショーアップ語は,「言語は話し手の立場から発せられる」という考えの第2の例外が日常会話にも存在し,この考えがこれまで知られていない形で限界を持つことを我々に教えてくれる。

そして,ここにはマンガの影響を感じざるを得ない。いや,ショーアップ語の中には,マンガ以外のルーツを持つと思われるものもある。「厳しいことで知られるあの先生が担任に決まった」というような他愛ないものだが,そういう悲劇に見舞われてしまった友人に向けてすかさず「♪チャラリーン」と,J.S.バッハの『トッカータとフーガニ短調』の冒頭のメロディをかなでて茶化すという行為は,メロディというマンガにはない音楽的側面を持っている。これは,ドラマのBGM(背景音楽),あるいはそれをもじった嘉門達夫氏の歌『鼻から牛乳』の影響であろう。ショックを受けて発する「ガーン」が,何となくピアノの低音のように感じられ,隠し持っていたプレゼントを披露する際に発せられる「ジャーン」がファンファーレのように高らかで平坦に感じられるなら,これらもルーツとしてはドラマを考えねばならないかもしれない。ボクサーがシャドーボクシングでパンチと共に繰り出す「シュッシュッ」という,風を切るようなことばもまた,マンガから来ているのかどうかはあやしそうである。とはいえ,これらはあくまで少数であり,ショーアップ語のルーツとしてのマンガの地位は揺るがない。

このウェブ上で『談話研究室へようこそ』を連載されている山口治彦氏は,物語世界内部での登場人物間のコミュニケーション行動と,物語の作者から鑑賞者へのコミュニケーション行動との重なりを論じられ,前者を「微視的(ミクロ)」な行動,後者を「巨視的(マクロ)」な行動と呼び分けられている。ショーアップ語は独り言としても発せられるので,必ずしもコミュニケーション行動ではないが,仮に「微視的」「巨視的」の区別を「当該世界内」「当該世界を越える」という区別として発話全般に持ち込むなら,ショーアップ語は,現実世界にマンガ世界やコミカルなドラマの世界を呼び込んで現実世界をショーアップ,戯画化しようという,現実世界を越える巨視的発話と言えるかもしれない。

マンガ文化が日本語社会ほど花開いていない他言語社会には,ショーアップ語はどれぐらいあるのだろうか? 人をコチョコチョくすぐる際には皆,「コチョコチョ」みたいなことぐらいは言うのだろうか? 拍子抜けしてガクッと脱力しズッコケる際,どれぐらいの外国人が「ガクッ」みたいなことを言ってズッコケるのか? そもそもズッコケ文化は海外においてどの程度見られるものなのか?――と,ショーアップ語についてはまだごく基本的な部分さえわかっていない状態だが,とにかく日本語社会にショーアップ語というものが現にある以上,これを取り上げても罰は当たらないだろう。では,ショーアップ語はキャラクタとどのように関わるのだろうか? (つづく)

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。