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第44回 小説の味覚表現(その3)

筆者:
2013年1月10日

味覚の話で年を越しました。越年の課題は,グルメ漫画でも小説でも味覚に関して入念な説明がある点では同様なのに,グルメ漫画では不自然さがしばしば目立つのに対し,小説では不自然が感じられないのはなぜか,という問題です。両者はどこが異なるのでしょうか。

グルメ漫画では登場人物は味覚についてせりふのかたちで語ります。一方,これまでに観察した小説の例では,味覚の表現はすべて登場人物の内面の描写というかたちで地の文で提示されていました。ならば,せりふと内面描写という表現の提示方法の違いに理由があるはずです。

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せりふとして提示された味覚表現は,日常の食卓のことばと比べられることになります。そして,グルメ漫画の味覚表現は,食卓で私たちが料理に対して述べるコメント——おいしいとしか言いようがない——に比べて明らかに過剰なのです。

しかし,食通がとうとうと味について説明するグルメ漫画ではそれでも別に構いません。そこでは,読者が味についての情報を今か今かと待ち受けているからです。グルメ漫画(をはじめとする大衆的な物語ジャンル)では, 作者から読者への巨視的コミュニケーション上の要請が,登場人物同士のせりふ(微視的コミュニケーション)の自然さに優先する度合いが強いのです。だから,微視的レベルにおける表現の過剰さに読者はさして注意を払いません。

小説では事情が異なります。小説の登場人物は,ことに純文学と呼ばれる小説内の住人は,漫画の登場人物のようには話すことができません。微視的コミュニケーションにおける自然さが,ずっと強く求められているからです。したがって,「淡い苦味が二日月の影のようにほのかにとどまった」感触を覚えたお絹ですら,「口惜しいけれど,おいしいわよ」としか発言できないのです。「黄昏の力」の主人公にいたっては,発言さえ許してもらえません。

では,この(ほぼ)無言の主人公が現実に存在したとして,その脳裏にはどのような思考や感覚が去来したでしょうか。ことばにならなかったのですから,きっと名状しがたい,本来なら言語化不能の感覚であったことでしょう。 しかし,小説ではそうはなりません。当該の味覚体験から隔てられた作者の手が入るからです。本来なら言語化されないはずの感覚や情動が,作者の介在によってことばにされます。

では,内面描写で提示される思考や知覚の自然さは,何を基準に測ればよいでしょうか。味覚を表すせりふについては,日常食卓の経験——おいしいとしか言いようがない——がありました。しかし,思考や感覚に関してそのような基準が存在しません。比較の対象がないのです。したがって,登場人物の思考や感覚の描写については,饒舌で入念な記述がなされようとも,本来はこうあるべきだと言える根拠がないのです。

私たちはことばを発するとき, 何を言うかだけでなく,何を言わないかについても選択をします。しかし,脳裏をよぎる感覚や思考には,発話に付随するそのような制約(選択)はそもそもありません。だから,発話としては過剰と思える表現であっても,登場人物の思考や認識の内容として提示されたら,読者はほとんど疑うことなくそれをそのまま受け取るのです。

登場人物の内面は,過剰なことばが許されてしまう,いわばことばの治外法権を有しています。小説における味覚の描写が豊かになったのは,そうした登場人物の内面に踏み込んだからなのです。

これまで,食卓の会話,エッセイ,グルメ漫画,そして小説というふうに複数のジャンルにわたっておいしいことばを眺めてきました。

日常の食卓ではおいしいとしか言いようがありませんでした。現在進行形の味覚に対しては表現に生理的な制約もありましたし(第29回),また,対話者と同じものを食べることが多い食卓では,おいしいという評価を交わすだけでとても効率的な情報のやりとりが可能だったからです(第30回)。

書きことばを用いるエッセイでは,食の現場から時間的に隔てられることで生理的な制約から解き放たれ,味覚の表現は飛躍的に豊かになります(第31回)。

そして,グルメ漫画と小説では語りの要素が加わり,登場人物間の微視的なコミュニケーションと,作者から読者へと向かう巨視的なコミュニケーションからなる,ふたつの伝達の流れがかかわります(第39回)。

グルメ漫画では,しばしば巨視的コミュニケーションが優先されて,登場人物は読者目当ての説明的なせりふをしゃべります。他方,小説ではことばの自然さを求める力がより強いため,登場人物の内面描写というかたちで美味の表現が繰り広げられるのです。

ことばが発せられる状況が変わるにしたがい,美味の表現も単なる「おいしい」から説明的で過剰な表現へ,あるいは入念で精緻な表現へと変貌を遂げます。発話の場の必要にもとづいて,ことばは変わるのです。

味覚についての考察は以上です。次回以降は,『アバター』などを題材に,映画のなかでエイリアンをどう描くかという問題について考えます。

筆者プロフィール

山口 治彦 ( やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。

専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。

著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998),『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版)

 

『語りのレトリック』(海鳴社)

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