タイプライターに魅せられた男たち・第67回

谷村貞治(7)

筆者:
2013年1月10日

1943年12月17日、軍需会社法が施行されました。新興製作所は1944年3月に軍需会社の指定を受け、空襲下での軍需生産確保のために、東北地方への疎開が勧奨されました。当時、インドのベンガルに、アメリカの新型爆撃機B-29が配備されつつあり、中国を経由して、日本本土への空襲の可能性が懸念されていました。実際、中国の成都には、大規模な飛行場が建設されているとの情報がありました。B-29の航続可能距離は不明だったものの、軍需省としては、軍需会社を、少しでも北に分散させておく必要があると考えていたのです。

新興製作所を疎開させるにあたって、谷村が考えたのは、花巻工場を疎開先とすることでした。花巻工場には、すでに100人近い報国隊が働いており、疎開の受入先としては申し分ありません。しかし、新興製作所全体を疎開させるとなると、これまでに借り受けた花巻町内の建物では、どう考えても手狭でした。もっと広い敷地に、新たな工場を建設する必要があったのです。花巻町の及川主事や宮沢町長とかけあった結果、花巻城址の南東角、鳥谷崎神社の南側にある公園敷地を、新興製作所の新たな工場用地として借り受けることになりました。また、1944年11月には、花巻の学童勤労動員を、新しい花巻工場に受け入れることにしました。

谷村が花巻工場を拡張している間にも、日本の戦況は、日に日に悪化の一途をたどっていました。1944年7月にはサイパン島が陥落し、11月24日には東京がB-29の襲来を受けました。その後、東京はたびたび空襲を受け、そして、1945年4月15日の大空襲で、蒲田工場は全ての建物が全焼、新興製作所は壊滅的なダメージを受けます。この日、谷村は、蒲田から工作機械を数台、花巻に運搬したところで、花巻温泉にいました。そこへ、蒲田一帯が火の海との一報が入り、取るものも取りあえず、花巻駅へと向かったのです。

二日がかりでたどり着いた蒲田は、完全な焼け野原でした。工場も自宅も焼け落ちてしまい、どこまでが道路で、どこまでが建物だったのか、全く分からない有様でした。けれども、妻も工員も挺身隊も皆、無事避難していて、けが人が無かったのは不幸中の幸いでした。谷村たちは、新興製作所の看板と門柱を掘り起こし、焼け残った金属板で10坪ほどのバラックを建てました。そうこうしているうちに、花巻から救援隊がやってきました。急を聞いた報国隊の旦那方10人余りが、あるだけの物資を手に、谷村を追いかけて来たのです。谷村は、蒲田工場で働いていた女子挺身隊を花巻に帰すべく、妻に引率を託しました。また、学童挺身隊も救援隊とともに岩手に帰しました。そして、谷村自身は、東京に残ることにしたのです。幸い、新橋の第一ホテルは焼け残っており、寝泊まりが可能でした。蒲田工場のバラックに「第一ホテルに仮事務所を設置」と立札し、谷村は、陸海軍や軍需省との連絡に備えることにしたのです。

谷村貞治(8)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。