「百学連環」を読む

第91回 帰納法──政治学の場合

筆者:
2013年1月11日

前回までの議論を踏まえて、具体的な学術を例に、帰納法の説明が続きます。

西洋も古昔は皆演繹の學なりしか、近來總て歸納の法と一定せり。今物に就て眞理の一二を論せんには Politics 政事學なるあり。其中一ツの眞理は liberty 卽ち自在と譯する字にして、自由自在は動物のみならす、草木に至るまて皆欲する所なり。譬えは茲に魚あり、之を一ツの小なる溝に育ふ。然るに今其溝と他の川河と相通せしむるときは、魚尚ホ其小なる溝に在ることを欲せすして必す他の廣き川に逃れ出るなり。又草木の枝の既に延んとする所に障りあるときは、必す其障りなるものを避けて他に延ひ出るなり。

(「百學連環」第39段落第16文~21文)

 

一旦ここで区切って訳してみましょう。

西洋でも、昔はすべて演繹の学ばかりだったが、近年ではすべて帰納法だということで一定している。ここで、具体例を挙げて真理を一つ二つ論じてみよう。例えば、政治学(Politics)というものがある。政治学における真理の一つは liberty 、つまり「自由」と訳されるものである。この自由自在であるということは、動物だけでなく植物に至るまで、皆が欲するものだ。例えば、ここに魚がいるとしよう。この魚を小さい溝で飼う。ところで、その溝が他の川とつながっている場合、魚はそれでも狭い溝にいようとは思わず、必ず広い川へと逃れ出て行くものだ。また、草木の枝にしても、伸びてゆこうという場所に邪魔するものがあれば、必ずその邪魔なものを避けるようにして、他のほうへと伸びる。

いかがでしょうか。果たして魚が広いところを好んだり、草木が邪魔のないところへと枝葉を伸ばしたりすることが、政治学の「自由」という概念とどう関わるのか。そういう疑問は生じますが、西先生は、例によってイメージを喚起する具体例を出していることに注意したいと思います。「自由(librerty)」という抽象概念を、誰もが日常的に見知っている動植物を例にして、まずはイメージさせているわけです。

西先生は、ご覧のようにlibrertyを「自在」と訳していますが、ここでは「自由」としました。また、politics も「政事学」を現代語訳では「政治学」としています。

さて、続きを読みましょう。上の文章から改行なく次のように続きます。

人は又其類ヒにあらすして最も自由を得ると雖も、唯タ之を縛して動かさゝるは法なり。其法たるや自在の理に戻るへからす。是に戻るときは必す亂る。譬へは今法を制して奪掠と殺害とを禁す。是則ち法の眞理にして人々之を何とか云はんや。然るに又酒を飲むことゝ遊ふことゝを一切禁するときは、其自在の眞理に戻るか故に、其法忽ち破れて必す行はるゝの義なし。唯タ人の天性自在と云ふに基きて背くことなき之卽ち政事學中唯タ一箇の truth なるなり。其眞理たる古今更に變ることなきものなれは、法を制するにも試法と云ふを以て是を古に考へ、今に鑑ミて其一ツの眞理を得さるへからす。

(「百學連環」第39段落第22文~29文)

 

訳します。

また、人はそうした類とは違って、最も自由を享受しているものである。とはいえ、この自由な人間を縛って動かないようにするものとして法がある。この法というものは、自由という道理に背くようなものであってはならない。法が自由の道理に背くような場合は、必ず乱れることになる。例えば、いま法を制定して略奪と殺人を禁じている。これは法の真理であって、人びとはこのことについてとやかく言うだろうか。だが、酒を飲むことや、遊ぶことを一切禁じた場合、自由の真理に背くために、その法はすぐに役立たずとなって、必ずそのように行わねばならないという義務もなくなってしまう。人が生まれながらに持っている自由というものに基づいてそれに背かないことが、要するに政治学においてただ一つの真理(truth)なのである。これが真理であるということは、今も昔も少しも変わらないことであるのだから、法を制定する場合にはその試し方として、それを一方では過去について考えてみて、他方では現在の状況に照らしてみて、そこから一つの真理を得るようにすべきなのである。

このくだりまで読むと、先ほどの魚や草木の自由に関する議論が、人間の自由を持ち出すための下ごしらえだったことが分かります。人間はとても自由な存在だけれど、その自由は法律によって制限されている。ただし、法律はなんでもかんでも制限してよいわけではない、という話ですね。

ここで西先生が述べていることを、「帰納法」という文脈を踏まえて言い換えてみると、こうなるでしょうか。法律で人の自由を制限する場合、そうした制限が人間の歴史において、過去から現在まで、どの程度普遍的なものであるかをチェックせよ。そのようにして、多数の事例を見た上で、そこに共通する真理を見いだすようにしなければならない、と。

ところで、ここで西先生が政治学と法学をあまり区別せずにいることが気になるかもしれません。「百学連環」第二編の「政事學と法學」を扱ったくだりでは、政治学も法学も、もとは経済学から出たものであるとまずは述べています。そしてさらに、これらはいずれも哲学から枝分かれしたもので、「哲学に於て昇進し法學に至る、之を政事學といふなり」(『西周全集』第4巻、p.183)と、ことさら政事學と法学を区別していないようなのです。

次はまた別の例が引き合いに出されます。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。