漢字の現在

第258回 北京の漢字

筆者:
2013年2月12日

東京から北京へ。実は初めての首都北京入りとなる。1週間違いで後に韓国の済州島に行くので、それとごっちゃにならないようにしないと危ない。実際に事務局へメールを誤って出してしまったこともあった。1週間で、2つの異なる発表を、2つの外国でしなくてはならなくなった。重なる参加者もいるそうで、混乱は避けたい。こういうときに弟子(di4zi ディーズ)が来てくれることはありがたい。

空港内で、「中国、四国」というアナウンスに一瞬ビクッとする。国内線だがドキッとしてしまうのは、日中ともに中の国を指す同じ地域名なので仕方ない。空港の免税品店ではLANCOM(ランコム)などの香水の甘い匂いが漂う。もうすでに日常から遠く離れた世界に来ている。

これから乗り込む機体を見ると「中國國際航空」と繁体字が記されている。これは中国の法令に違反するようだが、国際線だから特別な措置なのだろうか。「請注意」で始まる空港での中国語によるアナウンスは、ベトナム語と共通する語順である(ベトナム語ではこの「請」には固有語が来る)。

中國國際航空

機内では、隣に「空中小姐」が座った。珍しい機会なので、中国語で「昼ご飯はこの飛行機で出るのか?」と尋ねてみた。一言、「有(イオウ)」とあさってのほうを指差した。これが中国であり、中国語というものだ。4時間近くのフライトはくたびれるので、リクライニングをしようとするが、運悪くこの座席のボタンそのものがなくなっていた。

空中小姐はCA、キャビンアテンダントのことで、韓国語ではステュオディスと今でもいっている。この「オ」が口を大きく開き、強く響いたことがあった。韓国語で言うとカッコいい。ついでにサンドイッチも、韓国人が発音するとセンドゥウィッチとセが高く決まる。あの韓国からの留学生がたまたま少し英語風に発音したものだろうか。「三明治」(サンミンジー)というサンドイッチに対する中国語は日韓ともに面白がるが、中国人は子供のころからだそうで、別に何とも思っていないそうだ。かつては「三堆之」(サンドゥイジー)というより原音に近い音訳もなされていた。

「女士們、先生們」、機内アナウンスは、レディース&ジェントルメンの順序。さっきのスチュワーデスがもう一人と一緒に、「小心(シアオシン)、小心、小心、小心!」と言いながら、食事を運んでくる。


トイレを意味する「厠所」「洗手間」は簡体字になっている。その中の「馬桶」は蓋の着いた便器のことで、何やら古めかしい2字だ。女子大に勤めていた当時、「弁当」を「便当」と台湾人留学生が日本語作文で書いてきた。間違えるにもほどがとその時は思ったが、そちらではこの表記で、しかも日本でも江戸時代には「便桶」という表記さえも使われていたことを後で知った。「手紙」も中国ではトイレットペーパーというのは有名な話だが、韓国語では「便紙」(ピョンジ)が郵便の紙で手紙となる。これも中国人が見るとトイレットペーパーにしか見えない。品のない暗合も、漢字の多義性と地域性のもたらすいたずらだ。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。