漢字の現在

第259回 中国の漢字

筆者:
2013年2月19日

北京に降り立つ。「走」が歩くという意味になるのは基本中の基本で、「北大」も北海道大でも東北大でもなく北京大を指す、ここは中国だ。当たり前だが中国語オンリーの世界である。

飛行場で荷物を待つ間、画面が切り替わる大きな看板を眺めていると、中国のスポーツ選手が繁体字でサインをしていた。看板には社名が「ORACLE 甲骨文」と記されており、そういう意味だったのかと知らされる。だいぶイメージが変わるのは、日本人だからなのだろうか。「×」が不正解だけでなく禁止も表すのは共通している。

ここの空気の状態は聞いていたとおりで、目が痛くなる。道路には「龍翔路」、ホテルにも「鴻翔」と簡体字で記されている。「京城」の2字があちこちで目に入るのは漢字圏の中国の首都だからである。それは普通名詞としての使用であり、日本の「京都」だって元はそうであった。

「生」はなまビールに書かれていた。日本から伝わった漢字の熟合法ではないか。そもそもビール瓶が冷たく冷えて出てくるのは、かつての中国ではありえないことだった。韓国でも、「センメクチュ」は「生麦酒」の字音語である。日本の訓読みが中韓では漢字音で使われている。そして、中国では漢字で、韓国ではハングルで表記されている。「生き生きしている・生々(なまなま)しい」を「センセンハダ(생생하다)」というのも、中国古典の生き生きしているという意味の「生々」だけからではなく、同様に日本語の影響もあったのだろうか。

北京で行きたいところはと聞かれ、準備不足から、覚えていた「琉璃廠(リウリーチャン)」を挙げてみる。日本人は、北京で書画骨董の観光、買い物と言えばその名が出てくるのだが、ところが現地の誰も知らない。

お決まりだが、「王府井(ワンフージン)」というと、それならばと連れて行ってくれた。そこは面白いところだ。古い教会では、ちょうど結婚式を挙げていたので、たまたまだが二人でいっしょになって祝福しておく。「(王馬)(王馬)利亞」と書かれているのがマリア様だ。

狭いところに大勢の人がいる。人の腕に触れてしまい、その汗が絡まって移ってくる。荷物は前に、と案内してくれる中国の人に注意される。日本語や韓国語でも話しかけてくる。とくに路地裏には、怪しげな食べ物が並んでいる。蠍だ。動いているのもいる。蝉の幼虫も串刺しになっている。尖った串が何本も上や斜めを向いていて、持ち歩く人は危ない。顔をしかめてしまう。

ヒトデの串まで(クリック要注意)。

(画像クリックで周辺を含め拡大表示)

【 ヒトデの串まで(クリック要注意)。】

オリエント趣味はまだあるのだろう、フランス人らしき女性をそこではけっこう見かけた。お決まりの臭豆腐屋の前では、鼻を押さえてしかめっ面で通り過ぎていた。

「串」という字がたくさん書かれている。「くし」という意味は辞書なので国訓とされているが、実際にはこうして中国の首都の街中にもありふれている。そして、それは今に始まることではなかった。

センマイ、モツだ。モツは臓物のモツだが、日本ではカタカナにして何か分からなくしている。こちらでは漢字で、しかも表現が直接的である。香港の今はなき九龍城の魔窟を思わせる。あそこには歯医者だってあったそうだ。電気は周りの電線から勝手に引き込み、手術だってしていたとも聞いた。

街中では、縛った荷物が自転車の後ろの台からとずれて落ちそうな場面で、歩いていた若い子が主婦に落ちそうだと教えている。私も物を落としたら、若い男性が落とした、と教えてくれた。「文明化」した「文明公民」云々以前に、報道されるような無関心とは異なる安心な状態を目にした。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。