日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第29回 口のゆがめ方について(続)

筆者:
2013年3月3日

「口のゆがめ方」に対する前回の観察が混乱しているというのは,次のような意味である。

前半で観察したのは,「青年は,暗闇の中で口をゆがめる」にせよ「太郎と言われた男は~あざけるように,口をゆがめた」にせよ,或る人物が「口をゆがめる」のは,その人物が何らかの事物に対する嫌悪や侮蔑,あざけり,そのあたりのきもちを露わにする場合だということである。この場合,口をゆがめさえすれば,発話にまで及ぶ必要は無い。

charakuri_ho_24.png

ところが後半でMRIを持ち出して問題にしたのは,「『経理が何言いよるやろ。オレはええねんけどな』て,こんなん言うんよ」という発言のうち,嫌悪や侮蔑というきもちの主(おそらくOL)としての発言部分(「こんなん言うんよ」)ではなく,嫌悪され侮蔑される対象(おそらくは上司)としての発言部分「経理が何言いよるやろ。オレはええねんけどな」が,「口をゆがめた」発音でなされていたということである。落語『次の御用日』も同様で,「口をゆがめた発音」になっていたのは,「黙ってお歩き」「去(い)んでお母はんに言いまっせ」という部分,つまり話し手(丁稚)が,からかわれる対象(お嬢様)として発言する部分である。この場合,口をゆがめるだけでなく,必ず発話が必要である。

結局のところ,「口をゆがめる」行動には2種類があり,前回はこれらを区別なく述べてしまったということになる。

1種類目の「口をゆがめる」は,「暗闇の中で口をゆがめ」たり,「あざけるように,口をゆがめ」たりするもので,嫌悪や侮蔑,あざけりといったきもちを露わにする行動である。そういうきもちを露わにする人物は,あまり「品」や「格」は高くはないだろう。だからこそ「口をゆがめる」話し手像(発話キャラクタ)として,『上品な女性』や『神』は想定しにくい。

2種類目の「口をゆがめる」も,やはり「品」や「格」の高い話し手の行動ではないが,これは嫌悪され侮蔑されあざけられる対象,言ってみれば『愚者』の発話行動である。話し手は或る人物の発話を『愚者』として演じることにより,その人物を『愚者』としておとしめる。

これら2種類の「口をゆがめる」はつながっているとはいえ,両者を同一視するべきではないだろう。2種類目の「口をゆがめる」は必ず発話を伴い,その発話キャラクタはまず何よりも(演じられているとはいえ)『愚者』であって,1種類目とは違っているからである。

ともあれ,「話し手のきもちの言語的反映」と言われればとかくイントネーションのような韻律(プロソディ)ばかりを考えてしまい,単音にはなかなか思いあたらないというのが私たちの現状であるとすれば,口のとがらせ方やゆがめ方は,今後さらに光を当てていく必要があるだろう。

「かわいい」と評判だからと,若い女性がことさらにアヒルのような口を作ってしゃべる「アヒル口のしゃべり方」,「はじまりはじまり」という文句を「ふぁじぃむぁるぃふぁじぃむぁるぃー」のようにのたくってしゃべる「口上風のしゃべり方」,あるいはマンガ『オバケのQ太郎』の中でいつもラーメンを食べている小池さんの口が「~~~」のように波打ち,少なくとも物理的にはゆがんでいることなど,口の所作,振る舞いとその表現にはまださまざまなものがあるようだが,ここでそれらを取り上げる余裕はない。最後に指摘しておきたいのは,こうした発声法は文法の問題にも関係しているということである。これは,これまでの文法が,「普通のしゃべり方」を前提にしているということでもある。

たとえば,三宅知宏氏の挙げられる次の(1)を見られたい。

(1) a. お腹が空いているなら,冷蔵庫にプリンがあるよ。
b. お腹が空いているなら,冷蔵庫にプリンがある。

この例に対して三宅氏は,末尾に「よ」の付いている文(1a)は自然だが,「よ」のない文(1b)は不自然だと記述されている。ところが,たとえば(1b)後半部「冷蔵庫にプリンがある」を,さも重大な秘密を吐露するように,口に手を当てヒソヒソとささやくなら,(1b)も自然さが増すという話者は少なくない。しかしだからといって,三宅氏の文法記述が間違いで意味がないというわけではない。普通のしゃべり方なら,(1a)と(1b)に自然さの差はやはりあるだろう。その上で,普通でないしゃべり方の効果をも認め,なぜそのような効果が生じるのか,考えていく必要がある。

しゃべり方次第の部分がある,と認めながら文法記述が展開されていることもあるぐらいである。次の例(2)は,井上優氏が終助詞「よ」を論じられる際に挙げられたものである。

(2) a. もしもし切符を落とされましたよ。
b. もしもし切符を落とされました。

切符を落とした見知らぬ者に,そのことを教えてやる発話として(2a)(2b)を比べると,末尾に「よ」の無い(2b)は,(2a)に比べて不自然だということが井上優氏によって指摘されている。(この不自然さを私が「きもち欠乏症」という形でとらえようとしているということは補遺第16回で述べた。) が,この発話の不自然さは,やはり井上氏が認められているように,しゃべり方しだいで軽減される。たとえば,他者へ向かう姿勢に乏しい,極度に自己完結的な『怪人物』の言い方なら(ここをクリックして下さい),末尾に「よ」がなくても,そういう人の,そういう物言いだと私たちは納得してしまい,許容度は高くなるだろう。

もっとも,井上氏のようにしゃべり方の影響がはっきり示されることは従来珍しく,これまでの文法研究では,しゃべり方への顧慮が十分になされていない。文や発話の自然さに影響するしゃべり方としてどのようなものがあり,どのような場合にどのようなしゃべり方でなぜ不自然さが軽減されるのか,従来の文法が前提にしていた「普通のしゃべり方」とはそもそもどのようなものなのかといった問題を追及していくことは,しゃべり方と文法に対する私たちの理解を深めていくだろう。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。