「百学連環」を読む

第102回 消極は積極につながる

筆者:
2013年3月29日

「陰表(negative)」の議論が続きます。

陰表たるものは大概此の如しと雖も、又勉めて之を知らさるへからす。其陰表を知るときは、其知る所のもの何れかの時か廻り──て終に陽表を知るに至るなり。

(「百學連環」第41段落第4文~第5文)

 

訳してみましょう。

消極的なものというものは、だいたい以上のようなことではあるが、〔だからといって軽んじるのではなく〕これについて知ろうと努力しなければならない。消極的なものを知れば、そこで知ったことが巡りめぐってついには積極的なものを知ることにつながるからである。

西先生は negative を「陰表」と訳していました。ここでは、いささかこなれないのですが「消極」あるいは「消極的なもの」と訳してみました。

前回、恒星とは違ってなんの役に立つのか分からない星雲(霧斑)が消極的なものの例として対比されていました。そこで、なんの役に立つかも分からないといえば、「なあんだ、それなら知らなくてもいいんだ」と思ってしまう人もあるでしょう。しかし、西先生はそうではないと注意しています。消極的なものについても知る努力をせよと言います。

なぜかといえば、そのことが、いつか別の機会に、「積極的なもの(positive)」を知ることにつながっていないとも限らないからだ、というわけです。消極的なものが積極的なものにつながっている、連環している可能性がある。今の自分にはその連環が見えているとは限らない。そう指摘していると思います。

これは面白い指摘です。なんだか分からないものなら、わざわざ知らなくてもいいじゃないかと考えるのは人情というものかもしれません。ときどき学校などで、子どもたちが「これを勉強したからって、なんの役に立つか分からない(だからやらなくていいと思う)」と主張するのを見かけます。いえ、子どもに限ったことではないでしょう。

役に立たないように見えることを放っておこうという考え方は、一見合理的です。しかし、よく考えてみると、実はそれほど合理的とも言い切れません。なぜかといえば、なるほどただいま現在の私にとっては「役に立たない」ことかもしれないとしても、将来にわたってそうなのかということは、誰にも分かりません。「役に立たない」ということをもう少し正確に言い換えるとしたら、「いまの私にはなんの役に立つか分からない」となるでしょうか。

例えば、小中高と算数や数学が嫌いで、なんの役に立つかの分からないからと(いう口実で)勉強しなかった人が、大人になってゲーム会社に入ったとします。コンピュータゲームでは、3Dのグラフィックや音響表現、ゲーム世界内での物理的な動き、さまざまな乱数(確率)などなど、数学が大活躍します。それだけに、ゲームをつくろうと思ったら、数学を知らないより知っていたほうが断然よいということになります。こう書くと、なんだか都合のよい話をこしらえたように思われるかもしれませんが、いくつもこうしたケースを見てきました。

あるいは、「そんなのは結果論だろう。そのまま死ぬまで数学が必要にならない人だっているに違いない」という意見もありそうです。そう、まさに結果論なのです。なにかが役に立つかどうかということは、いつも結果的にしか分かりません。少なくとも、今の自分に役に立たないからといって、そのまま将来もずっと役に立たないことは約束されないという、実に単純な話であります。しかし、結果的にしか分からないことについて、私たちは事前に「これは役に立たない」と決めたりしているわけです。

ということは、なんでもかんでも知っていないと困るということになりはしまいか。そういう疑問も湧いてきます。理想的にはなんでも知っているに越したことはないのでしょう。とはいえ、死すべき定めの人間、限られた時間と能力と機会のなかでできることは実に限られています。ならば、せめてこのぐらいのことは頭に入れておこうではないか。それが、学術の場合、言うなれば義務教育の課程で取り扱われる各種科目なのではないかと思います。

そこで教えられることは、実際にそうなっているかはともかくとして、「最低限これだけ押さえておけば、将来さらにその先やその上の知識が必要になったときにも、なんとか自分でやっていけるようになる基礎」のようなことであるはずです。学校を卒業した後も、自力で知識や理解を拡張してゆけるような土台、知のサヴァイヴァルキットとでも言いましょうか。

ですから、そうした知識を授けられる段階では、それぞれのことがなんの役に立つのか分からないのは無理もありません。それはむしろ学校を出て、いろいろな問題に遭遇したときにこそ真価を発揮することだからです。

少し話が脱線しました。とはいえ、西先生が、消極的なものについても疎かにせず、知る努力をすべきだと言っていることの意味は、こういうことなのではないかと思うのです。

──=くの字点上〳(U+3033)+くの字点下〵(U+3035)
※縦書きで〱となり、「廻り廻りて」となります。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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