日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第31回 「あんた,なまりすぎよ」について

筆者:
2013年3月31日

発話キャラクタの話から表現キャラクタの話へ移ろうとしてモタモタしているが,最近ビックリしたテレビコマーシャルがあるので,モタモタついでに触れておく。それはチョーヤ梅酒という会社の,炭酸割り梅酒「ウメッシュ」のコマーシャルである(//www.choya.co.jp/cm/natsuna_tojo_b.html)。

舞台は梅の産地・和歌山らしい。明るい日射しの中,梅農家の娘・夏菜が,梅を自宅へ運ぶ小型トラックから「おーい」と笑顔で手を振る。麦わら帽子にオーバーオールの,典型的な田舎娘の出で立ちである。こちらも手を振って夏菜を迎えた母親が,「ご苦労だったね」と夏菜の労をねぎらう。トラックの荷台に積まれた,収穫された梅のケースを一つ傾けて見せながら,夏菜は笑顔で「今年もあんばい,ええ梅できちゃーるよ」とことさらに和歌山弁っぽく言う。続いてわざわざ梅の実を一つつまみ,梅の実に向かって再びことさら和歌山弁っぽく「おいしいウメッシュになりなーよ」と話しかける。たまりかねて,としか思えないタイミングと語調で,母親が「夏菜,あんた,なまりすぎよ」と言う。

このコマーシャルを観て,私はたまげてしまった。

親と子で,方言がきついのはどちらかと言えば親というのが相場である。しかしこのコマーシャルの母親はちっともなまっていない。そりゃそうです。冷静に考えてみれば,いくら和歌山の人といっても,これだけマスコミが発達し共通語が普及したいま,そう簡単になまってたまるもんですか。なまっているのは娘の夏菜だけ,この娘だけが極端になまっている。なんだか変ですネ。「方言はかわいい」という風が吹くや,たちまち現れた「方言がどうしようもなく,すぐ出てしまう」方言アイドル(本編第19回)と,同じにおいがしますネ。

「あんた,なまりすぎよ」と母親が娘に言うとは,いったい何事か。これが見ず知らずの他人であればわからない話でもない。地方に行って地元民に道を訊ね,親切に教えてもらったが,相手のことばがとにかく聞きづらく,わかりにくかった。「どうもありがとうございます。しかし失礼だけどおやっさん,ちょっとなまりすぎだよ」のような発言ぐらいは(イヤ実際失礼だが)あるかもしれない。しかし,母親が娘に言うとは何事か。

「あんた,なまりすぎよ」と母親が娘に言うということは,娘のなまった発話は意図的なものだということである。そして,母親はその方言色の「適正濃度」を知っており,娘に濃度の修正を求めているということである。これは母娘ぐるみ,いや地域ぐるみでの『田舎者』キャラの演出に関わる話ではないか。

筒井康隆氏の『アフリカの爆弾』(1968)には,近代的な生活を送っているアフリカの人間が,「観光客が来た」と知らせを受けるや,服を脱ぎ捨てハダカで踊り,観光客の期待どおりに振る舞ってみせるというシーンがある。何事も商売,生きんがためである。これと同様,日本の生産者農家にも,農作物の消費者が満足するイメージというやつがあるのであって,これがなかなか馬鹿にならない。オーケーオーケー,わたしだってもう大人,その辺は了解済み。というわけで,学生生活を終え,いよいよ地域の大人社会に入りかけた夏菜は麦わら帽子にオーバーオールのコスチュームもキメて,和歌山弁まる出しで『田舎者』を体現してみせたのだが,つい張り切りすぎて,やり過ぎてしまった。これではご近所さんと釣り合いがとれないし,さすがに胡散臭いから,少し抑えなさいと母親がたしなめた,というのが私の解釈である。これでコマーシャルとして成立しているのか。アフリカの国の母親が,イノシシを火あぶりにし半裸で踊り狂う娘に「あんた,やり過ぎよ」と言っているところはふつう,その国の観光CMにはならないであろう。どうなっているのか,というのが私がたまげた理由である。

ところが,周囲の学生に聞いてみると,このCMにはやっぱり,もっと別の解釈があるのだという(ああ,よかった)。その解釈によれば,夏菜は田舎に帰省したために,言葉づかいが方言に戻っているのだが,「戻りすぎている」のである。田舎から大学に来ている学生たちも,たまに帰省すると,そういうことが,自分でも意図しないまま起きてしまうことがあるらしい。

飲み会で,出身を聞かれて答えるうちに,たまたま同席者の一人と同郷だとわかる。「へぇー,○○君と△△さん,同じ地方の出身なんだ。ちょっと方言でしゃべってみてよ」などと,都会人の上司は勝手なことを要求する。馬鹿め,いまこの場で方言なんか出てくるものか。しかし,何事も商売,生きんがためである。この人には逆らえんのよ,ということで,それぞれ地方の有名芸能人を「召還」して無理にしゃべると,「戻りすぎ」のえげつない方言がどっと出てきて,何とも妙な会話ができあがる。何も知らない上司はそれを聞いて喜んでいる,ということもあるらしい。

「なまりすぎ」と言われて夏菜は,梅の実に向けていた笑顔のまま母親と目を見合わせ,そこでそのシーンは終わっている。その後,どのような会話が交わされたのか,どちらの解釈が支持されるのかはわからない。が,いずれにせよ,方言という本来は非意図的な「地」のはずのものが,密かに演じられたり,あるいは意図しないまま戻りすぎたり,それをまた修正するよう要求されたりと,方言発話は意図と非意図のはざまで揺れ動くことがあるらしい。それはつまり,役割語やキャラクタと言い立てなくても,方言ひとつをとっても,「意図的な使い分け」という伝統的な枠組みでは十分な理解が得られないということだろう。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。