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第50回 ハリウッドのおきて

筆者:
2013年4月4日

いきなりですが,問題です。

ティラノサウルスが襲ってきます。肉食恐竜です。ハリウッド映画なら,次のうち誰が最初に餌食になるでしょうか?

1.逃げ惑う子ども
2.子どもに付き従う犬
3.子どもを守るために自らを危険にさらす大人
4.子どもを押しのけて我先に逃げ出す大人

答えはもちろん,4です。

ハリウッド映画で子どもと犬は死にません。

そして,自らの危険を顧みず子どもを助ける勇敢な大人は,たとえ崖から落っこちても助かったりします(たとえば,『ジュラシック・パークⅢ』のグラント博士の助手ビリー)。

これに対して,子どもを見捨てる大人はたいてい最初に食い殺されます(たとえば,『ジュラシック・パーク』のジェナロ弁護士)。

百歩譲って,犬が恐竜に襲われるとしましょう。そのような場合でも,犬が観客の目の前で食べられてしまうような直接的で残虐な表現は避けられます(『ロスト・ワールド/ジュラシック・パーク』の気の毒な犬の首輪とリードだけが残されたシーン)。大人が何人も殺される映画はありますが,犬や子どもが次々に犠牲となる映画――たとえば,『101匹わんちゃん大虐殺』などという映画――はありえません。

なぜでしょうか。

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理由は簡単です。観客が子どもと犬の死を許さないからです。特段の理由のないかぎり,楽しいはずの映画のなかでわざわざ残酷で悲しいシーンを見たくはないものです。これに対し,子どもを押しのけて自分だけ助かればよいという大人は餌食となるのも因果応報だ,と観客はさして気にもかけません。

つまり,商業映画のストーリーや表現方法は,観客の意向に大きく左右されるのです。観客の反応を無視して映画は成り立ちません。これは,考えてみれば当たり前のことです。観客の意に添わない映画は敬遠されるだけです。映画が商業的に成功するためには,観客になるほどと納得してもらわねばなりません。映画は観客を説得する必要があるのです。

そして,その説得の過程で,当該の映画が大衆的な度合いを強めれば強めるほど,想定する観客の年齢層が下がって子どもの反応を意識すればするほど,表現の内容や方法はよくあるステレオタイプ的なものになります。そのほうが分りやすいからです。恐竜が出てくるような映画は,そういった画一化の傾向がとても強いのです。

ステレオタイプ的な表現は,陳腐に陥る危険はありますが,便利です。皆が当たり前に思うことがらやなじみの深い情報は,説明が要らないからです。そして,目立ちません。なじみのある情報は観客にとって受け入れやすいので,観客は物語の進行に集中することができます。

他方,観客になじみのない情報はしばしば物語のとげとなります。刺さったままにはしておけませんので,観客に対して何らかの説明が必要になります。そして,あからさまな説明が挿入されると,話は間延びし,その分だけ物語の進行に支障を来します。だから,説明的な表現はできるだけ避けて,入れるにしてもそれとなくできるだけ目立たぬように行うのが映画のセオリーです。

このことは『アバター』にも当てはまります。

ここでようやく『アバター』におけるキャスティングの偏りの話に戻ります。

前回は,アメリカという国で⼈種の違いがどのような意味をもつのかについて考えました。そして今回は,映画の筋立てと表現方法が観客の意向に左右されることを,(映画制作者と)観客が共有する価値観や世界観に影響されることを確認しました。

かなり回り道をしましたが,『アバター』のキャスティングになぜ人種の偏りが見られるのか,そのことがこの映画の表現に対してどのような意味を持つのかを理解する準備が整ったように思います。続きは次回で。

筆者プロフィール

山口 治彦 ( やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。

専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。

著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998),『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版)

 

『語りのレトリック』(海鳴社)

編集部から

雑誌・新聞・テレビや映画、ゲームにアニメ・小説……等々、身近なメディアのテクストを題材に、そのテクストがなぜそのような特徴を有するか分析かつ考察。
「ファッション誌だからこういう表現をするんだ」「呪文だからこんなことになっているんだ」と漠然と納得する前に、なぜ「ファッション誌だから」「呪文だから」なのかに迫ってみる。
そこにきっと何かが見えてくる。