日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第33回 せがむ腕について

筆者:
2013年4月28日

かつての同級生がいまや立派な人妻で,お茶を飲むしぐさにも『大人の女』が感じられて圧倒されたという描写。悪い猟師がいかにも『ずるい人間』っぽくお茶をすすったという描写。愚直っぽい植木屋が『善良で馬鹿丁寧な正直者』らしくお茶を飲んだという描写。こうした描写が日本の伝統的な小説に現れるということは,すでに本編の方で志賀直哉の『暗夜行路』や遠藤周作の『彼の生き方』を持ち出して述べたことである(第38回)。

「お茶の飲み方ひとつにも,飲み手のキャラクタが反映される」ということは,このように文章,ことに名だたる作家の作品の一節として読まされると,多くの読者はたちまち納得させられてしまう。だが断っておくと,これはことばで表現された世界の話である。

ことばで表現された世界だけでなく,現実の世界でも,お茶の飲み方にキャラクタの違いがあるのだろうか? 「いかにもずるそうにお茶をすすった」なんて,読まされると何となく納得してしまうけれども,そういう飲み方が本当にあるのか? 「彼女はさも老人くさくガマ口の口金をいじった」だとか,「馬に鞭をくれる様子ひとつにも,勇者らしい風格が備わってきた」だとか,ことばで表現してしまえば,それなりにうっすらと像が結ばれるような気はするけれども,そういうキャラクタによる違いは,現実の世界にもあるのだろうか?

いやもちろん,あるには違いないのだ。たとえば国際空港で,遠くから来る東洋人の一行を認めて「あれは日本人ではない。おそらくは中国人。その向こうの一群は日本人」などと何となく感じる,やがて彼らが近づきことばが聞こえるとその通りとわかる,といった経験は私一人のものではないはずだ。一人一人の身なりや顔つき,持っているものはそう変わらなくても,連れだって歩くというただそれだけで,行い手(この場合は歩行者)の氏素性が何かしら感じられるという経験を持つ人は少なくないだろう。

私が「現実の世界にもあるのだろうか?」と言うのは,これを,実験という形ではっきりと検証できないかということである。何気ないしぐさ一つに,その人のキャラクタが感じられるということは,実験科学の俎上にはまだ上がってきていない。だが,ロボットが二足で歩いた,自転車に乗ったと世間は騒ぐが,介護ロボットが介護ロボットらしく人にやさしく寄り添ったり,警護ロボットが警護ロボットらしく威圧感を漂わせて立ちふさがったりするためには,キャラクタによる行動の違いを実験科学の文脈で検証していく必要があるのではないか。

とはいっても,そういうことを実際に確かめようとすると,たちまちさまざまな問題に突き当たってしまう。その一つは,そもそも「行動」というものをどう認定するべきかという問題である。

たとえば、志賀直哉の小説『暗夜行路』では,『善良で馬鹿丁寧な正直者』である植木屋が,出されたお茶を「恭しく戴いて」飲んでいる。つまりお茶をそのまま飲むのではなく,湯飲みをいったん頭上に高く差し上げて「上のお方から頂戴いたしました。ハハーッ」とやってから飲んでいる。お茶に口をつける前の「恭しく戴く」が被験者に呈示された段階で,これが『善良で馬鹿丁寧な正直者』だと被験者が察知するとしたら,「恭しく戴く」の部分も含めて被験者に呈示してよいものだろうか。キャラクタによる違いが行動Aに現れるかどうかを確かめる際に,別の行動Bを紛れ込ませてはいけないというのは当たり前の話だろう。「お茶を飲む」行動について調べる際に,「お茶を恭しく戴く」行動は,別の行動として呈示刺激から排除しておくべきではないか?

しかしまた一方,『善良で馬鹿丁寧な正直者』にしてみれば,出されたお茶を「恭しく戴」かずにそのまま飲むなど,できることではないだろう。出されたお茶は「恭しく戴いて」飲む,これこそが(遠藤周作風に言えば)「彼の生き方」なのだとしたら,やはり『善良で馬鹿丁寧な正直者』のお茶の飲み方としては,「恭しく戴く」の部分も含めて被験者に呈示するべきではないか?

などと考えると,「恭しく戴く」行動が「お茶を飲む」行動と別の行動なのかどうか,だんだんわからなくなってくる。このように,何が一つの「行動」なのかは,判断がしばしば難しい。どのような行動を調査対象に選んだとしても,この問題は完全には回避できないだろう。

問題はまだある。たとえば,被験者にいくら『乙女』っぽいしぐさが呈示されても,そのしぐさの行い手がヒゲモジャのおっさんであれば,被験者は『乙女』とは判断しにくいだろう。つまり被験者に呈示されるしぐさの行い手としては,『男』『女』『老人』『子供』その他,何者とも判断のつかない人物が理想的なのだが,そのような理想に近い行い手は,高い費用をかけて合成画像(CG)やロボットを使えばいざ知らず,簡単には得られないという問題がある。

この問題をなるだけ回避するために,私が選んだのは,次の動画1~3のような「扉の向こうから腕だけ出して何かをせがむ」という行動である。


動画1


動画2


動画3

これなら,被験者に晒される行い手の身体は,衣類に覆われた腕1本だけで済む。

これらの動画をとりあえず身近な学生たちに呈示して,「どれが『男』か? どれが『上品な女性』か? どれが『幼児』か?」と訊ねてみると,かなりの意見の一致が見られる。『男』が腕だけ突き出してせがむところをこれまでどこかで見たことがあるのかと問われても返答できない学生たちが,動画1を『男』と選ぶ。『上品な女』がせがむ様子など思い浮かべたことは特にないと言う学生たちが,この3つしか選択肢がないならとぼやきながら,動画2を『上品な女』に結びつける。動画3のような肘と手首をまっすぐ伸ばした硬直的な動きは現実の幼児にはまず見られないと認める学生たちが,動画3に『幼児』らしさを感じる。

ところが,ここに動画4を加え,「どれが『老人』か?」という問いも加えると,特に動画3と動画4,つまり『男』と『老人』の判断が揺れてくる。


動画4

いや,いま述べた傾向から外れる学生ももちろんいるが,傾向に合うか合わないかはここでは問題ではない。彼らは皆,呈示されたそれぞれの腕の動きに人物情報を読み取って,それなりの方法でキャラクタと結びつけている。彼らの頭の中では,単に記憶が思い出されているのではなく,何らかの文化的なイメージ計算が働いている。

どのようなイメージ計算? どのように? 「せがむ腕」ひとつをとっても,考えるべきことはいろいろある。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。