漢字の現在

第272回 方言漢字と国字

筆者:
2013年5月27日

富山県にお住まいの方からも、小著『方言漢字』をお読み下さったとのことで、貴重な情報と資料を頂いた。見分ける眼力をお持ちの地元の方からいただくそうしたお話からは、かけがえのない勉強をさせていただける。1通ずつ喜んでお返事をペンで書きながら、適切なお礼のことばも見つからないほどである。

椚(クヌギ)

【直前に富山の入善の方から地元での使用について情報を頂いていたクヌギと読む国字で、主に地名や名字の中で残っている。奇遇にも、富山の入善でも八王子でも、大きめの地名に用いられていた。】

世の中には「灯台もと暗し」ということばもある。ことば以上に文字については、生活の中で空気のように普遍的なものであるはずと意識に溶け込むために、そうなってしまっていることがあり、ささやかながら灯りをお持ちできればと願っている。

八王子に講演に出かける。子供を連れての車内で、ドット文字の「三鷹ゆき」を写させてみたり、「へのへのもへじ」を書かせてみる。小学3年生の出してくるクイズ本の問に答えていると、漢字に関する問題や、判じ物まで出てきて興味深い。江戸時代や「昭和時代」から、やっていることはそう変わらない。問題を聞いた隣の女性が微笑む。電車の時刻と乗り換えをせっかく2通りも調べたのに、万一、人身事故などによって遅延が起きては、と家を早く出たため、それらより早い電車に乗ってしまった。

嫌な予感が的中し、「次は拝島」とのアナウンスに血の気が引く。特別快速なので、別方向の駅を通過し続ける。まずいことに先ほどの立川駅(かつてはよく使った)で路線が枝分かれし、別の方向に進む電車に乗ったままだった。子供にも、講演会に「先生が来ないと…」とピンチを指摘される。その子も、私に言われたそばから手荷物を座席に置いていきそうになる。

拝島駅に着いて、ここから立川に戻っても間に合うのか、と駅員に聞くと、八王子行きの八高線があるとのこと、それに乗れば何とか間に合うらしいと分かった。冷や汗ながら、駅で並ぶ人にも確かめつつ乗り込む。後で聞けば、1時間に2本しかなかったそうだ。八王子に向けてはよく同じ間違いを犯す人がいるそうで、不注意を反省しつつ言うと、国内にしては、不慣れなものに対して表示がやや不親切なのかもしれない。

八王子駅前に立ちはだかる構造物を前に、しかたなく地下へと入る。そのころ、会場受付では、先生がまだ、と言っていたとのこと、危ういところだった。私も学会や研究会では、主催側に立つことがあるため、主催の人のためにも、もっと気をつけなければと何度目かの反省をする。

そこで与えられていたテーマは「国字について」。最初の担当者がずっと温めていたテーマだそうで、部署が変わった今日も客席にお越し下さっていたそうだ。私も専門だけに、今後のこともあって、久しぶりにパワーポイントを準備した。本にまだ書けずにいることまで、写真付きでいくつも公開してみた。マイクを通した声や話し方が、そうした中身の邪魔にならないように気をつける。

正倉院文書などでの「麻呂」から「麿」への合字化など、アニメーション機能など駆使すれば良かったが、だいたいが凝るとろくなことがない。しかも、会場ではパワーポイントはビューワーしかないとのことだが、板書する時間の節約と、生の資料の写真の呈示、間合い作り、配付資料への利用などのため、作成したファイルを投射することにした。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。