「百学連環」を読む

第111回 三段階説

筆者:
2013年5月31日

今度は、話が positive のほうへと転じてゆきます。

近來佛國の Auguste Comte なる人の發明せし語に、總て何事にもあれ最初より都合克く遂るものにあらす、其を遂んには stage 卽ち舞臺、或は場と譯する字にして、其場所三ツあり。始めの一ツより次第に二ツを經て、第三に至りて止ると云へり。其の第一の場所とは Theological Stage 卽ち神學家、第二は Metaphysical Stage 卽空理家、第三は Positive Stage 卽ち實理家、此に至り始めて止ると言へり。總て此の如きものにして、其第一第二の場所を踏むの長短、久不久はありて其實理に至るの遲速ありと雖も、皆第三の場所を踏まされは實理に至るの道あらさるなり。

(「百學連環」第42段落第11文~第14文)

 

では、訳してみます。

近年、フランスのオーギュスト・コントという人が次のようなことを発案している。どんなことであれ、最初から都合よく成し遂げられるものではない。ことを成し遂げるには、「段階(stage)」を踏まねばならない。その段階は三つある。第一段階から第二段階へ、そして第三段階へ至って終わるというわけだ。さて、その第一段階を「神学段階(Theological Stage)」という。第二段階は「空理段階(Metaphysical Stage)」。そして第三段階は「実理段階(Positive Stage)」であり、ここでようやく終わるのである。すべてこのような次第であり、第一段階や第二段階には、それぞれ長所・短所や〔継続する〕時間の長さ・短さがあって、実理に至るのが早い場合もあれば遅い場合もある。とはいえ、いずれにしても第三段階を踏まなければ、実理に至る道はないのだ。

いかがでしょうか。ここでは、フランスの哲学者で、社会学の創始者として知られるオーギュスト・コント(Auguste Comte、1798-1857)の説が援用されています。

このくだりで言われている三段階説は、コントが学術に関わる人間精神の辿るステップとして論じたものです。例えば、『社会再組織に必要な科学的作業のプラン(Plan des travaux scientifiques nécessaires pour réorganiser la société)』と題された1822年の試論では、次のように述べられています。

人間精神の性質そのものによって、人間の知識の各部門は、必ず次の三つの理論段階を次々に通るコースをとるものである。それは、神学的すなわち虚構の段階、形而上学的すなわち抽象の段階、そして、科学的すなわち実証の段階である。

(「社会再組織に必要な科学的作業のプラン」、霧生和夫訳、
『中公バックス 世界の名著』第46巻、中央公論社、1980、80ページ)

 

上の西先生の講義では、Metaphysical Stage を「空理段階」、Positive Stage を「実理段階」という具合に、西先生の訳語のままにしてみました。いま引用したコントの文章では、それぞれ「形而上学的段階」「実証的段階」と訳されています。

まず、簡単に補足すれば、神学的段階とは、例えば、自然現象を神のような超自然的な発想で説明しようとする段階のことです。

次の形而上学的段階、空理段階とは、神様を持ち出すのは止めて、もう少し自然に近い説明をするけれど、本当かどうかは分からない段階です。理屈はつけているものの、空理である可能性があるというわけです。

最後の実証的段階、実理段階とは、単なる理屈にとどまらず、観察や実験を通じて、実際に確かめられる段階といってよいでしょう。つまり、学問はこの段階に至ってはじめて学問たるというストーリーです。このことについて、コントの言葉をもう少し見ておくと、こんなふうに言っています。

第三の段階は、あらゆる学問の最終的方式である。前の二段階は、この段階を徐々に用意するだけのものでしかない。この段階では、事実を関連づけるのは、事実自体によって示唆され確認される、全く実証的な種類の一般的観念や法則などである。こうした観念や原則は、ときとして、単に原理の域にまで高めることができるほどに一般的な事実であるにすぎない場合もある。この原理をできるだけ少ない数に還元しようとする努力は払われるが、いつかは観察によって検討できるようなもの以外には仮説を立てるようなことはなく、いかなる場合でも、原理を現象の一般的表現手段としてしか見ないのである。

(前掲同書、81ページ)

 

少し長くなりましたが、これを読むと、西先生が Metaphysical を「空理」と訳したのは、見事だと感得されます。もちろん、Metaphysics を積極的に捉える文脈では、「形而上」(形あるものを越えたもの・理念・抽象)、つまり「形而下」(形あるもの・物質・具象)と区別されたことと訳せばよいわけです(ついでに申せば、これはいずれも『易経』に由来する語彙でした)。しかし、コントの文脈ではどちらかというと、第三段階の「実理」に至っていない段階、「実証」されていない段階という意味合いが強いので、「空理」とすると腑に落ちやすいと思います。

西先生は、これに続けて、例によって具体例で説明を施します。どんな例が出てくるでしょうか。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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