「百学連環」を読む

第112回 雷の三段階

筆者:
2013年6月7日

コントの三段階説の説明をしているところでした。西先生は、例によって具体例で説明を補足します。

譬えは thunder 卽ち雷を指して古昔は神なりとせり。我朝にても古へは神の鳴るものと心得しより、神なり、或はなるかみ、或は和歌なとには、はたゝかみと云へり。其後周公の易理なとに至りては陰陽の戰なりと云へり。然るを方今は其理を發明して電氣、卽ち electrical なりといふに止まりて、何時にても望ミに從ひ雷を發するに至れり。大概此の如くにして雷を古昔神となせしは第一の場卽ち神學家なり。中頃陰陽の戰なりとなせしは第二の場所卽空理なり。方今電氣なるを發明せしは卽ち實理なり。それゆゑに人智の開けも物貨の開けも世の開化も皆其の漸々の次第ありて、第一第二の場所を經て第三に至て止るなり。そは methodology とて如何になすとも止むを得さるの道理のあるなり。其二ツを經て後ちに其實理を知る。是を positive knowledge となすなり。

(「百學連環」第42段落第15文~第24文)

 

まず補足すると、上記中「物貨」には、編者による注記としてルビで「〔マヽ〕」と添えてあります。その注記の真意は分かりませんが、ひょっとしたら編者は「物質」の書き損じかもしれないと睨んだのかもしれません。「ママ」とは、怪しいと感じるものの、原文にはそのように記してあるので、そのまま表記しておくというほどの意味であります。

という話になったついでなので、ここで「物貨」について調べてみましょう。『日本国語大辞典』(小学館、JapanKnowledge版)を引くと、「物貨」の項目があります。その語釈は「品物」です。

同辞典は、歴史的用例を載せるものですが、「物貨」には三つの例が挙げられております。筆頭は、いま私たちが読んでいる西周「百学連環」総論のまさにこのくだり。二つめは、『西洋道中膝栗毛』に見える「排列する物凡そ物貨(ブックヮ)天宝より日用の雑品学芸に係る諸具」という一文。そして第三は、『米欧回覧実記』に見える「数町の距離にて物其価を殊にし、陸路二三里を隔れば、物貨のバイ壊して沽れざるものあるに至る」という描写です(「バイ」は「雨」の下に「毎」の字)。いずれも「品物」というほどの意味である様子が見て取れます。その様子は、近代デジタルライブラリーの検索結果でも確かめられますのでご覧いただければと思います。

さて、訳してみましょう。

例えば、英語の thunder つまり「雷」のことを、昔は「神なり」と言った。我が国でも、古くは「神の鳴るもの」と思っていたことから、「神なり」あるいは「なるかみ」と言い、和歌にも「霹靂神(はたたがみ)」と言う。その後、周公の『易経』では、〔雷を〕「陰陽の戦いである」としている。しかし、現在ではその仕組みが解明されている。要するに「電気(electrical)」であるということになり、自在に雷を発生させることができるようにもなった。だいたいこのようなわけで、〔先のコントの説に従って整理すれば〕昔は雷を「神である」としたのが第一の段階、つまり神学段階である。次の「陰陽の戦いである」としたのは第二の段階、空理段階。そして現在「電気である」と解明したのが、実理段階である。こんな具合で、人智の進展も、物の進展も、世の進展も、いずれも徐々に進むのであり、第一段階、第二段階を経て、最後に第三段階へと至るのである。それは「方法論(methodology)」といって、どうしたってこのようになる道理があるわけである。つまり、第一、第二の段階を経た上で実理が分かる。これを positive knowledge(実理、実証知)というのだ。

ご覧のように「雷」が例に挙げられています。雷は、日本だけでなく、例えば古代ギリシアでも、ゼウスの武器と見立てられていたりもしましたね。文字通り、神になぞらえられた神話的段階の捉え方です。

次に『易経』になると、陰陽という二つの抽象的な要素で世界を捉えんとするわけですが、そこでは神ではないけれど、陰と陽の戦いであるという、真偽を確かめようのない理屈がつきます。これが空理段階(形而上学段階)です。

そして、最後に「それは電気が生じる現象である」という、私たちにはお馴染みの物理的説明が登場して、実理段階(実証段階)へと至ったのだ、という次第。実理段階になると、技術的に応用できるということについても、西先生は簡単ではありますが触れていますね。

まとめとして、これは「方法論」というものだと述べています。その原語は、methodology です。これは、method に logy を合成した語。method とは、元を辿ると、例によって古典ギリシア語に根を持ちます。つまり、μεθοδος(メソドス)です。これはちょっと含蓄のある言葉で、μετα(メタ)+ οδος(ホドス)と分解できるのですが、「ホドス」とは「道」のこと。「道に沿ってゆく」とか「道を追求する」という原義があるのです。道に沿ってゆくことが「方法」とは、なかなか言い得ていると思います。

logy のほうは、λογος(ロゴス)で、これは「言葉」とか「条理」という意味でした。つまり、「方法についての言葉」で、「方法論」という訳になるわけです。それが「道理」、つまり「道の理」だというのも、なにか平仄が合っているように思います。そういえば、『新約聖書』も翻訳によっては、「ロゴス」を「道」と訳していたりしました。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
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時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
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