日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第41回 「てへぺろ」について(続)

筆者:
2013年8月18日

なぜ「てへぺろ」「てへこつ」は微罪なのか? それは,「てへぺろ」「てへこつ」と言う『娘』が本当に「てへっ」と笑って舌で口元をなめたり自分の頭を張ったりするわけではなく,そういう言動の「ショーアップ語」(補遺第24回第25回)として「てへぺろ」「てへこつ」と言うに過ぎないからである。本格的な実践ではないから微罪,そして結局お咎(とが)め無しになるのである。

こういう「微罪,そして結局お咎め無しで済む可能性」は,実はショーアップ語にかぎらず,発話という行動全般に多かれ少なかれ開かれている。というのは,発話は,話し手の身体行動である以上,何よりも話し手のものだからである。

「『経理が何言いよるやろ。オレはええねんけどな』て,こんなん言うんよ」とOLが上司について愚痴る際,おそらくは口をゆがめてしゃべってなどいないであろう上司のセリフ「経理が何言いよるやろ。オレはええねんけどな」を,侮蔑すべき『愚者』の物言いとして口をゆがめて引用するという事例は(補遺第28回),一見したところ他者のことばをただなぞっているように思える直接引用の発話でさえも実は「何よりも話し手のもの」だということを教えてくれる。だからこそ,たとえ他者の発話をそのまま忠実に引用するだけでも,「げっへへ,もちろん,引き受けやすぜ」のような下品な発話を引用することは,『上品』キャラの令嬢にとっては致命傷となり得るのであった(本編第57回)。

だが同時に言えるのは,発話が話し手のものである以上,致命傷を避ける抜け道も――それも二通り!――あるということである。

第一の抜け道は,発話が何よりも話し手のものである以上,話し手は発話内容を自分の色に染め上げてしまうことができ,そうすれば下品なものはさほど下品ではなくなるというものである。褌(ふんどし)は下品だから「たふさぎ」と呼ぼうとする話し手がその例で(本編第56回),この話し手は,自分が志向する『上品』キャラにとって,「褌」という発話は危ないので,これを古語の「たふさぎ」に呼び変えて危機をしのごうとしている。

第二の抜け道は,発話が何よりも話し手のものである以上,話し手は発話の中で,自分と発話内容との距離をも表現してしまうことができ,そうすれば下品なものはさほど自分とは関係なくなるということである。「カタカナ読み」とでも言えばいいだろうか,褌屋で褌を買うにしても,手元のメモをこれ見よがしに眺めつつ,語頭の「ふ」を少し伸ばし,語末でイントネーションを上昇させ,ポーズを入れて小首などかしげ,怪訝(けげん)さをかもし出し,「はて,これは私の知らないことばですが」「これは私のことばではありませんが」という雰囲気をにじませて「フーンドシ?,を1つ頂けますか」などと言えば,「褌のことなど何も知らないお嬢さんがどうした事情か,褌を買いにやらされたの図」が完成し,『上品』キャラの危機は何とかしのげる。「てへぺろ」や「てへこつ」というショーアップ語も同様で,話し手と発話内容との距離が表現されればこそ,微罪で済まされるのだろう。

そして,話し手と発話内容の距離が最大限に感じられ,たとえば「話し手は『下品な大人』の真似をしているが,地が隠しきれず,てんでさまになっていない」といった印象が形成されるのは,話し手の意図が検知されない場合である。これは,「キャラクタは意図の露出と合わない」という,本編・補遺を通じて述べてきたことからすれば当然のことだろう。吸い付けないタバコにむせつつ「てやんでえ」と幼稚な口調でタンカを切り,「ぺっ」というショーアップ語とともに吐いたツバが吐ききれず,アゴのあたりにてろ~んとぶら下がったりすれば,その微笑ましさに目を細めてしまうのは私一人ではないはずだ。

当たり前になり過ぎたのか,『お転婆』『おきゃん』『お茶っぴい』といったことばは,今では死語になりつつあるようだが,これらのことばが当てはまる少女たちは,こうした抜け道の界隈で微罪を繰り返している。しかし,そういう抜け道にも限界はある。発話内容をどんどん下品なものにしていけば,それを発する『上品』な話し手は次第に口ごもり,やがて話せなくなるだろう。

と書いてきて思い出したのは,拙論に対して或る方から頂いたご意見である。上品なキャラは下品な発話を直接引用できず,たとえば令嬢は「その方,『げっへへ,もちろん,引き受けやすぜ』っておっしゃいましたわ」などとは言えない,と私が書いたことに対して(本編第57回),異論を頂いた。

ご意見の主は先輩の研究者だが,上品なご令嬢がそのまま育たれたようなお方,と言ったら失礼だろうか。「定延さん,あれ,上品な令嬢でも言えるんじゃないの?」と仰ったその直後に,その方は実にかわいらしく,いかにも『娘』が芝居で言うような口調で,「げっへへ,もちろん,引き受けやすぜ」と続けられたのであった。

あの時,私は何も言い返さず,ただ曖昧に笑って済ませてしまった。「そんなかわいい口調ではなくて,もっと下卑た発音で言えるでしょうか」と言いたいきもちはあった。「この例文は出版社のサイトで,一般に公開されているものだから,下品さをだいぶん抑えたものにしてるんですよ。「げっへへ,もちろん,引き受けやすぜ」よりもっと下品なあんなこと,こんなこと,直接引用できるでしょうか?」とも言いたかった。が,それを言うのも下品だと思い,やめてしまった次第である。

というわけで,今回はまた発話キャラクタの話に戻ってしまった。だって,発話キャラクタと表現キャラクタ,それに『お転婆』『おきゃん』『お茶っぴい』のような「ラベルづけされたキャラクタ」(本編第44回)って,密接に関係してるんだもん。

なに,おまえは,発話キャラクタの話をしている時に(本編第64回),間違って表現キャラクタの話をしただろうって?

「『男』は『女』よりも「格」が上」という通念を紹介する際,その根拠として,本来ならば,「いくら『神』キャラでも『女神』なら,丁寧調でしゃべってもおかしくない」といった,発話に関する根拠を挙げるべきところで,「「貫禄」「風格」「堂々」「恰幅」「押し出し」「重厚」のような「格」の高いことばは『女』よりも『男』の表現だ」と述べただろうって?

「『女』は『男』よりも「品」が上」という通念を紹介する際にも,「「げっへへ」のような「下品」な笑いは『男』を思わせる」といった発話に関する根拠を挙げるべきなのに,「「しとやか」「優雅」「優美」といった「品」の高さを思わせることばは『男』よりも『女』の表現だ」と述べただろうって?

微罪,微罪! 微罪につき赦してつかわせ!

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。