漢字の現在

第280回 コーヒーの漢字表記

筆者:
2013年9月9日

中国では、テレビの字幕には、意外と規範的でない字体が出てきた。

 (晋中は口口)(晋中は口口)美


   「晉」は簡体字においても、「晋」が規範的な字体である。


 (尚ソはハ)(尚ソはハ)

黒体(ゴシック体)風の書体で、これもなぜか「尚」でなかった。通常は、規範化された書体ばかりが流されているのだが、これは台湾か香港などのフォントなのだろうか。

繁体字だらけの画面に、「(辶)」というパーツを使った2点の明朝(中国では宋体)と、その1点の手書き風のゴシック体とが同時に出た。もちろんこれは自然なことであって、無理に統一させる必要はなかろう。

中国も、半世紀以上続いた簡体字政策に、見直しの声が出てきている。識字率が半世紀余りをかけて飛躍的に上昇した今、繁体字に香港や台湾の経済的な繁栄が感じられるとの声を聞くことが増えた。しかし、先日、国務院より、「通用規範漢字表」が公布され、これまでの路線が堅持されることが明らかとなった。関係者から話は聞いていたが、いつ出るのか、頓挫したのかとも思われたものだった。

http://www.gov.cn/zwgk/2013-08/19/content_2469793.htm

テレビでも「漢字英雄」や「中国漢字書き取り大会」といった番組が放送されるようになったというのは、どこかの国の後を追っている、真似なのだろうか。この国でも、パソコンのせいで漢字が書けなくなってきたという、お決まりの話がしばしば聞かれる。筆画を再生するための筋肉運動などを経ないことが増えたのは事実だが、過去との差の有無や現象に関する因果関係の証明は意外と難しい。

CMでは、「マンゴー」と聞こえてパッと見ると「芒果」という字が出ていた。空耳ではなく、もともと英語の名詞に音を近づけて造った音訳語だ。「イッパン」と「イーパン」(一般)が聞こえることは発表でも日常でもある。中国語でも、○ッ○(半濁音)のようになりやすいのだろう。nian4も「ネン」と聞こえることがある。

中国では、コーヒーは「(口+加 口+非)(口+加 口+非)」だが、最近、日本風の「珈琲」も看板で見るようになってきたそうだ。日本で人気の高いこの当て字が、中国では日本らしいコーヒーという情報を伴っているのだろう。香港、台湾でも同様なのかもしれない。


最近、韓国では「コーヒー」(コピ)のことを「加比」「珂琲」と書く店が増えたという話を留学生の一人から聞いた。近年、「カビ」という映画に出てきたためだという。「珂琲」は朝鮮漢字音では「カベ」のはずだが、「非」からの類推読みも一部で行われる。この映画はどこまでが史実なのだろうか。

当時の出来事に関する歴史用語「露館播遷」がより古い中国風(オロシアのようなロシア語の発音に近い)の「俄館播遷」に統一されたのは、俄(にわか)という意味にしたのだとか、「俄館露遷」とも言うことがあるとかいった言説を見ると、何か後付けが行われているように思えて、気になる。

「珂琲」は、日本でも古くは見られたものだが、日中韓で表記が分かれたのは興味深い。韓国では、東洋的な喫茶店(カペ(カフェ) 茶房(タバン)は田舎の妖しいサービス付きの店というニュアンスが強まったそうだ)の看板に店名などで、日本風の「珈琲」もまた見受けられる。韓国人も、これらのハングルよりも大きく書かれるコーヒーの当て字に対しては、本格的で高級なコーヒーを出してくれる、コーヒーの歴史に詳しい喫茶店のようだと情緒を感じるそうだ。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。