歴史を彩った洋楽ナンバー ~キーワードから読み解く歌物語~

連載第100回記念 特別編 TOMMY(1969/全米アルバム・チャートNo.4,全英No.2)/ ザ・フー(1964-)

2013年9月25日
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アルバム(オリジナルLPは2枚組)のエピソード

ロック・ミュージック史上初の“ロック・オペラ”と呼ばれる、壮大なスケールで描かれた…云々という説明は、この緻密にして時に強引なストーリー展開(最初から強引?)で以て、有無を言わせず聴く者たちをその世界観へと導く本アルバムには、もはや不要だろう。そうしたことは、過去にくり返しくり返し日本のロック音楽評論家のお歴々(何故だか男性が多い)に語られ尽くされてきたから。ここで筆者が語りたいのは、キース・ムーンの激しくもしなやかな超絶技巧のドラミング云々、ピート・タウンゼントの曲作りの妙と心地好い狂気を醸し出すギター奏法云々、一見寡黙ながら実は最もキャラ立ちしているジョン・エントウィッスルの驚愕ベース速弾き演奏云々、そして無骨にして繊細、パワフルで実はかなりセクシーでもあるロジャー・ダルトリーの唱法云々…ではない。ましてや、枕詞のように必ずついて回る“破壊的なバンド(ザ・フーはステージ上でギターやアンプ、ドラム・キットなどを惜しげもなく壊しまくるパフォーマンスで有名だった)”などと安直に彼らを形容したくはない。筆者は昔、ザ・フーに関する文章をチラチラ読んだ際、そうした文章を目にした記憶が長年かけて頭の中に蓄積されてしまい、その先入観のせいで彼らを敬遠し続けてきた。例えばそれは、マルコムX=過激な思想を持った社会活動家という先入観を、アフリカン・アメリカン関連の歴史書によって植え付けられてきたことにも似ている(ただし、1992年公開のデンゼル・ワシントン主演、スパイク・リー監督作品『MALCOLM X』以降は、その凝り固まったイメージがやや緩和され、マルコムXの実像が語られることが多くなったような気がする)。ザ・フーに対するそうした先入観が薄れてきた頃――正直に言えば、同バンドの存在などすっかり雲散霧消してしまっていた頃――に、筆者は先入観ゼロで彼らの音楽に耽溺するに至った。きっかけは、このたび本連載100回記念として取り上げた、“歴史を彩ったナンバー”ならぬ“歴史を彩ったアルバム”の『TOMMY』である。この場で語りたいのは、同アルバムのストーリーに綴られた“言葉”の数々について。筆者がザ・フーにここまでのめり込んだ最大の理由は、洒落っ気タップリでありながら、シンプルな言葉を用いつつ、じつはとてつもなく奥深い彼らの歌詞にある。更に言えば、ラヴ・ソングなどはかなりエロティック。なのに、少しもいやらしくないのだ。聴けば聴くほど、その歌詞の面白さと深遠さに引き寄せられる。そして一緒に歌いたくなる(既にザ・フーの歌詞を100曲ぐらい暗記/笑)。

記憶にある限り、筆者は『TOMMY』の歌詞について熱心に綴られた日本語の“活字”を読んだ試しが一度もない。大まかな内容を筆者に初めて説明してくれたのは、同業者で呑み友だちでもある高見展(たかみ・まこと)氏である。彼ほど『TOMMY』のストーリーの奇天烈さと奇抜さ、そして悲惨さを理解しているロック愛好家を、筆者は寡聞にして他に知らない。高見氏から『TOMMY』の的確な内容説明を賜った翌日から、筆者は取り憑かれたようにこのアルバムを聴いた。否、今でも日に一度は聴かないと禁断症状が起きてしまうほどの惚れ込みようである。そんな自分に最も驚いているのは、じつは自分自身かも知れない(苦笑)。否、もうひとりいた。遡ること今から10数年前、最初に筆者に『TOMMY』を聴かせた張本人の家人である。昨夏あたりから毎日毎日、暇さえあれば『TOMMY』を永遠リピートで聴き続け(そして歌い+踊り続け)る筆者を徐々に訝しがるようになり、終いには「どうしちゃったの?!」と驚かれた。最近では、筆者の仕事部屋から大音量で『TOMMY』がノン・ストップで流れていても、もう何も言わなくなった。呆れ果てているとしか思えない。今のまま黙っていてくれれば、こちらも助かるが……(苦笑)。『TOMMY』に聴き入っている時に家人に話し掛けられるだけで不機嫌になる。ずっと黙っててくれれば、と。

幼児期の残酷な体験により、三重苦――見えない、聞こえない、話せない――を背負ってしまった少年が、やがて大人になり、ピンボールの王者として衆目を集め、それを機に三重苦から解放されて新興宗教の教祖として崇められる……云々というストーリー展開もまた、ザ・フー愛好家やロック愛好家なら先刻ご承知だろうし、ご興味のある方ならネットで調べればすぐに調べられる世の中である。従って、ここではストーリーを割愛させて頂く。ちなみに、1975年に公開された映画版『TOMMY』のストーリーとアルバムのそれとは微妙に異なるが、そのことに関しても、ここで触れるには紙幅(画面幅?)が足りないので黙殺することにする。但し、同映画は一見の価値あり。一見すると、人気ロック・バンド=ザ・フーとその他のロック・スターたち――エリック・クラプトン、エルトン・ジョン、アーサー・ブラウン(怪演!)、R&B界からはティナ・ターナー(これまた怪演!)――が出演した荒唐無稽でバカバカしい映画に思えなくもないが、そのじつ、映画の中には様々な仕掛けとアンチテーゼが溶け込んでいて、観る度に戦慄を覚える。とは言え、それは背筋も凍る戦慄ではなく、「そうだったのか!」と、観る回数が増える毎に、新しい発見をもたらしてくれる鮮烈さを内包した戦慄だ。

筆者がこれほどまでにロックのアルバム(曲単位ではなく)を傾聴したのは生まれて初めてである。また、ロックのインストゥルメンタル・ナンバー(本アルバムでいえば「Overture」と「Underture」)を聴いて号泣したのも初体験。歌詞がないというのに泣ける音楽がこの世にあったなんて……! “強引に”その世界へと導かれたと気付いた時には、もう後戻りできなくなっていた。傑作、名盤、不朽の名作――このアルバムを前にしては、それらの賛辞すらも吹き飛ぶ。筆者は、このアルバムを表現する言葉を持ち合わせていない。頭の中にインプットされているオリジナル国語辞典&類義語辞典のページをいくら繰ってみても、ひと言で『TOMMY』とは何ぞや、を表す言葉を見つけ出すことはできなかった。しかしながら、歌詞については語る言葉を持ち合わせているつもりだ。少なくとも、インストゥルメンタル・ナンバーを始めとして、収録曲のほとんどが筆者の涙腺を粉々に破壊したのだから。初めて本アルバムを通して傾聴し、そして思わず泣き崩れてしまった時から、筆者は冷静な状態で『TOMMY』を聴くことができなくなってしまった。コンセプト・アルバムとは、その世界観にリスナーたちを入り込ませた時点で、存在価値を持つ。この『TOMMY』、そして本連載第1回目を飾ったマーヴィン・ゲイ「What’s Going On」(1971)の同名アルバムのように。

本連載第82回でザ・フーの「Baba O’Riley」(1971)を採り上げた際、筆者はありったけの称賛を込めて彼らのことを“イギリスのロック・ミュージック界が生んだ最大の至宝”と呼んだ。が、“ロック・オペラ”なる新ジャンル(?)に果敢に挑戦した本アルバムはもちろんのこと、彼らは“ロック”というジャンル内に留まっていないと思う。これの前作『THE WHO SELL OUT』(2ndアルバム/全米アルバム・チャートNo.48,全英No.13)と前々作『A QUICK ONE』(1966/全米アルバム・チャートNo.67,全英No.4)を聴いてみても、そこには様々な音楽の要素が溶け込んだり凝固したり、時にはパズルのピースの如くバラバラに散らばっていたりする。でありながら、それぞれが確固たるコンセプトを持ち、とても同じバンドによる作品とは思えないほどに、驚くべき進化を遂げているのだ。デビュー・アルバム『MY GENERATION』(全米ではチャート・インせず。全英アルバム・チャートNo.4)こそアメリカのブルースやR&Bを強く意識した、ゴツゴツとした作りになっていたが、ピートの曲作りの師とも言うべきマネージャー兼プロデューサーだったキット・ランバート(Kit Lambert/1935-1981)と初めて手を組んだ2ndアルバム以降は、堰を切ったようにコンセプト色を際限なく強めていき、そしてランバートが関わった最後の作品にしてロック・オペラ第二弾とも言われる『QUADROPHENIA(邦題:四重人格)』(1973/全米、全英共にアルバム・チャートNo.2)で、そのコンセプト色の濃さは頂点に達する。この『TOMMY』に関して言えば、ザ・フーとランバートの蜜月が生んだ、空前絶後の結晶であろう。

アルバムの主旨

これはあくまでも個人的な見識だが、『TOMMY』を聴き込んでいくうちに、筆者は本アルバムの主人公トミーと、1973年に集団自殺を遂げたキリスト教系の新興宗教(カルト教とも言われる)、People’s Temple(人民寺院/1955年設立)の創設者、ジム・ジョーンズ(Jim Jones/1931-1978)の姿とがダブッて見えるようになった。端的に言えば、これは当時のアメリカ社会に対するシニカルなアンチテーゼなのではないか、と。映画版『TOMMY』を観たため、視覚的要素が筆者の頭の中に刷り込まれてしまったせいもある。例えば、成長しても三重苦のままのトミーが母親に連れられて行く新興宗教の教会には、ハリボテの大きなマリリン・モンローの像があるし(そしてトミーは無意識のうちにその像を倒して壊してしまう)、前線で戦うアメリカ兵(と思しき人々)の間をトミーが嘲笑しながら走り抜けるシーンもある。アルバムでも映画でも、トミーは戦争で父親を亡くしたという設定であるため(実際には生存していて帰還するのだが……)、同シーンには反戦への強い思いが込められているのでは? さらには、見てすぐにそれと判るハーレーダヴィッドソンを乗り回すアメリカのバイク野郎たちの頭上から、教祖様にならんとするトミーが巨大カイトに乗って降下して来るシーンもある。もちろん、(ヴェトナム)戦争に対する反戦の思いが投影されたシーンも……。

1969年のヒット曲を採り上げる度に、この年の特異さ、あるいはある種の異常さなどについてくり返し言及してきたが、この『TOMMY』もまた、そんな激動と狂乱の1969年にリリースされたことは、決して偶然ではないと筆者は考える。と同時に、1969年という年にこれほどまでに未来の世界を鋭い眼差しで覗き見た作品が世に送り出されたというのは、奇蹟としか言いようがない。後に多くのR&B/ソウル系アーティストのみならず、ロック・アーティストたちにも多大な影響を与えたマーヴィン・ゲイの『WHAT’S GOING ON』(全米アルバム・チャートNo.6,R&Bチャートでは9週間にわたってNo.1/ゴールド・ディスク認定)よりも、2年早いリリースだった(筆者はその事実に直面した時、腰が抜けるほど驚愕したものだ)。そしてザ・フーは、1969年に行われた世紀の音楽の祭典WOODSTOCKでの伝説的パフォーマンスによって、本格的なアメリカ進出を果たす。また、『TOMMY』の収録曲は、オリジナル・メンバー2名(キースとジョン)を失った今でも彼らのライヴには不可欠である。

ザ・フー愛好家の方々には言わずもがなの事項だろうが、念のために記すと、本アルバムの構成を思いついたピートは、「Baba O’Riley」の回でも言及したように、インドの神秘家メヘル・バーバー(1894-1969)に強く傾倒しており(一時はバーバーの写真を入れたペンダントを首からぶら下げていたほど)、着想の出発点はバーバーであった。映画『TOMMY』の中で、トミーを演ずるロジャーが巨大なピンボールの上に座り、信者たちに向かって摩訶不思議なポーズをとるシーンは、バーバーの身振り手振りをなぞったものに外ならない。

1969年の主な出来事

アメリカ: 8月15日から3日間にわたり、ニューヨーク州サリヴァン郡べセルにおいて、大々的な音楽の祭典、ウッドストック(同地近隣の村の名前に由来/正式名は“The Woodstock Music and Art Fair”)が開催される。
日本: 1月18日~19日の2日間、学生たちが東京大学の本郷キャンパスを占拠し、警察隊を相手に激しい攻防戦を繰り広げる。世にいう“安田講堂事件”。
世界: イギリスは北アイルランドを拠点とする保守政党のアルスター統一党に属するプロテスタント系とカトリック系の両派が衝突し、各地で暴動が発生。

1969年の主なヒット曲

Albatross/フリートウッド・マック
Where Do You Go To (My Lovely)/ピーター・サーステッド
In The Ghetto/エルヴィス・プレスリー
Honky Tonk Woman/ローリング・ストーンズ
Bad Moon Rising/クリーデンス・クリアウォーター・リヴァイヴァル

TOMMYからのヒット曲(×3曲)のキーワード&フレーズ

「Pinball Wizard」(全米No.19,全英No.4)

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(a) plays a mean pinball
(b) play clean
(c) crazy flipper fingers

邦題を「ピンボールの魔術師」という。もちろん“ピンボールのチャンピオン”を指しており、主人公トミーは突如としてその座に君臨することに……。映画の中で“ピンボールのチャンピオンの座を奪われる”役を演じたのは、本連載第85回で採り上げたエルトン・ジョン。(a)は、その元チャンピオンがピンボールを操るトミーの手さばきに感服して発する言葉。形容詞としての“mean”には「卑劣な、下品な、浅ましいまでの、卑しい、薄汚い、惨めな、荒れ果てた、うらぶれた、恥辱にまみれた…etc.」という徹底的にネガティヴな意味の他に、口語的扱いながら、それとは真逆の「並外れた、素晴らしい、もの凄い」という意味もある。これは、口語や俗語(スラング)に頻繁にみられる“意味の逆転”の現象と同じで、例えば“bad=最高の、素晴らしい(←今では死語に近い)”などはその好例。したがって、(a)は「汚い裏の手を使ってピンボールをやる」のではなく、「(トミーの)ピンボールの手さばきが超人的だ」と歌っているのである。思い切った意訳をするなら「トミーの超人的なピンボール操作に完敗」といったところか。

(b)はカタカナ語としても通じる「クリーンな、清潔な」という意味を持つ“clean”を含んだフレーズだが(ここではもちろん副詞として使われている)、それ以外にも「巧妙に、鮮やかに」という意味も持つということを、みなさんはご存知だろうか? 恥ずかしながら、筆者はこの曲を聴くまで知らなかった。ここも意訳するなら「(トミーは)正々堂々とピンボールの勝負に挑んでいる」となるだろうか。

(c)にある“flipper”という単語に馴染みがない、という人も少なくないだろう。筆者もまた、この曲で初めて同単語を知ったクチで、意味は「ピンボールの台のボールを打ち返すアーム部分」。つまり(c)はトミーのピンボール操作の卓抜した技術を褒め称えているフレーズで、「(奴のピンボールの手さばきは)とてつもなく凄い」と驚嘆しているのだ。ここでの“crazy”は「おかしな、気の触れた」ではなく、“ブッ飛ぶような”という感覚に近い。

「I’m Free」(全米No.37,全英No.4)

●歌詞はこちら
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(a) taste of ~
(b) what it takes to ~
(c) be that simple

三重苦から解き放たれ、視覚と聴覚、そして“声”、更に言えば“精神”を取り戻したトミー。邦題を「僕は自由だ」という。直訳である。確かに“三重苦から解き放たれて自由になった”という解釈も成り立つだろうが、筆者はこの邦題に納得していない。何故なら、トミーはどこかに幽閉されていたわけでもなければ、投獄されていたわけでもないからだ。彼が何から“自由になった”のかと言えば、残酷な幼児体験によって彼が閉ざされてしまった“彼の心の闇”から、である。筆者がこれに邦題を施すとしたら、「トミーの覚醒」であろうか。もっと飛躍するなら「新生トミー」なんていうのはどうだろう?

(a)でトミーが“味わっ”ているのは“freedomがもたらしてくれるreality(現実世界)”。筆者はこれを「魂の解放」と同義だと解釈した。肉体のみならず、トミーの精神と魂もまた、暗闇に閉ざされたままだったのだから。(b)は辞書の“taste”(動詞)の項目に載っており、「~を味わう、~を経験する」という意味。三重苦から解き放たれたトミーは、肉体及び魂の解放感の歓びに浸っているのである。ただ単に何かから放たれて「自由の身になった」わけではない。

ジャンルを問わず、洋楽ナンバーでしばしば見かける表現の(b)は、「~するのに必要なのは、~するには」という意味で、ここでは「(精神の)高みのまたその上の高みに到達するには」と歌われているフレーズで用いられている。その「高み」が“Tommy’s Holiday Camp(トミーが教祖の新興宗教の名称)”及び教祖トミーによる“洗脳”であることは、火を見るより明らか。明るくて溌剌とした曲なのだが、その内容は……怖過ぎる。

日常会話の中でも頻繁に用いられる(c)は、“It’s simple.(簡単だよ)”と言うよりももっと語気が強く、「朝飯前だ」、「チョロいもんさ」という日本語のニュアンスに近い。(c)では「世の中にチョロいもの(=努力なしに成し遂げられるもの)なんてひとつもない」と歌われているが、ここは信者たちのセリフで、彼らは、「(教祖様は高みのまたその上の高みに到達する秘策を教えて下さるとおっしゃるが)何事もそう簡単にいくものじゃない」と思っているのだ。そしてやがて信者たちは、教祖トミーが説く“高み”へと到達する前に、Tommy’s Holiday Campのインチキさに気付き、敷地内の広い庭に設置された夥しい数のピンボールの台を次から次へと破壊しつつ、彼のもとを去って行く。そして――

「See Me, Feel Me」(全米No.12,全英ではチャート・インせず)

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https://www.google.com/search?&q=See+Me+, +Feel+Me+lyrics

(a) at someone’s feet
(b) get opinions
(c) get the story

筆者が本アルバム収録曲の中で、最も胸を打たれる曲のひとつ。筆者の友人がTVで映画『TOMMY』が放映された際にダビングしたDVDを貸してくれたのだが、筆者は(a)が歌われるシーンの字幕が「(あなたの)足元で」と直訳になっているのを見てガッカリしてしまった。一見、誤訳ではない。しかしながら、(a)には「~の足元で」の他に、「~に心酔して、~に魅了されて、~に服従して」という意味もあるのだ。もっと言うなら、“sit at someone’s feet”は「~を崇拝して、~の門弟である」という意味。そこには「かしずいて、ひざまずいて」というニュアンスが含まれていることは、言うまでもないだろう。であるから、「(教祖トミーの)足元で」というのは直訳による誤訳と言わざるを得ない。ここは間違いなく「(あなたに)服従して、心酔して、魂を奪われて」という意味なのだから。いずれにせよ、筆者は『TOMMY』を字幕なしで観たいがために(知り合いの編集者/フリーライターさんがDVDをプレゼントしてくれた!)、アルバムの歌詞を暗記したようなものだ(とは言え、まだ数曲を憶えきっていない。何とかせねば…)。蛇足ながら、主演のロジャーにはセリフがひとつ(!)しかない。それは、母親と義父(母親の再婚相手)が信者たちによってなぶり殺しにされるシーンでの絶叫“Noooooooooo!”だけ(苦笑)。ロック・オペラのアルバムが映画化されると、必然それはミュージカル映画になる。そしてミュージカル映画は(ここが肝心なところ)、“絶対に吹き替えが出来ない”のである。少なくとも、筆者は最初から最後までほとんど歌いっぱなしのミュージカル映画の吹き替えヴァージョンというのを観た(聴いた)記憶がない。“歌”でストーリーを構築していくのだから、やはり字幕には、通常のドラマ仕立ての映画以上に細かな気遣いが必要なのではないか、と思う。僭越ながら。「あなたの足元で心を震わせる」……ダメだ、やっぱり納得できない!

ここでクイズ。(b)と(c)の違いは何でしょう? 答えは(お気付きの方もいらっしゃるとは思うが……)ズバリ“定冠詞theの有無”。(b)の“opinions”に定冠詞が付いていない理由は、信者たちが教祖様トミーの「考え」(と、件の友人から借りたDVDの字幕では訳されている)をまだ聞かされていないから。ここも「考え」ではなく「教え」や「思想」ぐらいに訳しておけば、もっとトミー=教祖様の雰囲気が伝わると思うのだが、如何だろうか。翻って(c)には、バッチリ定冠詞theが“story”の前に付いている。もちろん、意図的に定冠詞を施してあるのだ。何故か? ここは借りたDVDを観た際に最も違和感を覚えた字幕で(何度もあげつらうようで申し訳ないが……)、単純に「物語」と訳されていた。これまた初めて目にした際に、たとえようもない違和感に襲われた。もちろん、字幕に文字数制限があり、ましてや場面展開の速いミュージカル映画ともなれば、最小限の文字数で字幕を施すように、とのお達しがあるだろう。そこでこの「物語」を異なる二文字の日本語に置き換えてみた。「歴史」、「伝記」、「過去」、「経験」――信者たちは、教祖様トミーのお言葉に耳を傾けることによって、“「その」story(=三重苦を背負った原因と覚醒に至るまでの経緯)”を受け止めるのである。よって、信者たちは「(教祖様の教えに従うために)ピンボールをプレイしなければならないのだ。「物語」? 何の?――意味不明。定冠詞がある以上、“story”は既に語られたり経験されたりしたものでなければならない。すなわち(c)は教祖トミーの「これまで生きてきた人生」とイコールなのだ。誰とも知れぬ人が綴った「物語」ではない。この曲は、アルバムでも映画でも終盤に歌われ、最も感動的な箇所であるのに……(募る不満!)。筆者は定冠詞を軽視することをよしとしない。仮に(b)が“THE opinions”であったなら、自ずとその意味合いも変わってくる。筆者は今、ザ・フーの半世紀にも及ばんとする“THE story=歴史”を猛追中だ。

過日、『TOMMY』のSuper Deluxe Editionが今秋にリリースされると、ザ・フーの公式オフィシャル・サイトで正式に告知された。

名作であるがゆえに、過去に何度も何度も手を変え品を変え『TOMMY』の別ヴァージョンがリリースされてきた。しかし、今回は“SUPER DELUXE”と銘打ってある以上、これで本当に最後なのでは、という気もする。個人的には、ピートが心酔するバーバーが亡くなった1969年にリリースされたオリジナル盤LPのヴァージョンが、『TOMMY』の世界観を最も端的に余すところなく伝えていると考えるので、これ以上の別ヴァージョンは不要なのだが……(と言いつつ、告知を目にしたその日のうちに『究極盤TOMMY』を予約/笑)。初めて『TOMMY』を聴いてみよう、という方々には、やはり最初のオリジナル・ヴァージョンのアルバムをお薦めしたい。

最後に。筆者は人生約半世紀にして、『TOMMY』によって人生観が大きく変わった。大袈裟に言えば、これまでの人生を根底から覆された。人間、長いようでいて短い人生の中で、「生きていて良かった!」と心の底から思えるアルバムには、そうそう巡り会えないものである。筆者にとっての『TOMMY』とは、まさにそういう作品であり、救世主のような存在だ。もちろん、救世主は架空の人物トミーではなく、このとてつもない作品を1969年に世界にもたらした、イギリスのロック界、ひいては音楽界が生んだ最高の至宝=ザ・フーである。

筆者プロフィール

泉山 真奈美 ( いずみやま・まなみ)

1963年青森県生まれ。幼少の頃からFEN(現AFN)を聴いて育つ。鶴見大学英文科在籍中に音楽ライター/訳詞家/翻訳家としてデビュー。洋楽ナンバーの訳詞及び聞き取り、音楽雑誌や語学雑誌への寄稿、TV番組の字幕、映画の字幕監修、絵本の翻訳、CDの解説の傍ら、翻訳学校フェロー・アカデミーの通信講座(マスターコース「訳詞・音楽記事の翻訳」)、通学講座(「リリック英文法」)の講師を務める。著書に『アフリカン・アメリカン スラング辞典〈改訂版〉』、『エボニクスの英語』(共に研究社)、『泉山真奈美の訳詞教室』(DHC出版)、『DROP THE BOMB!!』(ロッキング・オン)など。『ロック・クラシック入門』、『ブラック・ミュージック入門』(共に河出書房新社)にも寄稿。マーヴィン・ゲイの紙ジャケット仕様CD全作品、ジャクソン・ファイヴ及びマイケル・ジャクソンのモータウン所属時の紙ジャケット仕様CD全作品の歌詞の聞き取りと訳詞、英文ライナーノーツの翻訳、書き下ろしライナーノーツを担当。近作はマーヴィン・ゲイ『ホワッツ・ゴーイン・オン 40周年記念盤』での英文ライナーノーツ翻訳、未発表曲の聞き取りと訳詞及び書き下ろしライナーノーツ。

編集部から

ポピュラー・ミュージック史に残る名曲や、特に日本で人気の高い洋楽ナンバーを毎回1曲ずつ採り上げ、時代背景を探る意味でその曲がヒットした年の主な出来事、その曲以外のヒット曲もあわせて紹介します。アーティスト名は原則的に音楽業界で流通している表記を採りました。煩雑さを避けるためもあって、「ザ・~」も割愛しました。アーティスト名の直後にあるカッコ内には、生没年や活動期間などを示しました。全米もしくは全英チャートでの最高順位、その曲がヒットした年(レコーディングされた年と異なることがあります)も添えました。

曲の誕生には様々なエピソードが潜んでいるものです。それを細かく拾い上げてみました。また、歌詞の要旨もその都度まとめましたので、ご参考になさって下さい。