タイプライターに魅せられた男たち・第115回

ジェームズ・デンスモア(8)

筆者:
2014年1月23日

1870年9月、デンスモアはショールズとともに、ニューヨークにいました。アメリカン・テレグラフ・ワークス社という電信関係の機器製造会社が設立される、というので、その会社の代表となるハリントン(George Harrington)とクレイグ(Daniel Hutchins Craig)に、新たに開発したタイプライターを売り込むべく、ニューヨークまでタイプライターを運んできたのです。この新しいタイプライターは、以前の「The American Type Writer」に較べると、格段の改良がなされていました。キーボードは、ピアノに似た鍵盤ではなく、ボタン型になっていて、その手前に、端から端まであるスペースバーを配置していました。文字を印字する部分は、カーボン紙による印字をやめ、インクを浸した布製のリボンを原稿用紙の裏側に配置し、さらに原稿用紙の上から、プラテン(円筒型の重し)で原稿用紙を押さえるように改良しました。それに加え、下から跳ね上げられる活字を通常の鏡像活字にすることで、原稿用紙の裏側に直接印字する機構にしていました。

これらの改良は、ショールズたちがポーターの要求に答えるために、数々の工夫をおこなったものでしたが、一方それは、いくつかの弱点を伴うものでした。もっとも大きな弱点は、印字中の文字が全く見えないことでした。このタイプライターの印字は、原稿用紙の裏側におこなわれるので、ボタンを押している間は何を印字しているのか全くわからず、内容を確かめるためには、原稿用紙をいちいち持ち上げないといけないのです。しかも、印字そのものも、あまり精度が良くありませんでした。アメリカン・テレグラフ・ワークス社の若手技術者だったエジソン(Thomas Alba Edison)は、このタイプライターのことを、のちにこう酷評しています。

とても商売になるシロモノじゃなかった。とにかく、文字が行の中で全然そろってなかった。各文字ごとに1/16インチは上下していて、今にも行から逃げ出しそうな勢いだった。

デンスモアとしては、このタイプライターをハリントンに売り込むと同時に、あわよくばアメリカン・テレグラフ・ワークス社で製造してもらおうと目論んでいました。そうすれば、このタイプライターに関する特許使用料が、ショールズたちやその代理人であるデンスモアのもとに入ってくるからです。しかし、その目論見は、残念ながら外れてしまいました。

一方のクレイグは、会社経営者として、かなりしたたかな人物でした。ショールズとエジソンを競わせ、その結果、より良いタイプライターを完成した方からタイプライターを買い取って、それをハリントンの別の電信会社(オートマチック・テレグラフ社)で使いたい、というのがクレイグの提案でした。期限は1年後。デンスモアは、この条件を呑んで、ショールズにさらなる改良をさせるべく、新たなスポンサー探しに奔走しはじめました。

ジェームズ・デンスモア(9)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。