タイプライターに魅せられた男たち・第117回

ジェームズ・デンスモア(10)

筆者:
2014年2月6日

1870年10月3日、デンスモアはセントルイスにいました。ミシシッピ川に面する港湾都市セントルイスは、石油ブームの活況に沸き立っていました。「オイル・シティ」から西へ向かう蒸気船は、ピッツバーグからシンシナティへとオハイオ川を下り、さらにミシシッピ川を遡ってセントルイスへと至ります。セントルイスで石油樽は、貨車に積み換えられ、パシフィック鉄道を西へ、サンフランシスコを目指すのです。もちろんオイル・クリークから、アトランティック&グレート・ウェスタン鉄道を西に向かうルートもあるのですが、ミシシッピ川を渡る鉄道橋は、当時、ロックアイランドクリントンクインシーにしかなく、セントルイスの鉄道道路併用橋(Eads Bridge、橋長2000ヤード)は建設中でした。ある意味、ミシシッピ川によって、アメリカ合衆国は、東部と西部に分断されていました。その意味で、ミシシッピ川の西岸に位置する港湾都市セントルイスは、東部から西部への玄関口だったのです。

建設中のEads Bridge(1872年頃)、対岸はイリノイ州

建設中のEads Bridge(1872年頃)、対岸はイリノイ州

デンスモアは、ウェラー(Charles Edward Weller)というショールズの友人を頼って、セントルイス・フェアにタイプライターを出品展示していました。セントルイス・フェアは、セントルイスの農業機械業組合が毎年開催する見本市で、第10回見本市が10月8日までの開催でした。このセントルイス・フェアへの出品展示に際して、デンスモアは、セントルイスのファイヤー・アラーム&ポリス・テレグラフ社に勤めるウェラーを頼り、推薦状を書いてもらったのです。すでにウェラーのもとには、タイプライターの試作機が何台かショールズから届いており、ウェラーは推薦を快諾してくれました。

ただ、セントルイス・フェアに出品展示はできたものの、タイプライターに興味を示す会社は、なかなか現れませんでした。物珍しさもあってか、観衆の受けは良かったのですが、いざ商談となると、うまくいかないのです。デンスモアとしては、タイプライターを売り込むと同時に、セントルイスでタイプライターを製造してくれる会社を探していたのですが、残念ながらその目論見はうまくいかず、6日間に渡ったセントルイス・フェアを終えることになりました。

ジェームズ・デンスモア(11)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。