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第77回 性の婉曲表現

筆者:
2014年5月15日

排泄に関して上品に婉曲しようとすると,見立ては使いづらいことを前回確認しました。同じことは,性交に関する表現についても言えます。しかし,使いづらさの程度には差があるようです。排泄のトピックにおいてほとんど皆無であった見立ては,性に関する婉曲表現では若干ではありますが見受けられます。どのような経緯でそのような違いが生じるのか考えてみましょう。

まずその前に,性の婉曲表現においてもすり替えとぼかしが多用されることを先に確認しておきます。

(100) すり替えによる婉曲表現
  a. 〈全体で部分を言う〉 寝る;一夜を共にする,床を共にする
  b. 〈時間的に先行する行為〉 床に入る;ホテルに行く;契り(を結ぶ,を交わす),契る;抱く,身を任せる
  c. 〈抽象物で具体物〉 愛し合う,情けを交わす,情交
  d. 〈入れ物で中身〉 房事
(101) ぼかしによる婉曲表現
    する;関係を持つ,男女の関係になる;交渉,夫婦生活;経験,初体験;交合,交接,合歓;慇懃を通じる;最後まで行く[+見立て],全てを許す

「寝る」や「一夜を共にする」は,指示する行為の時間幅が広く,言及を避けたい当該の行為を時間的に包含します。(100a) は,このように時間的に広がりを持つ行為に言及することによって,そのものズバリを言わずにおく表現です。他方,(100b)はそこにいたるまでの出来事を取り上げることで核心をはずします。

(100c)は,実のところ分類に迷いを感じているのですが,すり替え(メトニミー)には伝統的に「抽象物で具体物を表す」という下位項目があるので,それに分類しました。具象的な肉体の行為に言及するのを避けるために,それに対応する心理的な感情(「愛」「情け」という抽象概念)を持ち出すという解釈です。もしくは,「愛」や「情け」という原因を取り上げることによって,性交という結果に対する言及を避けた,と考えてもよいかもしれません。

(100d)の「房事」とは,閨房(けいぼう),つまり寝室のなかでのことを表します。寝室という入れ物に言及し,その中身に当たる行為を言わないわけです。

(101)は,ぼかしを用いた婉曲の例です。何を「する」のか,どのような「関係」を持つのか,詳細については語らずぼかします。「慇懃を通じる」の「慇懃」は親しい交わりを指しますが,この場合は特定の「親しい交わり」を表します。「最後まで行く」という表現には,[+見立て]と書き入れてあります。それは,性交を到達点に据えた一連の過程を道のりに喩える見立てにのっとっているからです。ただ,何の「最後まで行く」のかを明らかにしませんので,ぼかしに分類しました。

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このように,性交に関する婉曲表現においてもすり替えとぼかしは豊富に見られます。排泄の場合よりもバリエーションが多いかもしれません。しかし,性の婉曲表現で特に目を引くことは,冒頭で述べたように,見立てを用いた表現が若干ながらも観察されることです。「結ばれる」や「落とす(落ちる)」がその例です。

「結ばれる」を性交の婉曲として用いる場合は,人をひものように見立てて互いが一体感を持つことに焦点を当てます。他方,「落とす」は相手を城に見立てて,その城を陥落させて自分のものにしてしまうわけです。英語でもtake(奪う)やsurrender(降伏する)という表現が,同様に用いられます。

これらの婉曲表現は,愛に対する慣用的な見方にもとづいています。「結ばれる」の背後には,「愛は対象との一体化である」という慣用的な見方が存在しています。愛にかかわる一般的な表現として,「一心同体」や「離れられない」といった表現がありますが,これらも「愛は対象との一体化である」に端を発します。

一方,「落とす」は,「愛は戦いである」という見方に下支えされています。「プレゼント作戦」や「(彼氏/彼女をゲットする)攻略法」も同根の表現です。

ここで重要なことは,「結ばれる」も「落とす」も性愛にかかわる心理的な側面を強調しつつ,婉曲をおこなう点です。たとえば,愛を戦いと見なす見方は,本来勝ち負けのない(少なくともはっきりとはしない)はずの性愛の問題に,勝ち負けを設定し,障害を乗り越える作戦を作り出します。「落とす」や「結ばれる」はそのものズバリを言わない点においてたしかに婉曲的ですが,婉曲をおこなうという目的のみでこれらの表現が使われるわけではありません。性愛の心理面に関心を持たないなら,話者はきっとほかの表現を選ぶでしょう。性の婉曲表現に若干であっても見立てが用いられるのには,このような事情によります。

しかし,排泄の問題はこれと対照的です。性愛を語る際に心理的な側面が重要になることはじゅうぶん考えられますが,排泄はつとめて具体的な肉体の行為です。排泄のある側面を見立てによって理解する必要は,ふつう存在しないのです。そして特段の必要なしに見立てを用いると,前回確認したように避けたいイメージを逆に喚起してしまいます。そのような訳で,真面目な婉曲を意図する場合,排泄の表現に見立ては使われないのです。

筆者プロフィール

山口 治彦 ( やまぐち・はるひこ)

神戸市外国語大学英米学科教授。

専門は英語学および言語学(談話分析・語用論・文体論)。発話の状況がことばの形式や情報提示の方法に与える影響に関心があり,テクスト分析や引用・話法の研究を中心課題としている。

著書に『語りのレトリック』(海鳴社,1998),『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版,2009)などがある。

『明晰な引用,しなやかな引用』(くろしお出版)

 

『語りのレトリック』(海鳴社)

編集部から

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