タイプライターに魅せられた男たち・第153回

山下芳太郎(8)

筆者:
2014年10月23日

1905年2月21日、山下が所属する第11師団は、奉天の南東40kmの清河城に迫り、そこでロシア軍との戦闘を開始しました。ロシア軍は2月25日に清河城を放棄、撫順への狭い山道とそれに続く高地で、日本軍を迎え撃つという作戦に出ました。戦局は一進一退となり、第11師団は消耗を続ける一方で、清河城からほとんど進軍できず、奉天に辿り着くことができませんでした。ところが3月9日になると、ロシア軍が暫時退却を始めたことから、第11師団は撫順へと進軍します。すでにロシア軍は奉天を放棄しており、第11師団はロシア軍を追いかける形で、3月19日には営盤に到達します。その後、第11師団は、さらに100km北東の英額城まで進軍し、そこで9月5日の終戦を迎えました。10月16日には全ての軍事行動が停止となり、山下たちは、日本へと凱旋の帰途に就きました。

帰国した山下を待っていたのは、内閣総理大臣秘書官の椅子でした。1905年12月21日の桂太郎内閣総辞職にともなって、1906年1月7日、西園寺内閣が成立しました。西園寺は翌1月8日、山下を、内閣総理大臣秘書官に指名したのです。これに合わせて住友は、山下を住友本店副支配人に着任させ、そのまま永田町の総理大臣官邸に出向させることにしました。何とも無茶な人事なのですが、山下は、西園寺と住友の依頼に二つ返事で答え、西園寺のもとで、桂内閣時代からの秘書官である中島久万吉とともに、いきなり執務に取り掛かりました。

ただ、内閣総理大臣秘書官とは言っても、政治家としての経験が全くない山下は、西園寺の付き人に徹することを信条としたようです。西園寺と行動をともにし、西園寺に届く大量の書類や手紙に対しては、西園寺の裁可を必要とするものとそうでないものに分け、必要としないものには山下が返事を書きました。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm Viktor Albert von Preußen)の銀婚式に際して、山下は、永田町のドイツ大使館で祝辞を送っていますが、あくまで西園寺の祝辞を代読したという形を取りました。一方、4月20日には中島が秘書官を辞任したことから、西園寺は、京都帝国大学から中川小十郎を秘書官に指名しました。目まぐるしく変化する政治の世界で、山下は、何とか、内閣総理大臣秘書官としての職責を果たしていきました。

山下芳太郎(9)に続く)

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター教授。京都大学博士(工学)。文字コード研究のかたわら、電信技術や文字処理技術の歴史に興味を持ち、世界各地の図書館や博物館を渡り歩いて調査を続けている。著書に『新しい常用漢字と人名用漢字』(三省堂)『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

https://srad.jp/~yasuoka/journalで、断続的に「日記」を更新中。

編集部から

近代文明の進歩に大きな影響を与えた工業製品であるタイプライター。その改良の歴史をひもとく連載です。毎週木曜日の掲載です。とりあげる人物が女性の場合、タイトルは「タイプライターに魅せられた女たち」となります。